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100 無理

「でもさ、それは単に君の都合だよね」



 不意に、背後から声が聞こえた。

 思わず振り返ると、呆れたような顔をした恭太さんが立っていた。

 恭太さんの隣では、なぜかマスターが頭を抱えている。


 何でここに。

 そう言おうとしたとき、父がほっとしたように息をついた。

 それを見て、彼らを呼んだのは父なのだろうと察した。



「君が挙げたメリットは、別にこの街でも十分享受できるものだよ。この子があの集落へ行く理由にはならない」


「ここで暮らすなら、勉強はしなきゃいけないでしょ?」


「それはそうだけど、そもそも勉強したくないなんて誰も言ってないと思うけど。勉強したくないの?」



 恭太さんが私を見て首を傾げる。


 勉強は別に好きじゃない。

 だからといって、やらなくていいと言われて喜ぶほど嫌いなわけでもない。



「勉強、は得意じゃないですけど、やりたくないわけじゃないです」


「……だってさ」



 私の言葉に納得したように頷いて、恭太さんは紅葉ちゃんに視線を向ける。

 紅葉ちゃんは困ったように眉をハの字にしていた。


 足の痺れは、いつの間にか消えていた。

 このまま走って逃げてしまおうか。

 そう思ったけど、まるで迷子のように心細そうな顔をしている紅葉ちゃんが、どうしても気になってしまう。


 こちらは私と父、雪成、恭太さん、マスターの5人。

 向こうは紅葉ちゃんと知らない男子生徒3人の合計4人。

 数的に有利なのはこちらだが、外に仲間が控えているかもしれない。

 そう思えば、無理に逃げ出すのが得策なのかわからなかった。



「紅葉ちゃんは、これからの人生をあの場所で過ごせって言われても平気なの?」



 私の問いかけに、紅葉ちゃんはきょとんという顔をした。

 そして斜め上に視線を向けて考えたあと、黙り込んでしまった。


 口を噤んだまま動かない紅葉ちゃんに「おい」と男子生徒のうちの一人が小声で声をかける。


 紅葉ちゃんは深くため息をついて、私に視線を戻す。

 その瞳には、困惑の色が混ざっているように見えた。



「……無理かも」



 素直にそう言った紅葉ちゃんに、みんなが唖然とした顔を向ける。

 それはそうだろう。

 この場ではきっと「もちろん平気」などと返すのが正解のはずだ。


 しかし紅葉ちゃんは頬に両手をあてて「あー」とか「うー」とかいう呻き声を上げている。

 今の今まで、思いも至らなかったのだとありありと伝わってくる。



「おい、違うだろっ!」



 一足先に我に返ったらしい男子生徒の一人が、そう言って紅葉ちゃんの肩を掴む。

 紅葉ちゃんは男子生徒をちらっと見たあと「だって」と唇を尖らせた。



「一週間くらいならいいけど、ずっとは無理だよぉ。だって遊びにも行けないし、ごはん食べに行くこともできないし、いくら娯楽があっても飽きちゃうって」


「だから、お前がんなこと言ってたらダメだろ!あいつ連れてかなきゃ……」


「えぇ、かすみんも連れてけないよぉ。だって無理だってわかっちゃったし……。自分が出来ないこと、人に押し付けちゃダメなんだよ」


「は?!なんなんだよ、お前!!」



 カチンときたらしい男子生徒が、紅葉ちゃんに向かって拳を振り上げる。

 とっさに駆け寄ろうとした私を雪成が引き留め、私は小さく悲鳴を上げた。

 ぎゅっと目を閉じた私の耳に、予想した打撃音は聞こえてこなかった。

 恐る恐る瞼を開けると、父が男子生徒の腕を握りしめていた。



「……放せよ……!」


「放したら殴るだろう。さすがに目の前で女の子が殴られるのを、黙ってみていることはできない」



 父は男子生徒の腕を掴んだまま、紅葉ちゃんと男子生徒の間に自分の身体を滑り込ませた。

 紅葉ちゃんは驚いた顔で父を見ている。



「そいつが主犯だぞ?自分の娘を攫おうとしたやつ相手に、ずいぶん優しいんだな」


「それとこれとは話が違うだろう」


「違わねぇだろ!」



 男子生徒は叫びながら、父の手を振りほどいた。

 ほかの男子生徒と視線を交わし、こちらに向かって構える。

 その強い敵意に、このまま強行手段に出る気だとわかった。


 父はじりじりと後ろに下がったかと思えば、くるりと振り向いた。



「よし、逃げるぞ」



 父の言葉に促されるまま、私たちは駆け出した。

 恭太さんとマスターが先陣を切り、そのあとを私と雪成が追う。

 そしてその後ろを父が走る。

 父の手は、紅葉ちゃんの背を押していた。



「え?え?私も?!」



 戸惑った紅葉ちゃんの声が背後から響く。

 それを聞きながら、私は一生懸命足を動かし続けた。

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