57 淡い期待
逃げ出すようにカウンターへ引っ込んでいったマスターを尻目に、恭太さんの正面に腰かけた。
いつも落ち着いた雰囲気の恭太さんが、ぷりぷり怒っているのはなんだか新鮮だ。
「あの人の話は、基本無視していいから」
「あはは……」
呆れたように言い放つ恭太さんに、私は苦笑いを返す。
ただの惚気で、そこまで怒らなくても。
そう思いながら恭太さんを眺めていると、耳の先がほんのり赤くなっていることに気付いた。
そのとき不意に、マスターの「俺は気になんないけど」という言葉が浮かぶ。
あれは「私の体質」の話だったのか、それとも「もやが出る体質」の話だったのか。
前者だと思って返事をしていたけど、もしも後者なら意味合いが大きく変わってくる。
口に出すべきではないと知っていながら「まさか」と思った拍子に勝手に言葉が零れ落ちてしまった。
「マスターの恋人って、もしかして……」
そこまで言ったところではっとして、口をつぐむ。
しかし時はすでに遅かったらしく、恭太さんの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
推測が確信に変わったと同時に、自分の失言を後悔した。
「す、すみませんっ」
「……いや、謝ることじゃない」
「あ、えっと……」
「ごめん。あの人、悪い意味で人目を気にしないタイプだから。……抵抗があるなら、今日は訓練はなしにしようか?」
「いえっ!ちょっと驚いただけで……大丈夫です」
そう答えたものの、恭太さんは気まずそうな顔をしたままだ。
今まで苦い反応をされたことがあるのか、打ち明けたことなどなかったのか。
思い返してみれば、ふたりの間の空気感は特別だったような気がすると、今さらながら思った。
初めてここにきたとき、わざわざマスターに恋人がいると言ったのは、もしかしたら牽制だったのかもしれない。
私なんかにそんな必要はないのに、なんてかわいい人なんだろう。
そう思うと、なんだかちょっと笑えてきてしまった。
ますます空気を悪くしそうで我慢していたが、緩む口角をとめられない。
「なにがおかしいの?」
訝し気に恭太さんが聞いて、私は「いいえ」と答えた。
「ただ、素敵だなぁって思って」
「素敵って……」
「私、今まで恋愛とか考えたことなくて……これからも考えられそうにないんですけど。でもなんだか、お二人の関係っていいなぁって思いました」
「……そう」
いつか私も、唯一と思える相手に出会えたら。
そんな分不相応な願いを、心の奥底にそっとしまう。
でも恭太さんはそんな私の浅ましい願いを知ってか知らずか、頬を染めたまま柔らかく微笑んだ。
「君にもきっと、そんな相手ができるよ」
その言い方がなんだか予言みたいで、淡い期待が胸に宿る。
私はそれを振り払うように首を傾げて「どうでしょう」とあいまいに笑った。




