2 逃げ道
幼いころから通っているから、大学病院内にはそれなりに詳しい。
病院外へ出てもいいかわからなかったので、私は中庭へ行くことにした。
入院患者の散歩コースになっている花壇の近くは避け、人気の少ない木陰に腰を下ろす。
心臓がバクバクと脈打っていた。
恐怖心と罪悪感、そして怒りが全身を渦巻いていた。
私のもやが周囲によく思われないことは理解している。
実際に、迷惑に思う人もいるだろう。
あの看護師は、ほかの患者からのクレームを受け、私に注意しにきたに過ぎないはずだ。
でも、でも。
もやのかかった視界が、涙で滲んでより見えづらくなる。
ゴシゴシと乱暴に目元を擦り、溢れ出る水滴を袖口で拭い取る。
「……そんなに言うんだったら、もやの消し方教えてよ……っ」
正直、このもやに一番迷惑をしているのは私だ。
減らそうとして減らせるものなら、病院にくる必要だってない。
声を漏らすと、情けないことにどんどん涙が込み上げてきた。
濃いもやが顔を隠しているのをいいことに、私は溢れる涙を止めることもしなかった。
さっきの看護師は、最近配属されたのたろうか?
今まで病院内で見たことのない人だった。
だから、私の事情を知らなかったのだろうか?
自分でもやの量を調節することもできず、日常生活に支障をきたすことも多いのだと知っていれば、まずあんな言い方はしなかったはずだ。
そう思い込もうとしたけど、私の中を渦巻く怒りが「あんな看護師は大嫌いだ」と毒づいていた。
そのまま小陰でぼうっと涙を流し続けていると、時々「うわっ」とか「なにこれ」とか言っている声が聞こえてくる。
きっと道行く人は怪しいもやの塊を不気味に思っているのだろう。
家に帰りたい。
引きこもりたい。
そんなことを考えて、体育座りをする。
そして膝頭に両目の瞼を強く押し付けた。
そのままじっとしていると、きれいな幾何学模様が見えてくるのだ。
もやに邪魔されない、私だけの世界。
そのまま模様をみていると、ささくれだった心が少し落ち着いてきた。
しばらくして再び顔を上げると、もやが少し薄くなっていてほっとする。
私は鞄からワイヤレスイヤホンを取り出し、右耳にだけつけた。
両耳を塞いでしまうと、外の音が聞こえないから怖い。
もやで視界が悪いから、余計に。
骨伝導イヤホンなら両耳につけても、外の音がちゃんと聞こえるのかな?
一度試してみたいけど、お小遣いはあんまり多くないから、今使ってるイヤホンが壊れるまではお預け。
スマホを操作して、お気に入りの音楽を再生した。
少し高めの男性の歌声が、直接頭に響いてくる。
恵まれない見た目を嘆き、それでも開き直って逞しく生きる強い歌。
カバー楽曲だけど、私は原曲より彼のがなるような歌声が好き。
プレイリストには、好きな曲が雑多に詰め込まれている。
明るい曲、暗い曲、可愛い曲、かっこいい曲。
ほっと気楽に聴ける歌もあれば、泣き出しそうなほど心を揺さぶられる歌もある。
それをシャッフル再生しながら、心をたくさん動かしていると現実を忘れられそうな感覚に陥るのだ。
誰にも邪魔されず、非難されることもない。
そんな時間が私の心を守ってくれるような気がする。
「あ、いた!」
音楽に浸っていると、聴き慣れた声が耳をついた。
声の主の方へ視線を向けると、うっすら頬を上気させ、額に汗をにじませた女性がこちらへ掛けてくる。
荒い息を整えるように息を吐き、彼女はにっこりと微笑んだ。




