妖精と愉快な仲間たち
誰かが魔王ルイの仕業と叫び、誰かがこうなったら先にやってやろうと奮起して、世界のどこかで大量の武器が配られて、戦え戦え何をしているのだこうしている間に故郷が焼かれるぞ今こそ戦え相打ちしてでも魔王を殺せ。教会が鐘を鳴らして神に加護を求めだして、それはむしろ人々の胸騒ぎを助長し、女性がすすり泣き、馬が嘶いて、この状況で兵を動かすのは早計だまずは全世界の魔術師を動員して上空の魔法陣を解読すべきだと穏健派が円卓を拳で打ち付け、あの緻密な魔法陣を解読するには人生が五十回ほしいと筆頭魔術師が悟った顔で言いきって、先走った若者が得物を片手に単独で魔界を目指し、
やがて不穏な雨が降り出して、
そうして始まるものがある。
*
落雷が地を抉り、魔物の血を啜った鷹すら飛ばされる風雨が吹き荒れていた。
湖の中で夢から覚めた心地のエレノアは、少し呆然としたけれど、
「……あっ」
子供がおなかにいる時は、水に浸かっていたらダメだった! たしかそうだった気がすると思うが早いかエレノアは腹に手を当て、岸に向けて歩きだした。
風に煽られて水面も荒れている。子供に気を取られたまま岸に上がった。水から出た体は重くて、その場にぺちゃりと膝を着いた。白ワンピースが透けているとか、今更そんなこと気にするタマでもなかった。
――大丈夫だよね?
自分の中の小さな魔力に集中すると、じんわりと暖かかった。母体の惨状をものともしない。魔王と妖精の子供はさすがに丈夫なのかな、とエレノアは息を吐いた。けれど皮膚にぶち当たってくる雨の勢いを見るに、むしろ水中の方が安全だったのではないかとも思う。
改めて、黒々しい上空を見た。雲は一定の方向に流れていたけれど、空を飛ぶ妖精からすれば違和感がある――どこか強制されているような動きだと思えた。気ままに風に乗っているのではない、いつもの雲らしくない、不自然さ。あまりの暗さにもう日が沈んだのかと思ったけれど、実はそうではないことを、雲間にちらつく光で理解した。
エレノアの頭の中の地図に、魔界とこの場所の位置関係が思い浮かぶ。それに魔界では、彼の感情が天候を左右するとも。
魔界を中心に大気が渦を巻いているのだ、それが人間界にまで作用して、だからここまでおかしなことになっているのだ、とそこまでは察した。
察して。
それで、どうする?
だってどう見ても、手の付けようがなかった。今しがた夢から覚めたばかりの一妖精にはどうしようもない規模の天災を前に、何ができるというのか。
視線を彷徨わせていたら、上空左奥が青く発光しているのが見えた。雷かと思ったけれど、光は切れることがない。音もしない。じいっと目を凝らすと、その光は模様だった。円形だろうか、木々の影で見切れてなだらかな曲線の一部だけが見える。暴風に比例して、青い光はどんどん強くなっていく。
その光の色をエレノアは知っていた。
たぶんあれは、ルイの魔法陣だ。――本当に?
思い出すのは、ハスミとの決戦の場でも見られた『死』を感じさせる魔法陣。それがどれだけの規模で展開されているのか、考えるだに恐ろしい。
あの約束を思い出す。エレノアが生命を絶つ、あるいは帰ってこなかった場合。
殺すつもりらしい。
約束を違わず、人類の十分の一を、きっちりと。
「いや、いやいやいや、……え?」なんて語彙力最底辺の心の声がそのまま漏れたことに、自覚すらしなかった。暴風強雨と光で織りなされた光景の絶望感といったらいっそ神々しいほどで、つまりは神の領域なのだ。勇者が一人や二人や十人いてどうにかなる問題ではない。眼前にあって尚も嘘のような、これが世界の終わりだ。終わるのだ。これから終焉だか崩壊だかの地獄絵図が始まるのだ。きっと世界中の人間が今、エレノアと同じように空を見上げているに違いない。
けれどそこらの人間と違って、エレノアには主犯との繋がりがあった。
――エレノア――どこにいるんですか、何故消えてしまったんですか――髪があるのに、どうして辿れない、どこに――君の気配がない、どこに行った、どこに、どこに、子供がいるのに――生きてるんですよね、まだ大丈夫ですよね、どこにいる、痛いだろうに、こんなことなら外に出さなければ――ちゃんと閉じ込めてあげれば――もうあんな姿を見たくないのに――子供は無事ですか――エリー、エリー、お願いだから無事で――
膨大な濁流だった。思いっきり捻って壊してしまった蛇口みたいにとめどなく流れてくる声に、エレノアはいても立ってもいられない。
髪で辿れなかったとは、さっきまでエレノアがこの世のどこでもない場所にいたからだ。
けれども今はここにいる。
