130 圧倒
『ご無沙汰しております。いやいや、お元気そうでなりより』
「だから、誰だと言っている!」
『あはは、分家の者など、いちいち覚えてはおられませんか?ご対応下さるのは、いつも奥様や使用人の方でしたもんねぇ』
のんびりとした話しぶりは、人を煽るのに十分すぎるほど。
老紳士は怒りに染まった顔をしながら、拳を握りしめている。
そのとき、通話口の少し遠くの方から『お父さん……』と弱々しい女性の声が聞こえてきた。
老紳士の顔がさっと青ざめたのがわかった。
少し低く、かすれた老人特有の声質には、聞き覚えがある。
『切羽詰まった状況だったとはいえ、守りをおろそかにするのはいただけませんねぇ』
その悠哉さんの言葉を合図に、父は画面を老紳士の方へ向けた。
そして老紳士に画面が見えるよう、ゆっくりと歩みを進める。
横目でチラリとみた画面の中には、泥まみれになって蹲る老婦人の姿があった。
こちらと同じく、老婦人の周囲には多くの人間がぐったりと倒れこんでいる。
ひゅっと細く喉の奥を鳴らした老紳士は、顔面蒼白だった。
いくら嫌いな相手とは言え、身内の惨めな姿を見るのは居たたまれないのか、父の顔色も悪い。
こんな場面で不謹慎だと思いつつも、老紳士と父の表情はとてもよく似ていた。
この人は自分の血縁者なのだ。
そう思い知らされるようで気分が悪くて、私は下唇を噛み締めた。
「死者は出していませんね?」
『もちろん。誰も死んではいませんよ。死んでは、ね』
軽い調子で言う悠哉さんに恐怖心を抱く。
この人が味方でよかったと、しみじみ思った。
『おと、おとう、さん、もうやめましょう。むり、むりです。これいじょうは、むり』
たどたどしい言葉で、老婦人が言う。
時折、カチカチと歯の当たる音がする。
恐怖に震えているのだろうと思っても、同情心は微塵もわいてこない。
老紳士はうろたえながらも「何を言っている」とぎこちなく笑った。
「この子さえ連れて帰れば、何も問題ない。こんなやつらなど」
『いけません!さか、さからったら、こ、こ、殺される……。ころさ……』
嗚咽交じりの老婦人の声を遮るように『やだなぁ』と悠哉さんが言った。
『殺したりなんてしませんよぉ。殺したりは、ね』
なんとも含みのある言い方だ。
他人を脅すことに慣れている、そんな口ぶり。
以前は毅然としていて恐ろしいとしか思えなかった老婦人が、今はか弱い子どものように思えてならない。
「うっ、うるさい!うるさいうるさいうるさいうるさい、うるさいっ!!」
そう叫んだ老紳士は、老人とは思えない動きで私の方へ手を伸ばし、駆け寄ってくる。
しかしその手はあっけなく恭太さんにつかまり、一気にひねり上げられた。
声にならない悲鳴を上げて、老紳士はその場にへたりこんだ。
「うるさいのはどっちなの。往生際が悪い」
『まぁまぁ、ここまで追い詰めても追撃がない、ということは……これ以上の加勢はないとみていいだろう』
「じゃあ、あとは教育だけだね」
「教育?」
『悪いことをしたら、ちゃんと反省してもらわないといけないからねぇ。じっくりと思い知らせるんだよ。逆らったらどうなるのか、歯向かおうなんて二度と思えなくなるまで、みっちりとね。そのうえで、徹底的に管理するんだ』
「か、管理……」
『恐怖心ほど、人の心を容易に支配できるものはないからね。喉元過ぎれば何とやら……にならないよう、ちゃんと定期的に締め上げるから安心していいよ』
今悠哉さんの顔は見えないけれど、どんな顔をしているのか想像がつく。
顔は笑っているのに目の奥が笑っていない、あの怖い顔に違いない。
ぶるっと身震いをして、愚かに震える老紳士に視線を向ける。
すでに恐怖に支配された彼は、すっかり戦意を喪失してしまっていた。
しかしそれに追い打ちをかけるように、恭太さんが老紳士の耳元で囁いた。
「あなたたちが今までしてきたようにね」
老紳士の目には涙が滲んでいる。
あまりにも冷たい声だったけど、全然怖くはなかった。
恭太さんが私のために怒ってくれているのだと、わかっていたから。




