108 お泊り
「おふぁよ」
あくび混じりの舌っ足らずな声で、紅葉ちゃんが言った。
朝は苦手らしく、目をこすりながら歩く足元は少しふらついている。
昨日、話し合いが終わった後、父は紅葉ちゃんを自宅へ連れ帰った。
さすがに家へ帰すわけにはいかないし、あのまま悠哉さんや恭太さんの家へおいていくわけにもいかない。
紅葉ちゃんは遠慮したけど、私が無理に手を引くと、はにかむような顔をしてついてきた。
母ものどかも、紅葉ちゃんを歓迎した。
とくに母は、娘の友だちの初お泊りという状況に涙ぐんでさえいた。
来客用の布団を私の部屋に運んで、並んで眠るのは少し気恥ずかしい。
宿泊学習や修学旅行なんかの行事は軒並み欠席してきたから、余計に緊張した。
紅葉ちゃんは事あるごとに「ごめんね」と繰り返した。
そのたびに気にしないでほしいと返したけれど、困ったような顔で眉を下げて微笑むばかり。
次第に紅葉ちゃんの話し声がゆっくりになってきて、それから間もなく規則正しい呼吸音が響き始めた。
紅葉ちゃんも疲れていたに違いない。
あどけない寝顔を眺めてから、自分も眠ろうと目を瞑った。
しかし、いくら待っても眠気は訪れない。
理由は明確だった。
あの昼寝のせいだ。
横を向いてみたり、頭の中でひつじを数えてみたり、そんな努力を繰り返して、ようやく眠りにつけたのは2時近くになってからだった。
それでもすんなり目が覚めた
。
父や恭太さんたちは、無事に帰ってこられるだろうか。
紅葉ちゃんのお父さんは、無事なんだろうか。
そんなことを考えるうちに、眠気はすっかり吹き飛んでいたから。
ベッドに腰かけた私の耳に、小さな呻き声のようなものが聞こえてきた。
布団で眠る紅葉ちゃんに目を向けると、ぎゅっと眉根を寄せて、布団を強く握りしめていた。
瞼のふちに滲んだ涙は、今にも零れ落ちそうだ。
私はその雫をそっと拭って、柔らかな髪の毛をそっと撫でた。
大丈夫、大丈夫。
そう言い聞かせるように。
それをしばらく続けていると、少しだけ紅葉ちゃんの表情が和らいだので、ほっとした。
それから紅葉ちゃんを起こさないように部屋を出て、顔を洗って歯を磨いた。
部屋へ戻ろうとしたところで、ようやく目覚めたらしい紅葉ちゃんに遭遇したのだった。
「おはよ。階段、気を付けてね」
「うん……」
ふらふらと歩いているのが可愛くて、でもこのまま階段を歩かせるのは不安で、手を引いて踵を返した。
そのまま洗面所まで連れて行って、タオルを手渡す。
顔を洗うとようやく目が冴えてきたらしく、ぽやっとしていた表情がすっと引き締まった。
「朝ごはん、フレンチトーストだって」
何の気なしにそう言って見せると、紅葉ちゃんは鏡越しに私をチラリと見て微笑んだ。
「フレンチトースト好き。楽しみ」
「ほんと?よかった。うち朝は基本お米なんだけどね」
「そうなの?」
「うん。紅葉ちゃんがいるから、お母さんが張り切ってるみたい。さっきのぞいてきたけど、あんなおしゃれな朝ごはん出てきたこと、初めてかも」
「あはは、かすみんのママかわいい」
無邪気に笑う紅葉ちゃんは、普段と変わらないように見える。
それでも、その目元はほんのり赤い。
私はそれには触れずに、紅葉ちゃんの手を取った。
「いこ」
昨日から、なんだか普段と行動が逆転している気がする。
大人しく私に手を引かれる紅葉ちゃんを見て、そんなことを思ったが、悪い気分ではなかった。




