現実、その1。私とヤンデレは否定される。
目が覚めた。真っ白なベッドに寝かされていて――知らない天井と、消毒液の臭い。
横には――誰もいない。冷たいシーツの感触だけが、そこにある。
「っ、きゃあああああ!」
私は跳ね起きて、急いでベッドから飛び降りた。ここはどこだ。ここはどこだ。ここは――
「中条さん! 大丈夫ですか!」
「い、嫌! 来ないで!」
そう言ったのに、部屋に次々人が入ってきて、私の体を押さえつける。誰。誰、あなたたちは誰。
彼は?
彼はどこへ行ったの?
「気が付いたんですね。大丈夫です、中条さん。ここは警察病院です。あなたは助かったんですよ」
「なに? なに? たすかった? わかんない、わかんない」
怖い。怖い怖い怖い。彼がいない。彼がどこにもいない。嫌だ。早く来て。彼はどこ。
「落ち着いてください、大丈夫です。大丈夫ですからね」
「……いや、いや……助けて、早く来て……っ」
どれだけ呼んでも、彼は来なかった。
■
中条瑠奈が男の部屋から助け出されたという連絡は、内藤の元に行っていたが、内藤は敢えてすぐに駆け付けることはしなかった。
もちろん心配だった。だが、内藤はあくまで彼女の家族ではなく、単なる知り合いだ。入院中の女性の部屋に、そう簡単に行くものではないだろうと遠慮したのだ。だが、警察としては彼女の親しい人間のあてが他にないということで――内藤は警察から相談を受け、警察病院に向かった。
内藤は小さな部屋に通される。そこには、医者らしい男性と、女性と男性の警察官が一人ずついた。椅子にかけるよう勧められ、内藤は緊張しながら話を聞いた。
「……え? 中条さんが、男に監禁されたことを否定している?」
刑事と医者から聞かされた言葉に、内藤は驚いた。
「ええ。保護した後、気が付いた中条さんはかなり錯乱しており、気を失ってしまって……意識が戻ってからも、しばらく落ち着くのを待ってから話を聞いたのですが……。自分は自分の意思であの部屋にいた、と主張していて……」
「……。」
内藤は警察官と、医者の顔を交互に見た。
「どういうことなんですか……?」
「……診察の結果、中条さんの体に傷や、暴行などを受けた痕はありませんでした。栄養失調の様子もありませんし、食事も十分に取っていたようです」
「でも、彼女は発見された時、鎖で繋がれていたんですよ、しかも、逃げられないように玄関に鍵をつけて……。救助した時も助けて、と叫んでいましたし、何らかの暴力を受けていたのは間違いないと……」
医者の言葉は、彼女の主張を裏付けるものだった。彼女は決して酷い扱いは受けていなかったらしい。女性の警察官が医者に反論したが、年かさの男性警察官がなだめる。
「監禁されたことは状況からして確かでしょう。……加木の自宅マンションには、彼女が生活した痕跡がありましたが、マンションの防犯カメラの映像を見ると、一ヵ月の間、二人とも一度も、部屋から出ていないのです。……同棲というには無理があるでしょうし、部屋からは長年にわたり、被害者をストーキングしていた証拠も出てきました」
「……っ」
内藤はぐっと拳を握りしめた。あの男のやったことは、改めて許されることじゃないと憤る。
「……私が先程言ったのはあくまで体の傷です。彼女の証言は、心理的に強いストレスを受けた結果だと考えられます」
「どういうことですか?」
内藤が尋ねると、医者はその目を真っすぐ見て話し始めた。
■
寒気が止まらない。
不安で、不安で、どうしていいかわからない。
何度説明しても、誰も聞いてくれなかった。私は彼と暮らしていただけだ。彼は私を愛して大切にしてくれたし、私も望んであの家にいた。早く帰りたい。彼に会いたい。なのにどうして、私はこの病院から出してもらえないのだろう。
「中条さん、面会の方が来てます」
「……っ!」
声をかけられ、私ははっとしてドアを見た。彼が来てくれた――そう思ったのに。
