人斬り吟味編(1)
5/30~6/1の午前0時に3話構成で「人斬り吟味編」をお送りします。
兵吾は春に縁談がまとまり、初夏には挙式という異例の日程となったが、向田太吉の婿入りには政治的な都合はないし、当人も若年である。これも少々早いが、数え十二ながら太吉を秋で元服させ、その直後に婚礼、婿入りと決められた。だが婿入りする早瀬家当主の希望として、三日に一度は当主自ら稽古をつけることとなった。
「なぜ自分が……と思うておらぬか、太吉」
当主の早瀬左門は、稽古の汗を手拭いで拭いている太吉に、静かに尋ねた。
「思うております」
「推測はあるのか」
「ございませぬ。今はいずれにせよ、磨いて伸ばすときと、弥助様も言うておられました」
「よき師よ」
左門は愉快そうに歯を見せた。早瀬家に来ていない日の太吉は、相変わらず弥助と猟師仕事をしている。早瀬家の敷地は周囲の農家よりひと回り大きく、かつては強勢な家だったと思えた。今は使われていない棟もあった。田地は義母と義妹たちが耕作していたが、働き手が十分にいても、豊かに暮らせそうな広さではなかった。武技で抜きんでなければ暮らしが立たない……という気分を、この家の者たちはずっと持っていたように太吉には思えた。それは時に死傷の目が出るさいころを際限なく振り続けることであり、そして左門はひとりになった。
「頭治郎は天稟[=才能]もあった。修練も積んだ。だが運が足らなんだ。足らなんだのは、生き延びる勘働きであったやもしれぬ」
頭治郎は、戦死した嫡子の名である。汗は拭き終わった太吉だったが、義父の話の腰は折らなかった。
「里の次男坊三男坊は、親元で守られてきた者ばかりだ。外の怖さを知っておるお主なら、生き延びる目配りも持っておろうと思うた」
「宿場町で母と暮らした日々は、油断も隙もございませんでした。それこそ、運で生き延びましてございます」
「身共ももう老いが迫っておる。行く末の気がかりは、女房殿と娘たち」
左門が息を整えているのが、太吉にわかった。言いにくいことが、のどからあふれ出ようとしているようだった。
「すがるほどの家門ではない。頼れるほどの親戚筋もない。お頼み申す。いつか護提様[兵吾]が新天地を求められることがもしあらば、一家を挙げて頼み参らせてはくれぬか。向田殿一家は護提様とご縁が深い。護提様も悪い様にはなされまい」
太吉は言葉が出なかった。譜代たちから、もう護提様はそのように見られている……ということが衝撃だった。戦場でのやり取りであれ、転生者とやり取りの深まった者は、だんだんこの世界の社会との縁が薄くなることが多かった。そのように思いこまれることで、実際にそうなりやすくなるのであった。
「向田の……父に話してもようございますか」
「そうだな。それがよい」
自分が大人ではなく、年長者に相談できる立場であることを、太吉はありがたく思った。
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沖田一行が残して行った武具と大烏の素材は高く売れるものもあったが、常の十橋荘の産物ではないから、買い手を見つけて話をつけるのが一仕事であった。現代であれば、荘の文官たちの追加業務を人月計算して、赤字とは言わぬまでもがっかりするような差し引き利益を計算できたであろう。まあ文官の労務などほしいままに現金化できる時代ではないから、ありがたい収入ではあった。
戦闘のなかった新村にも、文官の手伝いとして儀次郎をよこせという急使が立った。村長代理がいなくなったので、兵吾は中村の様子を見に行けなくなった。七日後、げっそりとした顔で儀次郎が戻ってきたので、兵吾は中村へ発った。
村の端にある家屋がいくらか損壊を受けた程度で、仮補修の板がまだ真新しい木目をさらしていたが、村の様子に大きな変化はなかった。事実上、謙吾の執務室になっている村長役宅へ顔を出すと、謙吾が新しい兜飾りを見せてくれた。後立(兜の後方につける飾り)として、大烏の羽根がぴょこんと立っていた。
「身共は一矢も射てはおらんが、皆が馳走[=かけ回って尽力すること]して羽根が手に入った。当主嫡子とはそういうものだと自戒を込めて、つけることにした」
謙吾の表情は柔らかく、兵吾を安心させた。
「こたびの武具や羽根の金子も、新しい砦のために使うそうだ。新丸(鳳吾)が悔しがっておった」
「それはそれは」
兵吾は快活に笑った。当主一族には、兵吾がどこかに行くなどと考えている者はいなかった。そのすぐ外側を巡っている空気のことを、兄弟たちは知らなかった。
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新村の周囲は、防衛上の考慮から森を切り払ってもいたので、田畑が広がっていた。その田畑をつぶすともったいないので、新村の外側に砦の兵舎と兵吾の屋敷を作り、その周囲を新たな集落として、開墾の中心地とする縄張りが採られた。
本格的な侵攻への防備は考えない(新村か中村に逃げ込む)とすると、むしろ隣接した林があった方が便利である。だから小さな林がいくらか刈られて敷地の一部とされ、残った林が新たに勧請する神社の鎮守森となり、伐られた樹木は砦の塀や壕、あるいは泥道の補強に使われた。柔らかい生の雑木を使うなら、そういう使い方しかない。
兵舎や砦には、最近の現金収入を投じて戸塚領から買い付けた木材が使われる予定だった。優良な木材は戦略物資だから、友好勢力からしか売ってもらえない。
さて、そうなると工事にかかる人出と、砦の守備兵、そして新しい耕地の入植者が問題となる。最後のものは、まず中村・新村の次男坊以下が手を挙げた。こういうときのために、選ばれない技量でも教練に参加して積極性と村への貢献を売り込んでおく若者が多かった。独身の者もいたし、この機会に所帯を持ってしまうふたりもいた。女性から見ても、成功した開拓者には縁談が降ってくるに決まっているのだから、考えどころなのである。もちろん、すでに番衆や徒士を務めあげて、現代でいう名誉除隊をした男たちは、選考上も縁談上も有利であった。
村の外から居ついた者は、手に職がある者でない限り、職人や(中村にわずかにある)商店の徒弟か、豪農の奴婢として出発するしかなかった。数年の働きで信用を得なければ、村で武装することも、個人資産を持つこともできなかった。その中から雇い主の同意を得て、臨時に工事人足として雇われる者はいたし、農地に比べて人手のある農家も日銭を稼ぎに来た。
守備兵が選抜される仕組みは、番衆や徒士を選抜する仕組みを流用すればよかった。日頃から若い志願者たちに一般の村人よりも濃密な修練を課している。その中から募ればよい。いつの世でも、軍に志願する者の思惑は様々である。親の意向で修練させられている譜代の子や、居場所がない次男坊以下の中には、領境警備の守備兵であれば野戦に行かなくていいだろうとか、消極的なことを考える者もいた。兵吾もまた、そうした思惑を読み取り、しかし頭ごなしに否定はせず、一組の守備兵を作り出す修行をさせられていた。




