70 熱情
雨音さんは何も答えなかった。
でも、雪成に腕を引かれるまま、小屋を出て私たちについてきてくれた。
父は複雑そうな顔をしていたが、集落から離れることを優先したらしい。
反対を口に出すことはしなかった。
薄暗い森の中では、方向感覚が狂わされる。
父のあとについて歩みを進めているが、本当に森を下っているのかさえよくわからない。
父は勝手知ったる様子で、どんどんと先へ進んでいく。
よくもまあ迷わないものだと思ったが、時折雨音さんから訂正が入るため、正確に道を把握しているわけではないらしい。
父が集落を離れてずいぶん時間が経つ。
その分、森も大きく様変わりしているのだから仕方ないのだろう。
でもーー。
「雨音さんについてきてもらって正解だったな」
父に聞こえないよう、こそっと雪成が耳打ちきてきて、同意の意味を込めて頷く。
雨音さんがいなかければ、今頃道に迷っていたかもしれない。
少なくとも、雪成と二人では森を抜けることすら難しかっただろう。
改めて、あのとき雨音さんに遭遇して本当によかったと思う。
森の中は足元が悪く、落ち葉に足を取られて何度か転んでしまった。
雪成のスニーカーはまだしも、私のローファーは自然の中を歩くのに不向きだ。
だからといって、替えの靴なんてないからどうしようもない。
小屋の中には雨音さんの予備の靴もあったけど、サイズがまったく違うから履けっこないし。
転んだときに擦りむいた手のひらをさすりながら、それでも私は必死に歩き続けた。
「このあたりで少し休憩しよう」
足のむくみが気になり始めたころ、父が言った。
ちょうど腰かけられるサイズの岩がいくつかあったので、上が平らになっているものを選んで座った。
両足のふくらはぎがパンパンになっていたので、軽くマッサージをする。
「大丈夫か?」
心配そうな顔で父が訊ねる。
私が「大丈夫」だと答えると、目尻を下げて頭を撫でてくれた。
「森を抜けるまで、まだもうしばらくかかる。つらくなったら休憩をとるから、無理せず言うんだぞ」
「うん」
「雪成くんも平気か?」
「大丈夫っす。鍛えてるんで」
「それは頼もしいな」
ははっと父が笑う。
貼り付けたような作り笑いだと、ぼんやり思った。
「颯佑」
不意に、雨音さんが父の名を呼んだ。
父は雨音さんに顔を向けることなく「なんだ?」と返す。
それを見た雨音さんの顔は、ぐしゃりと歪んだ。
「……なんだよ、それ」
「何って言われてもな」
「自己中」
「悪いな」
「……そんなこと、思ってないだろ」
雨音さんは、手を強く握っていた。
ブルブルと震える拳が、深い憤りを秘めている。
「どうして連絡しなかった?」
「する理由がなかったから」
「黙って番号変えたのは?」
「今までの縁を全部切りたかったから」
「……俺の気持ちは?一度も考えなかったのか?」
「……悪かったな」
淡々と答える父の横顔からは、父が何を考えているのかまったく読み取れない。
少なくとも、感傷や罪悪感なんてものは、微塵も感じられなかった。
「事情があったのはわかってる。その子たちに話を聞いて、仕方なかったんだとも思った。でもさ、お前にとって俺はそんなに信用ならない存在だった?ずっと一緒にいたのに、黙って切り捨てられるほど軽い存在だったのか?」
父は無言だった。
表情を崩すことなく、ただ押し黙っている。
はたから見れば、父の反応はあまりに冷たい。
必死に訴える相手を一瞥もせず、まるで他人事だとでも思っているようだ。
「俺は、お前が頼むならどんなことだって協力したのに。どこまでだってついてって、助けになったのに」
消え入りそうな声で、雨音さんが続ける。
絞り出すような言葉が切なくて、苦しくて、聞いているだけで泣きたい気分になってくる。
でも、やっぱり父の表情は変わらない。
沈黙を貫く父に耐えきれず「おじさん……っ!」と雪成が声をあげる。
雨音さんを強引に連れてきたのは雪成だ。
だからこそ、このまま放ってはおけないのだろう。
雪成は雨音さんの気持ちが理解できると言っていたから、余計に。
私はじっと父の横顔を見ていた。
ぼんやりテレビを眺めているときのような、何気ない表情のままの父。
でも私は、父を責める気にはなれなかった。