いるのに、彼は気付かない。
ずる、……ずる、
体を引きずっていく。
銀の作用と貧血で気絶してしまいたいけれど、今はただ、彼の元に帰りたかった。彼がどこにいるのかはわからないけれど。
飛ぼうとしても羽が濡れて、全身が重くて、右羽が動かない。左肩に空いた穴はもちろん塞がってなんていなくて、銀も埋まったままで、真っ赤な血液がひたすら流れていく。
ずる、ずる。
足を体を髪を引きずった。
地面に赤黒い痕を残しながら。
ぽた、ぴちゃ、重い血液混じりの水を滴らせながら。
「……ルイ……っ」
私は生きてるよ。大丈夫だよ。そう伝えたいのに、声は誰にも届かずかき消されてしまう。頭の中に彼の絶望する声が流れてきて、意識を手放してしまいそうな疼痛がする。空の魔法陣の光が強くなる。暴風が吹きついてくる。たとえ羽が無事だったって、きっとこの天候では飛べなかった。
彼の声が聞こえる。
――ごめんなさい――また間違えました、僕はまた――まちがえた間違えた間違えた間違えた――君をまた傷付けた――ごめんなさい――どうか生きていて――間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた――
聞こえるのに、こちらの声は届かない。ひたすら「間違えた」と「ごめんなさい」がこちらに流れ続けている。
「ルイ」
エレノアの瞳から水が溢れる。
これ以上は濡れる余地のない妖精の頬を涙が伝って落ちるけれど、すでに血やら湖水やらで湿った地面では、涙の跡も目立ちようがなかった。
「私の声も、聞こえなく、なっちゃった?」
子供ができたんだよ。
きっと幸せになれるよ。
だから私の声を聞いて。
背を丸めて地面を見つめ、綺麗な銀髪も泥と血にまみれて、大妖精の自負も粉々になるほど、惨めったらしい姿。
けれど嵐は止まない。魔力の光が強くなって、曇り空の下が不自然な青色に照らされていく。
ひぐ、ひぐ、と下手くそな嗚咽を漏らして泣きじゃくるエレノアの周囲に、
わーっ!
どこから現れたのか、小さな同胞たちが集まった。半分以上は強風に煽られてぶつかってきたと言った方が正しかった。何匹かはぶつかれもせずに飛ばされていってしまいそうだったけれど、エレノアが反射的に手を伸ばしてなんとか回収した。
彼らは彼女にしがみつくか、銀髪やスカートの裾に隠れて、ぴいぴい鳴いた。
湖畔は随分前から妖精の溜まり場だ。天変地異に怯えて身を隠していたけれど、ランクの高いエレノアを頼って出てきたようだった。彼らは皆が苦しそうに両耳を押さえて、ふらふらしていた。
涙を拭いながら、鼻にかかった声で、とりあえずは訊ねてみた。
「……どうなってるの?」
周囲の妖精が口々に、エレノアの問いに答えてくれる。
魔王が怒ってる。
魔王が悲しんでいる。
大事な番を探してる。
人間がたくさん魔界に向かっている。
こわいものをたくさん持って。
みんなこわい
おこってさけんでる
この天変地異が魔王の怒りと勘付いた人間たちが、すぐにでも開戦しようと集っている。多くの武器を持って、奮起と怒りを高らかに叫んで。
隠れてたの、怖かったの、と彼らはぽろぽろ涙を流す。
エレノアの頭の中に、ルイ以外の声も紛れてきた。同胞の念だ。
にんげん まおう こわい いっぱい
くらい
たくさんのにんげんがこわがってる
おこってる
こわい こわい こわい
まおうのひかり
こわい たすけて あたまいたい こわい
風の中に怒りや悲哀の声を聞いてしまった妖精から、こちらにまで念が繋がっている。そうして世界中の妖精に伝播して、恐慌状態に陥っているようだった。
小さな仲間たちが、魔王と人間の真黒い感情に怯えている。
凄まじい風と雨に、エレノアは彼らだけでも庇っていたくて右腕に抱えられるだけ抱え込んだけれど、自分だって吐き気がするほど頭が痛い。ルイの声、人間の声、魔法陣、約束、もう何がなんだかわからない。結界を張れるほどの魔力もない。
エレノアには何も残っていなかった。ランクSとは名ばかりの、雌妖精の搾りカス。こんな自分にできることといえば、この風に対抗できそうなものは。
――声。
エレノアは一つだけ思いついた。
周囲を見た。湖の水際にぽつぽつと、赤いものが打ち上げられていた。実家の妖精たちがくれた、魔力をたっぷり含む赤い木の実だった。
エレノアはそれを口に含んで、少しでも魔力を補給する。腹の赤子にも行き渡るように。
そして。
「……あ、……――、」
すう、と息を吸って、妖精は歌う。
かつてスティラス兄妹を寝かしつけた特技。
「『 』」
彼はこの歌が好きだったはずだ。
