137 幸せの一杯
それからしばらくして、診察に呼ばれた。
真っ赤に泣きはらした目を見て、先生は驚いた顔をしたけど「嬉し泣きです」といったら頭を撫でてくれた。
小春さんが持ってきてくれた保冷材で目を冷やしながら、滞りなく診察を終えた。
「体調に影響がないのであれば、定期検診も卒業しようか」
「え?」
思わぬ提案に、間抜けな声が漏れた。
先生は穏やかに微笑んだまま「もちろん、ご両親と相談したうえでね」と付け加える。
「君のそれが病気でなく体質であり、日常生活に支障がないのであれば、通院を続ける必要はないだろう。そもそも、医師として僕ができることはなさそうだし」
「それは……あ、でも母が……」
「あぁ、お母さんはまだ事情を知らないままなんだったね。そのあたりも踏まえて、次回お父さんといっしょに相談させてもらいたいんだけど、大丈夫そう?」
「聞いてみます」
「うん。よろしく」
そう言った先生は、まっすぐに私に向き合った。
思わずどきっとして背筋を伸ばす。
先生は「何はともあれ」と笑う。
「問題が解決したようでよかった。定期検診がなくなったとしても、僕は君の主治医でいるつもりだから、何か困ったことがあれば遠慮せずに相談においで」
「は、はいっ!」
「うんうん、元気がよろしい。……本当によく頑張りました。手を出してごらん」
言われた通りそっと手のひらを差し出す。
先生は小さな包み紙を3つ乗せて、いたずらっぽく笑った。
「これはご褒美。ほかの人には内緒だよ」
先生秘蔵のチョコレートよ、と小春さんが耳打ちした。
私はお礼を言って、大事にそれをポケットにしまった。
※
「こんにちは」
マスターの喫茶店は、土曜日だというのに相変わらず閑古鳥が鳴いている。
がらんとした店内だが、不思議と温かな雰囲気だ。
「いらっしゃい」
マスターが、カウンターの中から手を振る。
手招きされるまま、私はカウンター席へ腰掛けた。
何度かここを訪れたが、カウンターは初めてだ。
背の高い回転椅子は思ったよりくるくる回って不安定で、座るのに少し手間取った。
そんな私の様子を微笑ましそうに眺めてから「コーヒーでいい?」とマスターが問う。
「えと、カフェラテを」
「りょーかい。可愛くしてやろう」
にっと笑ったマスターがゴリゴリとコーヒー豆を挽く。
注文を受けてから豆を挽いているとは知らず、目を丸くしながら食い入るように眺める。
マスターは私の様子に気をよくしたのか「やってみる?」とミルを差し出した。
お言葉に甘えてハンドルに手をかけると、思ったよりも重くて驚いた。
マスターは手慣れた手つきで粉になった豆をフィルターにセットして、細いお湯を注いでいく。
もこもこと泡が立っていくのが面白い。
「そんなに見つめられると照れるなー」
そんなことを言いつつも、マスターに照れている様子は一切ない。
家ではインスタントだから、こうして本格的なコーヒーを淹れるところを見るのは非日常感があって楽しい。
カップへ注がれたコーヒーに、泡立てたミルクが乗る。
こんもりと盛られたミルクの泡を前に「よし」とマスターが真面目な顔つきになった。
チョコソースで手早く絵を描いていく。
迷いのない手つきに思わず感心してしまう。
「おまたせ」
自信満々に差し出されたカップをのぞき込む。
これは……なん、だ?
「えっと…、」
「かわいい猫ちゃんだろ」
「ねこ……猫?」
「あれ、犬派だったか?」
どこからどう見てもアメーバとかスライムとか、そんなのにしか見えない。
それなのにどうしようもないほど自信満々のマスターがおかしくて、思わず笑ってしまう。
写真を撮ってもいいかと訊ねると、快く了承してもらえた。
カシャッと小気味いい音を立てて、不思議生物が描かれた飲み物がスマホの画面に収められる。
それを満足げに眺めてから「いただきます」と言うと、マスターは「召し上がれー」と目を細めた。
まろやかなミルクの泡。
ほんのり甘いチョコソース。
香り高いほろ苦コーヒー。
マスターの淹れてくれるコーヒーは、いつだっておいしい。
ふわふわとした多幸感に包まれながら、ほうっと息をつく。
「それで?」
カウンターに頬杖をついてマスターが問う。
「今日は待ち合わせ?」
「ではないです」
「お、じゃあ単純に俺のコーヒー飲みに来てくれたの?うれしーこと言ってくれるじゃん」
「えへへ」
満面の笑みでそんな風に言われると、なんともくすぐったい気持ちになる。
そのままわしわしと頭を撫でられて、あからさまな子ども扱いがなんだか嬉しかった。




