現実、その2。きっと私も、病んでいる。
私が、『監禁』から解放されて、三日が経った。
「落ち着いたみたいですね。退院しても大丈夫だと思いますが、精神的なものは長く尾を引くことがあります。もし何か、不調があれば、すぐに相談してください――」
「……はい」
健康状態にも問題なしとのことで、退院が決まった。私はお医者さんの話を聞いていたが、それはほとんど頭をすり抜けていく。でも、こうしていれば、私は大人しく相手に従っているように見えるのを、私は知っていた。
誰も私の話を聞いてくれない。そんなことは、もうすっかり分かり切ってしまった。とうの昔に。
私は病院の電話でタクシーを呼んで、とりあえずビジネスホテルまで行く。警察の人には、連絡先を教えるように言われていた。内藤さんにも、退院したら部屋の件について手伝うから連絡するよう言われている。
「……。」
スマホ――これがないと連絡するにも困るということで、これだけは早めに返してもらえた――を取り出したところで、私は電源を入れるのをやめた。何もしたくなかった。
とにかく、今は眠ってしまいたかった。
たくさんの人に、彼は私の恋人ではないから目を覚ますようにと言われた。閉じ込めて自分だけのものにするなんて愛情じゃない。
でも私はそれで幸せだったのに。
誰がなんて言おうと、幸せだったのに。
私と彼さえよければ、間違っていても、いいじゃないか。なんで、放っておいてくれなかったんだろう。
「……彼に、会いたい」
無意識に、口からはそう零れた。
私は何かを望むことが少ないと思っていた。それは他人に対してもそうだった。社会で生きていく以上、それなりに相手に合わせて生きていくことはできる。でも、期待が必要な人間関係は作らなかった。だから私には、家族も友人も恋人もいない。
あの時――彼に甘やかされて、欲しいものはないかと、何度も何度も聞かれた。私も何度も考えた。欲しいものって何だっけって。
私は、ずっと目を逸らしていただけだ。たった一つのことしか望んでなかった。
愛されたかった。
■
内藤は、スマホの画面に表示された名前を見て、すぐに応答ボタンを押した。
「中条さん?」
『あの……すみません、ご相談があるんです。お時間取れますか?』
内藤はすぐに行くと伝え、彼女が泊まっているホテルの近くのファミレスで待ち合わせた。ファミレスに入ると、彼女が隅のテーブル席に座っているのを見つけ、向かいに座った。店員にコーヒーを頼む。
内藤が来るまでに、彼女はすでに食事を終えていたようだった。ケーキと紅茶だけでは、晩御飯には不健康で物足りないと思ったが、食べられているようでひとまずはほっとする。
店員がコーヒーを持ってくると、内藤は話を切り出した。
「相談って?」
「……今から話すことを……内藤さんは、信じてくれますか」
「……それは、……監禁に関すること、かな」
彼女は頷いた。そんな話をさせていいのか、内藤は迷う。
ただ、電話でもそうだったが、彼女の口調はしっかりしていた。内藤は、警察関係者から、落ち着いているようだから退院させたが、後々恐怖体験がフラッシュバックする可能性があるかもしれない、と聞かされている。とりあえず様子を見ながら話を聞こうと、内藤は緊張しながらも続きを促した。
少しの沈黙の後、彼女は話し出した。
「彼に会いたいんです」
「ダメだ」
すぐに否定していた。彼、が誰のことを差すのか、すぐに分かったからだ。彼女が唇を噛み、内藤は急いで畳みかける。
「中条さんがそんな風に傷つく必要はない。これから裁判があっても、被害者である君が直接会う必要はないはずだ」
「私が訴えなければ犯罪になりません。不起訴処分にできるはずです」
意外にも強い声で反論され、内藤は意外に思った。入院していた時の弱々しい様子や、それ以前、職場で一緒だった時でさえ、彼女がこんな風に強い声で何か言ってくることはなかった。
「不起訴……だって?」
「調べました。刑事事件であっても、被害者感情や内容次第では、犯罪として立件しない。前科もつかないはずです」
「どうして、そこまで、あの男を庇うんだ? 脅されているのか?」
「彼がいなければ、私は生きていけません」
はっきりと言った彼女に、内藤は言葉を失う。
「内藤さんは、私が彼に洗脳されている、と思ってるんですよね?」
「いや、それは、お医者さんの話で……」
食事は終わっているはずなのに、彼女は、ナイフを手に取った。
「……確かに私は、彼に、裕一さんにあのマンションに連れ込まれました。最初は部屋から出ることや、自由に動くことはできないようにされていて、どうやってここから逃げようかと考えていました。彼に何をされるのか、怖かった。だけど、気付いたんです」
「気付いた……?」
「むしろ、彼の方が、怖がってたんです。私に嫌われるのを、拒絶されるのを本当に恐れていた」
だから抑え込んだのだ、と彼女は笑みを浮かべて言う。
その言葉や、表情は、内藤には理解しがたかった。
「彼には私しかなかったんですね。どうして彼が、私なんかのことを、選んだのか分からないですけど……でも、そのことが分かる私で、本当によかったと思っていますし……。私も彼も、きっと内藤さん達から見たら普通じゃないんだろうなって思うんですけれど、だから」
私、あの部屋にいた間、本当に幸せでした。
「お願いです。内藤さん。私を……彼に会わせてください」
ナイフの刃を垂直に下に向けて、その下に自分の細い手首を置いて、彼女は懇願する。
「お願いします。彼と話がしたいんです。そうでなくちゃ、きっと彼が壊れてしまうから。そうでなきゃ、私も……もう、生きていけない」
自分の身を人質にして、涙をぽろぽろと零す彼女を、内藤は黙って見ていた。
飲み下したコーヒーが、やけに苦い。内藤はすぐにそのお願いに頷くことができなかったが、鋭い刃が手首に向けられている以上、断ることもできなかった。話の方向を変えようと、内藤は言葉を探す。
「あ、あのさ……警察に通報して、中条さんをあそこから出したのは俺だよ。仮に、中条さんが良くても、あの男がやったことは犯罪だ。中条さんが何を言っても、俺は正しいことをしたと自分で思ってる。……それを分かって、俺に頼むの?」
「……そのことは、感謝してます」
「……どうして?」
内藤は意外に思った。どうして私と彼の生活を邪魔したんだと、詰って、ナイフを自分に向けてくれればと、むしろ予想していたのに。
彼女は真っ赤になった目で内藤を見ながら、それでも微笑んでいた。こんな風に笑った顔を、内藤は初めて見た。
「本当は……あの部屋にいる間、私も彼も、目を逸らしてました。こんな生活、ずっと続かないって、心のどこかで分かってましたから。ずっと、本当に彼と一緒にいるためには、私も彼も、あの部屋から出て、現実と折り合って、生きていかないといけなかったから……」
そのきっかけだと、思うことにしたんです。
負けたな、と内藤は思った。
内藤は、この真面目で、大人しい営業事務のことを、可愛らしいと思っていた。だが、いなくなって初めて気付く程度の想いでは、所詮は届かなかったということか。
内藤はスマホを取り出して、今回の件で知り合った刑事に、電話をかけた。