遠くにいても気付いてくれるはず。
――ルイ、気付いて、
――ここにいるよ。
けれどどんなに歌声を上げても、この風には太刀打ちできない。怨念と悲哀と憤怒の叫びに押されて、何も伝わらない。ぼろぼろの雌妖精一匹では、世界中の混乱をどうすることもできない。
――私なんかじゃ、やっぱり。
ルイに少しも信用されていなかった自分では、彼の荒れ狂う激情には届かない。
その時、自分の右手が何かを握りしめていることを思い出した。
「…………。」
それがここにあって、良いのか悪いのかもわからない。この場を収めるには間違いなく役立たずの月時計。実用性のない、ただただ綺麗なだけの逸品。決死の覚悟で飛び立って見つけたそれも、今となっては虚しさすらあった。涙が月時計に当たって、つるりとしたリング部分を滑り落ちていく。
これを渡す以前に、彼は妻を見つけてもくれないのだ。
疲れたな。
ずっと認めたくなかったけれど。
そして同時に、
「ああ、もう」
一周回って湧き上がる熱がある。
ぽつりと出した声が呼水になって、腹の奥の炎が膨れ上がる。
――この私の声も聞き逃すような、
「あんな子に育てた覚えはないのに……!」
だってこれこそ離婚案件だ。
ルイの、今までで一番に酷い裏切りなのだ。
たとえ今の彼がエレノアへの愛ゆえに嘆き悲しんでいるのだとしても、だからこその人間への報復なのだとしても、それほど好きなら私に気付けと叫びたい。
――嘆くのは、私の死体を見つけてからでしょ!
そして彼らの存在を思い出した。
ここにいる彼ら。そして世界中に隠れている同胞たちを。
「みんな」
語りかける。まずは、ここにいるみんなに。
「手伝ってくれる?」
最初は「え」という顔をしていた。けれどエレノアからの要求を察すると、皆は顔を見合わせてエレノアから離れた。座り込む彼女の周囲にぐるりと輪になって、手を繋ぐ。この中の誰も吹き飛ばされていかないように。
昂りが羽に伝わって震えている。
エレノアの真正面にいる一匹が眉をきっと吊り上げて、
『歌』
声にすればたった二文字のその言葉が、ものすごい大魔術のようだった。
声が、意味が、皆の表情が、エレノアの胸に熱を灯す。一言が心を揺らして、それが妖精たちに伝わって広がって、その反響がエレノアにも聞こえて、妖精たちの中で『歌』の声が重なって、自分たちでも制御できない大きな大きなうねりになる。一匹一匹が透明な線で繋がれているような安心感。全能感。歌は伝わらなければ意味がないのだと当たり前の現実を悟りながら、
息を吸った。
そして、
「『――、――』」
エレノアの歌に呼応して、皆が歌う。ランクの上下も新参も古参も関係なく、すべての妖精が生まれた時から知っている不思議な調べ。魚が泳ぐように、鳥が飛ぶように、妖精は歌う。
初めは湖畔にいる妖精たち。
それから全世界の同胞へ、その感情が広がっていく。皆が歌い出す。
『 』 『 』
『 』
歌、歌、歌を歌う。この嵐にも負けない、怒りのように強く急く心を声にしよう。
いや。
それはまさしく、妖精たちの怒りだった。
同胞たちは『どうして自分たちを怖がらせるのか』と。純粋ゆえに巻き込まれてしまった理不尽に。それまで虐げられてきた事実を思い出して。
エレノアはそれに加えて『どうして私の声を聞いてくれないのか』と。あれだけ愛を注いでくれたくせに信用してくれない魔王にだって、彼をここまで追い詰めた人間にだって、不条理な世界すべてにエレノアは怒っている。
憎しみの先の悲しみ、その果ての怒り。感情のすべてを引っくるめて紡ぐのは、それでも透明な歌声だった。
思い知れ。
世界中に吹き荒れる悲鳴のような風は、むしろ歌声を届ける媒介になってもらって。
真っ白な怒りを、渾身の子守唄を、我を忘れた者たちへ。
思い知れ、思い知れ、思い知れ。
人間たちが時には踏みつけ、見過ごしてきた、ちっぽけな妖精の真髄を。
我を失ったまま、わけもわからず争うくらいなら。
いっそのこと、みんな眠ってしまえばいい。
『 』
『 』 『 』『 』
『 』 『 』
『 』
音、声、風、大気のすべてで共鳴する妖精の歌。優しくはない。ただただ透徹とした、硝子細工のごとき音色。
風に散らされた花弁と、葉と、雨の雫と、雲間から射す陽光と、今や自然の全てが妖精の味方だった。
世界中の人間は、中空に微細な粒子の煌めきを見た。そして意識を失った。
ひとたまりもなかった。
かつて、人間を見限った世界中の妖精が、一夜で一斉に巣を捨て逃げた。
それを可能にしたのが彼らの繋がり。
ルイとエレノアのそれより遥か昔から存在する、繊細で強固な連携だった。




