190話
たぶん理解はされないだろう、と予想を立てつつもブランシュは解説に入る。
「たとえば、ドイツ語には『ウムラウト』というちょっと特殊な発音がありますが、会話ならともかく、シューマンが理想としていたとされる歌唱には、ネイティブの中でもさらに特化した能力が必要、とさえ言われています」
そして、フランス語にも存在し特徴的な『リエゾン』。前の単語の語尾と、次の単語の語頭が滑らかに喋ることができるように『結びついて』発音される現象。それがこのドイツ語の歌曲でも重要な位置にあり、より難易度を引き上げている。
かろうじて『発音が難しい』と受け止めることができたニコルは、この曲を選んだ人物を想像し奥歯を噛み締める。
「爺さん……!」
ギャスパー・タルマ。フランスを代表する調香師。なんでよりによってこの曲を。歌て。歌て!
その歯痒い気持ちはブランシュも一緒。手を出せない位置で物事を進めるしかない。
「ピアノだけであれば……他力本願にはなってしまいますが、ヴィズさん達でも充分に満足のいく演奏ができるはずです。が、そこだけはどうにも——」
「待って。ネイティブならいける、んだよね?」
ひとつ、名案が浮かんでしまったかもしれない。やはり私は運がいい、そうニコルは自分が怖くなる。
どうせ変なことなのだろう。それに、ネイティブならば誰でも、というわけでももちろんない。
「それだけでは。歌もテンポが難しいんです。シューマンの曲の特徴に『速さを変えたあとでもそのまま』であることが多いんです。普通はア・テンポ、つまり元の速さに戻すのが普通なのですが、それもないため感情をどれだけ乗せられるか」
シューマンの楽曲は魂の叫びのような、熱さを必要とする場合が多い。それこそが歌の詩人と呼び、呼ばれる際たる要因でもあるのだが。
そしてここで。ベッドの上で沈黙を守っていた携帯から、助言が舞い込んでくる。
《それだけじゃないんだよね。歌うだけではなく『語る』難しさ。この曲への理解が全てだ》
繋がっていた先は、ベルギーに存在する姉妹校ルカルトワイネの音楽科でチェロを弾く少女、フォーヴ・ヴァインデヴォーゲル。
その言葉通り、美しい歌曲にはそれだけでは終わらない複雑さも混じっている。さらに頭の痛くなる課題にブランシュも俯きの角度が増す。
「……ですね。特にシューマン達ロマン派は、曲にサブタイトルのようなものを付け出して、それぞれに深い意味を持たせ始めました。この頃から、よりクラシックは情熱的になった、と見る方もいますね」
それまでは『第一番』など、簡素に締め括られていた曲名が、独立する歌集のように『トロイメライ』や人名などで彩られるようになってきていた。その先駆けが彼なのである。




