78 惨め
たったの1日ぶりだというのに、自宅の玄関に不思議と懐かしさを感じた。
ようやく帰ってきたという安堵感と、かつてないほどの疲労感。
父がインターホンを押すと間もなく、玄関扉が開かれた。
おかえりなさい、と笑う母は、信じられないほど普段通りで拍子抜けした。
思いきり抱き締められて、涙ながらに無事を喜ばれるものだとばかり思っていたから。
それこそ、雪成のお母さんのように。
「急にあちらの親戚のお宅に泊まるなんて、驚いたわ。お行儀よくできた?」
ぼろぼろの私に何の疑問も抱かず「お風呂沸いてるからね」と背中を向けた母を、茫然と眺める。
おそらく過度な心配をかけないよう、父がいい感じに言い含めていたのだろう。
そう頭での理解は追いついたが、気持ちがついていかない。
母は私に背を向けたまま、雨音さんに挨拶をしている。
父の友人がこの家を訪ねてくるのは、記憶にある限り初めてだ。
きっと母にとっても特別な来訪で、余所行きの笑みを浮かべた母を見ていると、どうしようもない気分になった。
私がさっきまで泣いていたのは、顔を見ればわかるはずだ。
それなのに、母は何も言わなかった。
つまり、私に向けられていたように見えた視線は、実質私をとらえてはいなかったということだろう。
唇を噛んで、靴を脱ぎ捨てた。
さっき雪成のお母さんに抱きしめられたぬくもりを思い出して、余計に惨めだった。
駆け上がるみたいに階段をのぼって、自室に飛び込む。
私の後ろ姿に父が何か言っていた気がするけど、とても聞き返す気分にはなれなかった。
ぐるぐると渦巻くような重い感情を抑え込むように、深呼吸を繰り返す。
それでもちっとも気分は治まらなくて、次から次へと涙があふれてきてとまらない。
さっきまでの涙はあんなに温かく感じたのに、今の涙には何の温度も感じない。
そのまま扉を背にして地面にうずくまる。
嗚咽をかみ殺しながら、グスグスと鼻をすすっていると、控えめなノックの音が背中に響いた。
「お姉ちゃん?帰ってきたの?」
遠慮がちな声に、肩が揺れる。
入るよ、とのどかがドアに手をかけたのがわかった。
それでもドアをふさぐようにしゃがみこんでいる私に引っかかって、ドアはちょっとの隙間しか空かない。
「お姉ちゃん?」
のどかが心配そうに言ってるのに、私は黙り込んだままだ。
大丈夫だと返事をしたかったけど、声を震わせずにいえる気がしなかった。
のどかは力づくでドアを開けようとしているのか、背中をぐいぐいとドアで押されてちょっと痛い。
のどかはうなるような声を出して、さらに力強くドアを押し開いてきた。
耐えきれずに前につんのめった私は、そのまま妹の侵入を許してしまう。
暗い部屋の中で情けなく床に転がる姉を、のどかが支えてくれた。
私は顔を見られたくなくて、目一杯顔をそらしていたが、所詮むだな悪あがきだ。
「え、めっちゃ泣いてる!」
そらした顔を覗き込んで、のどかが言う。
そして慌てたように、部屋着の袖口で私の顔をゴシゴシと拭く。
「え、なんでそんなぼろぼろなわけ?お父さんの親戚に会ってただけでしょ?え、どういうこと?」
「の、のどか……痛い……」
「あ、ごめんっ」
顔をこする力が強すぎて、ひりひりする。
ようやく手が離れていったかと思うと、不安げな瞳に覗き込まれた。
「っていうか、なんか怪我してるし、服すっごい汚れてるし、どうなってんの?」
「これは、別に……」
「別にとかじゃないじゃん!うっわ、足傷だらけ。早く洗って薬塗らなきゃ」
ぐいっと腕を引かれ、立ち上がるよう促される。
そしてそのままお風呂場に引っ張っていかれて、服を奪い取られ、中へ押し込まれた。
「着替え持ってくるから、しっかり洗ってあったまっといてよ!」
びしっと指さしながら言うのどかは、妹というより姉みたいだ。
パタパタと走っていく足音を聞きながら、私はようやく涙が止まっていることに気付いた。




