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136 嬉し泣き

「今となってはもうずいぶん前の話だから、こうして笑って話せるんだけどね。あのときは無理だった。だって、まだ3歳……さすがにさ、早すぎるんだもん」


「えっと……それは……」


「あはっ、気を使わせてごめんね。今は本当に大丈夫」



 そう言って、小春さんが両手を振る。

 もう10年以上も前のことだと言っても、大切な人を失った喪失感は容易に埋められるものではないのかもしれない。

 私はまだ、そういう別れを経験したことはないのだけれど。



「不運な事故だった。わき見運転の車に跳ねられてね、1週間くらい生死をさまよって、苦しんで苦しんで亡くなったわ。小さな体にたくさん管がつながれているのを見て、代わってあげられたらどんなにいいかって思った。もちろん、思うだけで実際に代われるはずはなかったんだけど」


「……」



 何も言えなかった。

 こういうとき、大人ならどういう言葉をかけるんだろう。

 一言も浮かばない自分が歯がゆい。



「あの子ね、私が落ち込んでるとすぐお姉さんぶって、頭を撫でてくれたの。失恋したときとか、試験の結果が悪いときとか、実習で先輩にきつく叱られたときとか。……小さな手が頭にさわさわって触れるのがくすぐったくて、そうされると落ちこんでたのがバカらしくなって、妹を思いきり抱きしめてほっぺにちゅーしてた。だからかな、あなたの健気な姿を見てるのが嬉しくて、ずっと笑っていてほしいと思ったの」


「……小春さん」


「あなたのことは、入院前から知ってた。もやの状態を観察して、報告するようにって命じられてたから。……うちは一族の中でも家格が低いし、本家とほとんど付き合いはなかったから、連絡が来たときはびっくりしたんだけどね」



 でも、と続ける小春さんは、少しだけ冷たい顔をしていた。



「両親は本家の言うことが絶対って感じで、逐一どんな状況か確認されて嫌気がさしたわ。まだ妹の喪が明けていない時期だっていうのに、妹の話よりも本家の話ばっかり。文句を言ったら、本家に逆らうことがどういうことなのかわかっていないって叱られた。ほんっと、最低よね」



 小春さんの握った拳は、プルプルと震えている。

 きっと今でも、小春さんの怒りは収まっていないのだろう。



「ただまぁ、両親がそこまで言う本家に逆らう気はなかった。私には関係ないことだって思ってたのかも。ごめんね」


「……いえ。でも、話さなかったんですよね」


「もっちろん!堂々と嘘をついてやったわ。かすみちゃんは、負の感情によってもやを噴出させています、ご機嫌なときはもやは出ていませんってね」



 小春さんが誇らしげに胸をどんっと叩く。

 にっといたずらっぽく笑う姿がまぶしくて、ぱちぱちと瞬きをした。



「だって、すっごい健気でかわいくって、もう無理だったんだもん」


「もんって……」


「私はもやは出せないけど、妹は怒ったときにちょっとだけもやを出してたもの。だからあなたのもやにも抵抗はなかったし、むしろよくこんなに出るもんだなって感心してたくらい」


「……私や父のことは、どこまで知ってたんですか?」


「正直に言うと、それほど知らなかった。あなたがうちの遠縁にあたる子で、もやが出る条件を調査するように言われただけだから」



 小春さんは、もやについてもあまり詳しく教えられていなかったらしい。

 父が本家の跡取り息子だったことはもちろん、父と母のどちらが縁者なのかすら把握していなかったという。

 まぁ、日頃の様子から母でないことは察していたそうだけど。

 ただ、もやの出方には3つのタイプがあり、本家は血眼になって「すべての感情が起因となってもやを出す人間」を探している、ということしか知らなかったそうだ。



「詳細はわからなかったけど、うちの両親の様子を見ていて思ったの。正しい報告をすることは、本家の利になっても、かすみちゃんの得にはならないだろうって」


「どうして……」


「だって、母がぽろっと言ったもの。うちの子じゃなくてよかったって。……失礼な話よね」



 だからね。

 そう言った小春さんは、そっと私の手を握った。

 今となっては、私のそれとたいして大きさの変わらない手のひら。

 昔は私の両手をすっぽりと包み込んでいたのに。



「だからね、私がこの子を守ろうって決めたの」



 小春さんの手のひらは、柔らかくて、どうしようもないほど温かい。

 じんわりと滲んだ視界の中で、小春さんが「泣き虫ねぇ」と笑った。


 たまらない気分だった。

 今までずっと、もやの中で孤独に生きているつもりだった。

 父に、小春さんに、何の見返りもなくずっと守られてきたことも知らず。


 こぼれた涙も拭わずに、私は情けなく笑った。

 これは嬉し泣きだからいいんです、と呟くと「それもそうね」と小春さんが抱きしめてくれた。

 ふわりと香る甘い匂い。

 肩口を涙で濡らしてしまうことに少し申し訳なさを感じながらも、少しの間だけ、その温かさに包まれていたかった。

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