82 警戒
小春さん、とこぼれ出た言葉に、受話器の向こうからため息をつく音が聞こえた。
気づくと、受話器を握りしめる手のひらが湿っている。
泣き出したいような気持ちで立ち尽くしている私の耳に飛び込んできたのは、勢いのいい小言だった。
『なんっども電話したのよ?!最初ガチャ切りされたかと思えば、それから全然つながらなくなるし!何かあったんじゃないかと気が気じゃなかったんだから!』
「え……あ……ごめんなさい……?」
『……まぁ、何はともあれ、無事でよかったわ』
穏やかな声に、少しだけ緊張が緩む。
小春さんを疑いたくはないが、無条件に信頼することもできない。
『さっき、恭太くんが来なかった?近くに行く用事があるから、様子を見に行くって言ってたんだけど』
何の気なく放たれた言葉に、強い不安感が戻ってくる。
返事もできずに黙りこくっていると『インターフォン鳴らしたけど、反応なかったって言ってたわよ』と小春さんが続ける。
つまりさっき私が居留守を使ったから、恭太さんは小春さんに私の自宅へ連絡を入れるよう頼んだのだろう。
自宅にいることがバレてしまう。
とっさに受話器を握る力を強め、小声で「恭太さんには黙っててください」とお願いしていた。
『黙っててって……何?何かあったの?』
「あ……っと、別にそういうわけじゃないんですけど」
『……ごめん。もう伝わってるみたい』
小春さんが言い終わる前に、再びインターフォンが鳴り響いた。
画面を振り向くのが怖い。
小さく震えながら動けずにいる間に、母が通話ボタンを押してしまった。
「はぁい。どちら様ですか?」
『三雲と申しますが、かすみさんはご在宅ですか?』
「ええ。少々お待ちください」
かすみ、と母が私を呼ぶ。
恐る恐る振り返ると、母は私の手に握られた受話器に気付いたらしく「あら」と眉を下げた。
「お客様みたいだけど、電話まだかかりそう?中でお待ちいただく?」
「う、ううん。ちょ、ちょっとだけ待って」
家に招き入れることだけは避けたい。
そう思い、母を制止する。
母は少し不思議そうな顔をしたが「もう少々お待ちくださいね」とだけ恭太さんに伝えていた。
『大丈夫?都合悪かった?』
「あ、いえ……」
『また改めて連絡するから、いったん電話切るわね』
「はい……また……」
ツーツーという電子音が鼓膜を揺らし、私はそっと受話器を置いた。
どうしよう。
そう思いながら、インターフォンの画面にうつる恭太さんの姿を眺める。
母に「お待たせしないの」とせっつかれ、仕方なく玄関へ足を動かす。
普段使用することのないドアチェーンをかけて、小さく扉を開いた。
狭い視界からは、恭太さんの姿しか見えない。
「……すごい警戒心だね」
呆れたように恭太さんが言う。
「す、すみません」
「……謝るのに警戒を緩める気はない、と」
「……すみません」
「ま、いいや」
恭太さんは薄く笑って、ドアに手をかけた。
「それで?何があったの?」
口元に優美に浮かべられた笑みとは裏腹に、その瞳は冷たく揺らめいていた。




