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59 羞恥

「降ろしてください。今すぐに」



 硬い声で、雪成が言う。

 老婦人は表情を崩さず、じっとこちらを見て微笑むばかりで返事はない。



「……降ろせっつってんだろ!」



 雪成が語気を強めたが、何の反応もなかった。

 そうこうしている間にも、車はどんどん進んでいく。


 窓の外に、高速のインターチェンジの看板が見えた。



「あの……どこへ……?」



 必死の声で訊ねる。



「あなたの本当の居場所へ」



 老婦人は、それだけ答えて前を向いてしまった。

 それから雪成や私が何を言っても、訊ねても、帰ってくるのは沈黙ばかりだった。





 車が走り始めてから、どれだけの時間が経っただろう。

 何を言っても無駄だとあきらめた私たちは、大人しく車に揺られることしかできずにいた。

 気づくと、雪成の手が私の手を握りしめている。

 子どものころは大きさなんてほとんど同じだったのに、今ではすっぽりと包まれるほど差がある。


 本当なら、異性と手を繋いだら心臓が壊れそうなほどドキドキするものだろう。

 それなのに今のこんな状況では、そんな胸の高鳴りは一切ない。

 猛烈な不安感。

 そして、雪成を巻き込んでしまったことへの後悔が心に渦を巻いている。



「……トイレ、行きたいんだけど」



 ぽつりと雪成が言った。

 車に乗って数時間は立っているから、当然の要求と言えばそうだろう。

 しかし、素直にトイレに行かせてもらえるとは思えなかった。


 高速道路を走る車は、いくつものインターチェンジやサービスエリアを素通りし、一度も止まっていない。

 逃げられることを警戒しているのだろう。

 少なくとも、高速で走り続ける車から脱出することはできない。



「逃げねぇから、トイレくらい行かせてくれてもいいだろ」



 そう言った雪成に、奥の席の男が袋を差し出した。

 雪成は差し出された袋を見て、ぽかんとしている。



「は?袋にしろって?」


「携帯用トイレだ。中に凝固剤が入っている」


「……無理無理無理無理。そういう問題じゃないだろ」



 雪成は青い顔をして首を横に振る。

 しかし男は携帯用トイレを雪成の膝の上に置き、話は終わりだと言わんばかりに窓の外に視線を移した。



「……まじかよ」


「……あっち、向いとくから」


「いや、いやいやいや、まじで無理」



 雪成の顔は耳まで真っ赤になっていた。

 こんなに至近距離に人がいる状態で用を足せだなんて無理だ、という気持ちは理解できる。

 私なら絶対にできない。

 そう思っていると、なんだか無性にトイレに行きたくなってきてしまった。


 慌てて違うことを考えようとしても、一度頭をよぎってしまうとダメだ。



「……やばい」


「……どうした?」


「私もトイレ……行きたくなっちゃった……」



 羞恥心からうつむいて呟くと、なぜか雪成の顔はますます赤くなった。

 そしてなにかを考え込んだあと、手に持っていた携帯用トイレをそっと差し出してくる。



「……いや、絶対無理。ほんっと無理」


「……気持ちはわかるけど、漏らすよりましだろ」


「そ、それでも絶対やだ。ユキも無理だって言ってたじゃん……!」



 泣きそうな気持で首を横に振っていると、男がもう一つ袋を取り出してきて、涙があふれた。

 そのままグスグスと泣き続けていると、老婦人が軽くため息をついた。



「仕方ありませんね。次のサービスエリアに入りましょう。男の子はともかく、女の子にそれは扱いづらいでしょう」



 そう言った老婦人は、真顔になって私と雪成を見つめる。

 同じ人間に向けられるものとは思えない、冷たいまなざし。



「ただし、よからぬことは考えないこと。余計なことをすれば、こちらも乱暴な手段をとるしかなくなりますからね」



 私と雪成は、老婦人の言葉にうなずいた。

 本当に、何をされるかわかったもんじゃない。

 そう思い知らされる目をしていた。

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