161話
そこからきているという説が有力だが、人生の全てをベットしてのめり込んでいたものを、容易く凌駕された際に根こそぎ活力を奪われたり、弾けなくなる症状を《ハイフェッツ症候群》という。酷いものになると、ヴァイオリンの弓を持つことすら出来なくなり、触れただけで嘔吐する者もいる。
厄介なやつー、とサロメもやる気が奪われた。むしろシューベルトを弾けてはいる時点では、まだ傷は浅いほうか。となると。
「……社長。貸しとくわ。ちゃんと返してね」
手はないこともない。正確には、治す方法はない。メンタルの部分でもあり、精神科医にでもかかったほうがいい可能性も高い。だが、間に合わないというのなら、荒療治もアリっちゃアリ。
やる気を出してくれたエースに満足のルノー。しかし発言に気になる部分。
「キミへのクレーム、だいたい処理してるの私なんだけど」
調律先での家のものを勝手に飲食、途中帰宅などなど、専用のクレームファイルがある。ただ、それでも実力が伴っているため、クレームを入れた人達からのリピート率は高い。
「それはそれ。これはこれ。『WXY』のマンディアン。五箱」
老舗ショコラトリーのお菓子をサロメは注文する。ナッツやドライフルーツが乗ったショコラ。頭の中がそれでいっぱいになる。
なんとなくこうなるだろうと読んでいたルノーは、ひとつ提案。
「あの子に頼めば?」
アトリエにはWXYと繋がりがある。顧客、というわけではないのだが、そこのスタッフとは知り合いなのだ。なのになんでわざわざ。
過去を回想するサロメ。少し不機嫌。あいつには約束を破られた。
「イヤよ。新作が出来たら真っ先に持ってくる、って言ったのに忘れてるし」
「仕方ないね。元々は私のお客さんだし」
ルノーも諦めて条件を呑む。自身にはいい案は思いつかなかったのでひと安心。誘っておいてやっぱりダメでした、は申し訳ない。
勝手に話が進む現状に、覇気をなくしたイリナも介入する。
「……なんの話……?」
自分のことなんだろうか。わからないが、今を整理したい。どうなっている?
その答えはサロメが明かす。思いついた方法。調律師の範疇じゃないっつーの、と険しい目線を突き刺す。
「ピアノの講師じゃ絶対にやらない矯正。ま、治るかはあんた次第。あたしにはどっちでもいいけど」
今後の参考にやってみるだけ。結果はどっちでもいい。ミスっても知らない。弾けなくなったらなったで、その程度だったと諦めてもらう。




