69話
少し離れ、見守る。リスクもなく、ただリターンがある。ここで会ったのもなにかの縁、記憶には残るだろうと楽しむことにした。
「もちろん」
と、女性は一瞬でチェリストのスイッチを入れる。空気が変わる。人々の雑踏が、耳に入らなくなる。想像するのは、劇作家ジャン・アヌイの『レオカディア』。
アルベール王子は、レオカディアという女性と出会い恋に落ちるが、三日後にレオカディアは事故で死去してしまう。悲しみに暮れる王子は、二年後、母の計らいによって、レオカディアそっくりのアマンダという女性と出会うことになる。そして三日間、レオカディアのように振る舞うように言い伝えられたアマンダは、ある歌を歌う。
プーランク『愛の小径』。同主調転調。急激に曲の雰囲気が変わる転調を採用し、なんとも言えないオシャレなパリの風情を感じさせる名曲。元はアマンダの歌曲なのだが、歌詞を読んでみても、楽しい思い出を語る前半と、絶望的な悲しみを語る後半に分かれる。しかしなぜか楽しい前半を暗い短調、悲しみの後半を明るい長調と、あべこべな作りとなっている。おそらくなにかしらの意図がある。
そんな『レオカディア』の物語を知ってか知らずか、女性の弾くチェロの音に聴衆は惹きつけられる。次第に雑踏の声は止み、囲うように人だかりができ、急いで撮影し出す者もいる。聴こえるのはチェロの優雅な音と、小鳥の囀り、木々の葉ずれ。
「……ねぇ、これ、たぶんだけど」
その演奏を聴きながら、ニコルは小さな声でブランシュに語りかけた。
そして、ブランシュも目を見開いて頷く。
「……はい、おそろしく上手いです」
大勢の人だかりの前で弾くのであれば、ある程度の腕前があるとは予想していた。だが、それを遥かに超える実力。ブランシュは感動よりも衝撃の方が強い。
音の焦点の合わせ方に迷いがない。おそらくC・G・Dの弦には、羊の腸を素材にしたガット弦、Aにはピラストロのクロムコアスチール。弓はトルテか。それぞれの特徴をよく理解している。
かつて、クリーヴランド管弦楽団で主席奏者であった、リン・ハレルが言っていた『チェロはメロウなものから、巨大な怒りまで表現できる』という言葉。ブランシュは初めて理解した。ホールでもない、反響の雑なこの場所で、心に響くチェロの音色。
五分ほどの演奏であったが、終わった瞬間、みなが正気に戻るまで二秒ほど要した。そして、喝采。からの、いつの間にか用意されていた、折り畳みの小さなカゴに、おひねりをどんどんと投入していく。そして、握手や記念撮影など。未来のスターかもしれない彼女に、お近づきになりたいのはパリの人々も同じ。
数分を要した後、人々は元の日常に溶け込んでゆく。荷物を片付け終え、女性はニコルとブランシュに再度声をかけた。
「やはり、大勢の前で弾くのは気持ちいいね。みんな盛り上がるし、おひねりももらえるし」
おひねりと聞き、うっ、とブランシュは苦い記憶を思い出し、ニコルを見る。お金を渡してくる人を信用できない。
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