彼女のいない世界
「凪の家族を覗いてみましょうか?」
私は『天鏡』を覗き、凪の家族を見たいと強く念じた。
すると、鏡が波打ち収まると、ある1人の女性を映し出した。
(お母さん…)
凪の母のようだ。
凪の母は、車椅子に座りニコニコしながら目の前の木を眺めている。
「小早川さーん、そろそろお部屋に戻るましょうか」
近寄ってきた看護師に車椅子を押され、部屋に戻って行く。
凪の母は、療養中のようだ。
(お母さん、病気なの?)
凪は、不思議そうにしているが、心配している様子はない。慣れているのだろうか?
凪の母が病室に戻ると
「おい!いつまで家の事サボるつもりだ!」
病室で偉そうに仁王立ちで怒鳴る男がいる
(お父さん…)
凪の気持ちに嫌悪感が宿る。
「小早川さん、何度も申しあげましたが、奥様は頭を打った後、記憶障害になられています。まだ歩く事もままならないのですよ」
看護師が丁寧に教えているけれど、凪の父は聞く気がないのか
「そんなもん、こいつのただの甘えだ!さっさと帰るぞ」
そう言って、凪の父が強引に母の腕を掴み、車椅子から引き摺り下ろした。
「何してるんですか!やめてください小早川さん。誰か!先生を呼んでください!」
引き摺り下ろされた凪の母は、ぺたんと床に座り込んだまま、凪の父に腕を掴まれ引き摺られている。
慌てた看護師が、医師を呼ぶが、その間にも凪の母は引き摺られて行く。
私達は、鏡越しで見ているだけなので、非常にもどかしさを感じていた。
「小早川さん!奥様は、怪我をされてます。これ以上酷いことをしたら、悪化してしまいます!」
看護師が叫びながら凪の父の手を掴み、何とか進行を止めようとした時、数人の男性がこちらに向かって来た。
「うるさい!偉そうに他人が人の家の事に口を出すな!」
凪の父は、頭に血が昇っていたのか、あろう事か、看護師を殴りつけた。
「きゃあっ!」
看護師が、床に叩きつけられた時
「やめないか!」
男性看護師2人が、一斉に凪の父を取り押さえた。
倒れた看護師は、駆けつけたもう1人の医師に抱えて起こされたが、
手首を強打した拍子に骨折していたようだ。
「小早川さん、これは、立派な傷害罪だ!誰か、警察を呼んでくれ」
医師は、看護師を起こした後、凪の母を抱えて車椅子に座らせ、手首を折ってしまった看護師を下がらせた。
「その男をそのまま押さえておけ」
と、男性看護師に言って、医師は怪我人の処置に向かった。
(お母さん…認識、出来ないのね…)
凪の母は、一連の行動の間、ずっとニコニコと笑っていた。
記憶障害だけではなく、認識も出来ていないようだ
警察はすぐに駆けつけ、凪の父は連行された
病院が、被害届を出したので、凪の父はそのまま留置所に入れられた。
通報した医師は、看護師の怪我を見て、凪の母の入院した理由は、階段から落ちたと言われたが、今回の事を見る限り、疑わしいと、警察に説明した。
警察が、凪の兄に連絡をしていたので、そのタイミングで凪の兄を覗き見た。
(兄さん、生きてたんだ…)
凪は兄の姿を見て、生存していた事に少しだけホッとしていた。
お金を払い、誠意を見せれば、凪の父は解放されたかもしれないが、凪の兄は
「既に縁を切っています。私には関係ないですが、その男は昔から、嫁だけでなく、亡くなった娘にも暴行してます。反省しないので、実刑でお願いします」
そう言ってあっさり電話を切ってしまった。
私達は、居た堪れなくなって天鏡を閉じた
「凪、なんて言うか…」
余りの出来事に、私もギードも何も言えなかった。
(気にしないでください。いつかこうなると思っていたので…ありがとうございます)
凪は全く気にしていなかった。
——私はその事が、何より悲しかった
「凪の会社の様子見てみたらどうだ?」
間が持たず、ギードなりに気を遣って、凪に声をかけたつもりだったのだろう。
「凪、どうする?」
凪に尋ねると、一瞬不安そうにしたけれど
(はい、よろしくお願いします)
そう言って凪は、覚悟を決めたような気配になった
鏡の中には、都合よく凪に仕事を押し付けて、結果だけ取り上げていた同僚達がいた。
「おい、これの前期の資料って、どこにあるんだ?」
会社の男性が、女性に資料の有無を尋ねた
「私に聞かないでよ、それ小早川さんがやっていたんだもん」
女性は、ぷいとそっぽを向いて、自分のPCに向き合っている。
「はぁ?納期過ぎても終わってないこの仕事は、そもそもお前の担当だろうが!」
男性はイラついて、資料でバシバシと女性のPCと頭を叩いている。
「あーもう。うるさいわね!何よ、あんただって、昨日終わった奴、ずっと彼女に投げていたじゃない!」
女性も苛立ち、声を荒げた。
男性は、鏡を取り出し乱れた髪をぶつぶついいながら、整え始めた女を見て
「バカヤロウ!お前のせいで、最近他の部署から、馬鹿にされてるんだぞ?長々と化粧直しする暇があったら、仕事しろよ!」
残業しても期限内に仕事が終わらず、別の部署から無能扱いされているようだ。
「何だこいつら?仕事中に随分と低レベルな争いしてるんだな」
ギードは、争う男女を見て嘲笑った。
(この2人、仲良かったのに…)
凪は、2人のやり取りにかなり驚いているようだ。
「前は違ったの?」
どう見ても、仲良くは見えない
(いつも、余裕があって、有能だと…男性の方は他部署から昇進間近って言われてました)
凪は信じられないと、呟いているけど…
「凪は自分の業績に無頓着過ぎ。彼らは今までずっと、凪に難しい仕事を押し付けて、成果を奪っていたのよ」
仕事が出来ていたのは凪の方だ。
「何だそれ?凪は随分酷い事されたんだな」
ギードは、鏡の中で今もまだ、醜く言い争いをする2人を見て、険しい顔をした。
(私、利用されていたのですね…)
凪は悲しそうにして男女を見ている。
「凪、上司も覗いてみようか?」
私はどうしようかな?と思い確認したら
(…お願いします)
一瞬迷ったけど見る事にしたようだ
鏡を覗くと、元上司の男性は、他の部署の隅の机で、資料をクリップでまとめていた。
(何でこんな仕事…)
凪が驚いている事が伝わって来た
「おい、無能!会議に使うんだから、さっさと終わらせろよ」
かつての上司は、下を向いたまま、他の社員から雑な扱いをされていた。
「お前が部署を管理するなんて、100万年早かったんだ!過労による事故死をこの会社から出しやがって!」
近づいて来た社員は、元上司を囲んで冷ややかに文句を言っている。
「お前のせいで、会社の評判ガタ落ちだぞ?
小早川が死んで、部署の業績が不振になるとか、ありえないだろ」
そう言って、元上司の机に更に書類を積み上げた。
「管理不行き届きの癖に降格処分だけとか、甘過ぎ。小早川に感謝しろよ」
そう言って、社員は去って行った。
元上司は、何も言わずに黙々とクリップで資料をまとめていた。
「凪、どうだった?」
凪は、自分がいなくなった後、ぐしゃぐしゃになっていた会社を見て、
ショックの余り、言葉が出てこなかった。




