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84 反故

「きょ、恭太さん……」


「帰ったと思った?悪いけど、まだまだ帰らないから」


「え、えぇ~~……」


「でもまぁ、保護者が帰ってくるまでは大人しくしてるから、安心していいよ」



 飄々と言ってのけた恭太さんは、すっかりいつもの調子だ。

 さっきまで手に汗を握っていたのがバカバカしくなるが、それでもドアチェーンを外す気にはなれなかった。



「す、すみません。なんというか、いろいろあって……」


「そうみたいだね」


「みたいって……」


「小さい傷がたくさんある。この前の訓練では、そんな傷ひとつもなかったでしょ」


「……あ……」



 数日たって傷はだいぶ薄くなってきたが、よく見れば十分目立つ。

 さっき観察していたのはこれだったのだろう。


 そして訓練、という言葉でようやく思い出した。

 次の訓練は、土曜日の13時から病院で、という約束だったこと。

 そして今は日曜日。

 約束は、昨日だったのだ。


 無断で約束を反故にしたことに気付いた私は、さあっと血の気が引いていくのがわかった。

 だから小春さんも、何度も連絡を入れたと言っていたのだ。

 約束していた時間に、私が現れなかったから。

 今まで無断で約束を破ったことなんてなかった。

 だから余計に心配をさせてしまったのだと。



「ご、ごめんなさい!昨日は、そのっ」



 謝らなくては。

 とっさに口を開いたけど、罪悪感と焦燥感でうまく口が動かない。

 泣きそうになりながら言葉に詰まる私に、恭太さんは小さく吹き出した。



「ぷっ……ふふ、やっと思い出した?」


「ごめんなさい!ごめんなさい!!」


「ま、いいよ。それどころじゃなかったんでしょ」


「いや、でもその、本当に……その……」


「ちょっと落ち着けって」



 宥めるように答える恭太さんと、焦る私。

 そして呆れた声の雨音さん。

 なんともおかしな状況になっている気がする。



「昨日も自宅にも連絡したみたいだけどね、繋がらなったって言ってたよ」


「あ、昨日は母が出かけていて……私は家にいたんですけど、その、電話には出るなって」


「お父さんが?」


「……はい」



 恭太さんの声に、責める色はない。

 私は少しほっとして、緊張を緩めながら話を続ける。



「じゃあ、この状況もお父さんに知られたら怒られるんじゃない?」


「……多分」


「君が怒られるのは忍びないから、言いつけ通り隠れておいで。僕はこのおじさんと話でもしとくから」



 ぴっと恭太さんが雨音さんを指さす。

 雨音さんは「人を指さすな」と言いつつも、手をひらひらとさせながら私に戻るよう促す。


 私はペコリと頭を下げ、そっと玄関のドアを閉めた。

 とりあえず部屋へ戻ろうと階段をあがると、母に「どなただったの?」と訊ねられた。



「初めて見る方だったけど、どういうお知り合い?」


「えっと……」



 どうしたものかと思案する。

 正直に話したら、母のことだからお礼だなんだのと自宅に招き入れてしまいかねない。



「友だちのお兄さん。スマホなくしちゃって連絡取れないし、しばらく学校も休んでるから、近くにきたついでに様子を見に来てくれたみたい」


「あら、わざわざ申し訳なかったわね。上がっていただいたらよかったのに」


「このあと用事があるって言ってたから」


「そう。……お友だちって、この間家に来てくれた子?」


「ううん、違う子」



 どんどん積み重なっていく嘘に辟易しながら、何てことない風を装う。

 娘に友だちが増えている事実がうれしいのか、母は「そう」と目を細めていた。

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