「……中条さん」
「……。え、……?」
そこにいたのは、予想もしなかった人だった。会社の同僚の……内藤さんだった。どうしてこの人がここにいるのか。私は混乱する。
「具合、どうかな。果物とか持ってきたから、良かったら食べて」
「どうして……?」
渡されたミカンを見ながら、私は問いかけた。自分には何がどうなっているのか、わからない。
「……中条さんのこと、心配したんだよ。急に仕事に来なくなって、挨拶もなくて……、何かあったんじゃないかって、心配したんだよ」
「……。」
「覚えてる? 最後にあった日、俺、中条さんに、営業の資料作ってってお願いしたやつ。あれ急ぎじゃなかったのに……俺がちゃんとそう言わなかったのが悪かったんだ。それで残業することになって……本当にごめん」
「いえ……あの、私は……」
私が彼から目を逸らして言うと、内藤さんは、パイプ椅子を取り出して私の横に座った。息をつく。
「まずはゆっくり休んで。仕事のことは心配しなくても、事情が事情だから、ちゃんと復職できるようにしてもらえるように、俺から会社に掛け合うよ。家のことだけど、中条さんの住んでた部屋はまだ空いたままらしい。君の部屋の荷物はいったん警察の人が預かっているけど、一通り確認したら、すぐ返してもらえるらしいよ」
「……何のこと、ですか?」
「落ち着いて聞いて欲しいんだ。……君と住んでいた、あの男は……君の名前で会社に退職届を送って、勝手に仕事を辞めさせているんだ。それに、君が病気になったと嘘をついて、君の住んでいたアパートから、勝手に荷物を運び出した」
「違います、それは――」
内藤さんは静かに首を振った。
「中条さん、君は自分の足であのマンションに行ったわけではないんだよ。自分の手で退職届を書いたわけでもなければ、自分で引っ越しをしたわけでもないんだ」
「……ちが、ちがう……」
この人もなのか。
私たちは望んで一緒に暮らしていたのに。幸せだったのに。あんなに幸せだったことなんて、今までなかったのに。
この人もそれを否定するのか。
「違うんです、私は、本当に――」
「……あの男と好きで一緒にいたって、そう、警察の人に言ったって聞いたけど」
内藤さんは、唇を噛む。暗い声に、私ははっとした。
怖くなって身を引こうとした時――、私の手を、内藤さんが両手で握っていた。
「中条さん、それは――愛情じゃない」
その言葉は、私に深く突き刺さった。
「君は、犯人に拉致監禁されて、強く恐怖したんだ。犯人に従わなければ何をされるかわからない、そういう極限状態で――君は自分の心を守るために、犯人の男に好意を持っていて、それで男に従っていると錯覚したんだ」
医者の話では、ストックホルム症候群というらしい――と内藤さんは続けた。
「……だけどもう、君は助かったんだ。あの男に何かされる心配はない。心の傷はすぐには治らないかもしれないけれど、俺もサポートするから、少しずつ、元の生活を取り戻していこう」
「でも……」
私がいなくなったら、彼は。あの寂しがりの彼は。
「でも、彼は……私のこと、愛してるって……そうだよ、行かなくちゃ、私……」
「それも違う。確かにあの男は君に執着していたのは確かだよ、だけど、閉じ込めて外に出さないなんて、そんなのは、間違ってる」
「……っ、や、やめて……痛い、離して」
内藤さんが慌てて私の手を離した。知らず知らずのうちに強く握られていたらしい。
「……ごめん。一度に色々言い過ぎた。ゆっくり少しずつって言いながら、つい焦った。……でも、俺は中条さんのこと、本当に心配してるんだ。こんな風になるまで……助けるのが遅くなって、申し訳ない」
真剣な口調に、私は目を逸らした。何を言えばいいかわからず、内藤さんが立ち上がって帰るのを黙って見送る。
「…………。」
「また来るよ。じゃあ」
残されたお土産のミカンは、酸っぱい味がした。




