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1 もや

 私には昔から、もやがかかっている。

 比喩的表現じゃない。

 実際、私の身体からもやが出ているのだ。


 もやは多かったり、少なかったり、その時々でまちまちだ。

 もやが多い日は視界が悪く、私は辟易する。

 目線を塞ぐもやは手で払いのけることもできるけど、時間が経てばすぐに元通り。

 そんなときは諦めて、部屋に閉じこもっているのが安全だ。


 でも、どうしても出かけなきゃいけないときだってある。

 そんなときは、ハンディファンを使う。

 顔にハンディファンの風を当てていると、多少視界は開ける。

 それでも周囲にもやが流されているだけなので、視界はずいぶんと狭い。

 さらに風で目が乾いて痛むので、まさに苦肉の策と言えるだろう。


 病院で精密検査を受けたこともあるが、もやの原因は未だ謎のままだ。

 ただ、もやが出るからと言って体調に異変が出るわけじゃない。

 ごはんはもりもり食べられるし、痛いところもない。

 視界が悪いこと以外に問題はないので、定期検診に通ってはいるものの薬の一つも出ない。


 病院へ通う意味はないのではないか。

 母にそう訴えたことは何度もある。

 しかしそのたびに言い合いになり、結局は母を泣かせてしまう。

 母は私がどんなに元気に過ごしていても、もやという異常を目の当たりにし続けると心配でとうにかなりそうなのだそうだ。

 病院で健康状態を確認してもらうことで、かろうじて心を保っているのだと言われてしまえば、反論は難しい。

 さらに「病院へ行かなくなったことで、異変を見落としたらどうするの」などと問われ、こちらの不安まで煽られる始末。


 そんなわけで私は今日も、かかりつけの市立病院へ来ていた。


 病院は嫌いだ。

 待ち時間は長くて退屈だし、静かにしなくちゃいけないという緊張感に圧迫されるような感じがする。

 それに何より、人の視線が突き刺さる。


 病院という命を扱う場において、私の纏うもやは呪いのように見えるらしい。

 小声で「不吉……」と囁かれたこともあるし、眉間にしわを寄せて睨みつけることで無言の圧をかけられることもしょっちゅうだ。

 まだ高校に入学したての小娘にとって、不特定多数の非難のまなざしは随分堪える。

 濃いもやがかかっているのに、他人の視線だけは敏感に感じ取れるのはなぜなのか。

 私はそんなことを考えながら、深くため息をついた。



「……霧山さん?霧山かすみさん」



 不意に声をかけられ、顔を上げる。

 白い制服に身を包んだ女性が、困ったような顔をして私の前に立っていた。

 もや越しでもわかる見慣れた制服は、この病院のナース服だ。


 ようやく順番が来たのかと立ち上がろうとするも「あ、違います」と制止された。

 それならば問診だろうかと続く言葉を待つが、なぜかモゴモゴと言いづらそうにしている。

 首を傾げる私に、看護師は仕方なさそうに口を開いた。



「あの……失礼ですが、もやの量を抑えていただけますか?ほかの患者さんのご迷惑になりますので……」



 看護師の言葉に、私はあんぐりと口を開けたまま固まった。

 それに気がつかないのが、気にしないのか、それともそもそももやで見えていないのか、看護師は呆れたように続ける。



「聞こえていらっしゃいます?もや、減らしてくださいってば」


「あ……でも……」


「でも何です?このままだと外でお待ちいただくことになりますよ?」


「いや、その……」



 さっきまで気まずそうにしていたくせに、一度口を切ったからと随分な言いようだ。

 遠回しに非難されることはしょっちゅうでも、こうして真正面から責め立てられることはめったにないから耐性がない。

 私は泣きそうになりながら、自分の制服のスカートを握りしめた。


 小さな声で「ごめんなさい……」と呟いて立ち上がり、その場を駆け足で逃げ出した。

 看護師は何か言いたげな顔をしていたが、これ以上責められるのが怖かった。

 視界を塞ぐもやが一層濃くなったが、そんなことよりもその場から一刻も早く消えてしまいたかった。

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