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73 傾斜

 ぐちぐちと文句を垂れ流す父を、雨音さんは頬を緩ませながら見つめていた。

 雪成も、予想通りの展開になったことに満足そうだ。



「ばかだなぁ」



 そういう雨音さんの声は、言葉とは裏腹に柔らかさを纏っていた。

 雨音さんは父の肩に腕を回し「もう下手な嘘つくなよ」と笑う。



「うるさい。お前のことなんかもう知らん。どこへでも行け」


「はいはい。ちゃんといっしょに行くって」


「いっしょに来なくていい」


「どこにでも行けって言ったろ。じゃあ、ついてってもいいだろ」



 カラカラと笑う雨音さんは、さっきまでの影を含んだ様子とは打って変わって元気だ。

 本来の二人は、こういう関係性だったんだな、と思う。


 改めて父の友だち、というと不思議な感じがする。

 父は休みの日は大体いつも家にいるし、飲み会なんかで家を空けることもほとんどない。

 友人づきあいの話が一切出ないから、友だちがいない人なんだと勝手に決めつけていた。


 今思うと、父はいつでも人間関係をリセットできるよう、深く人と関わってこなかっただけなのだろう。

 雨音さんに恨みがましい目を向けながら悪態をつく父は、普段よりもずっと幼く見えた。



「よかったな」



 こそっと雪成が耳打ちして、私は小さく頷いた。

 雪成はとびきりの笑顔で応えたあと、父と雨音さんに向かって「おじさんたちー」と呼びかける。



「じゃれつくのはそろそろおしまいにして、先に進みません?」


「じゃれ……ついてはないが、そうだな」


「そんじゃ、出発するか」



 促されて歩きはじめる私に、雨音さんが木の棒を差し出した。

 とりあえず手に取ってみるが、これをどうしろというかわからず、首を傾げる。



「ここから先、傾斜が急になる。滑りやすい靴だし、杖があった方が歩きやすいだろう」


「あ、ありがとうございます」


「下りのときは、前じゃなくて後ろに杖をつくように」


「はい!」



 しばらく進んでいくと、確かに今までと比べてずいぶん急な下り道に入った。

 迂回できないこともないが、整備が進んでいない道になるので、それはそれで危険が伴う。

 ゆっくりでいいと父に言われ、慎重に進んだ。


 足を滑らせた私を支えられるようにと、父が私の先を歩き、その後ろに雪成、雨音さんの順に続く。

 急な傾斜に足を取られないように腰を下げて歩くと、スカートの下の素足に木の枝がすれて痛い。

 しかし体を起こすと、今にも滑り落ちそうになるので我慢する。


 必死に歩いていると、雪成が小さく「あ」と声を漏らした。

 どうしたのかと振り向くと、なぜか思い切り顔をそらされた。

 表情は見えなかったが、なぜか耳の先が赤くなっていて、私は首をひねる。

 その後ろで、雨音さんが肩を震わせていて、ますます頭に疑問符が浮かんだ。


 変なの、と思いつつも前に向き直ると、父がすごい笑顔で雪成と雨音さんを見ていた。

 子どものころに何度か見た、笑っているのに怒っているときの父の顔だ。

 ますます意味がわからずにいたが、父に「気にしなくていい」とばっさり言われてしまった。



「先の開けた場所まで下るから、ふたりともそのまま待機しておけ。……ほら、かすみ。ゆっくりおいで」



 父の促されるまま、慎重に先を進む。

 途中ちらりと後ろを振り向くと、雪成と雨音さんはさっき足を止めた場所で、後ろを向いたまま立ち尽くしていた。


 ようやく下り終えて、体勢を整える。

 スカートの裾についた土を払おうと手を伸ばすと、スカートが思い切りめくれあがっていることに気付いた。

 慌ててスカートをおろし、先ほどのやりとりの意味を理解して赤面する。


 次からは絶対にスカートの下にジャージを履こう。

 そう心に決めて、私はスカートの裾を下へぐいぐいと引っ張った。

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