妖精と二人の女
「さて」
クレアとハスミがその矛先を収めた頃には、エレノアはテーブルに突っ伏していた。
「寝てる場合じゃない。起きろ冷血妖精」
「はい冷血妖精です」
「ゆっくりでいいから、今どうなっているのか説明してくれる?」
飴と鞭が絶妙な塩梅で、お茶会の皮を被った取り調べが続く。容疑者たるエレノアは項垂れながら、圧の強い二人に己の胸の内を話した。彼との関係、経緯、現状。前世や元人間やゲームなどの話はしなかった。
途切れ途切れの説明でも要点や想いを汲んでくれたのか、やっぱりね、とハスミ。
何が「やっぱり」なのか読めないクレアとエレノアは、顔を見合わせた。
「廃都グレノールで、宮廷魔術師の手記を読んだわ」
「あの、私が読めなかったやつ?」
ゲームでもあった、一度読めば消滅してしまう手記。けれどそれはゲームの内容と違って、ルイとエレノアの黒歴史が書かれていたようだ。勇者ハスミとの決戦の場で、たしかそのようなことを言っていた。
エレノアは中身を確認できなかったから、いったいどこまで詳しく書かれていたのかも、彼のどんな心情が綴られていたのかもわからない。
「私も一度読んだだけで、詳しくは覚えていないわ。でもあれが本当だとすれば、魔王になっても当然なのかもしれないなって。それだけの恨みが溢れていたように感じたわ」
「……恨み」
耳慣れない言葉だ。苛烈に憎しみと表すより、湿っぽく根深い印象を受ける。
「でもね」とハスミが続ける。
「どんな恨みだって二百年も三百年も続くものじゃないわ。人間の精神はそう長く生きられるようにできていないのよ。寿命が百年あるかないかってくらいだし、それ以上はどうしたって風化する」
人生の嫌なこと、色々なことを忘れながら破れかぶれに生きて、やっと百年。
「そう考えれば、良い魔力を摂るだけ長生きする妖精たちがあまり深く考えない性質だというのは、そうすることで精神を保っている面もあるのかしら。……なんてね」
それだとエレノアがこうして悩んでいる説明がつかないわね、とハスミは苦笑する。けれどエレノアは言い返せなかった。エレノアの中に人間の思考が入っていることは、自分だけが知っている。
「話が逸れたわね。私の国の物語に、悪質な怨霊の祟りがどうとかって話があるんだけど、ルイもそれと同じなのかもしれないと思ったわ。こっちにもそういう話ってあるの?」
「恨みをもった人間の魂が害を及ぼす、というものか? どこかで読んだことはあるが」
言わんとしていることを察したのか、「なるほど」とクレアが頷く。エレノアも頭の中で形になりつつある仮説の答え合わせをしたくて、あえて口を挟まなかった。
「ルイはきっと魔王に就任した時から、変わっていないの。肉体の年齢だけじゃない、エレノアへの愛情も、人間への恨みも、固着したまま今がある」
だからいつだって新婚かというほどエレノアを求めるし、だからいつだって人間を憎んでいる。魔王である限り永遠に。――人間を呪い続ける、生きた怨念のように。
「人間が魔王になるって、そういうことなんだと思うわ」
それはとても残酷なことのように思えた。
ルイはその事実を知っていたのだろうか。――知っていたとしても、彼ならその道を選んだだろう。
「勇者さ、……ハスミは、あっちの世界に帰った後もそういうことを考えていたの?」
「そうね。なんでこんなことになったんだろう、どうして二人はあんなことをしたんだろうって気になってて。今エレノアの話を聞いて、たぶんこういうことなんだろうなって……ただの思い付きで申し訳ないけど」
ハスミは胸に手を当てて、
「彼は最後に本音をぶつけてくれたから。真っ向から、痛いくらいに」
今もそこが痛んでいるような顔で言う。
最終決戦は熾烈を極めていた。エレノアはそれを、ドアを一枚挟んだ場所からでしか見ていなかった。ルイの負の感情が発露された時、そこにいたのはエレノアでなくて、勇者ハスミと仲間たちだった。
――『想いだけではどうすることもできないものがあることを、知った方がいい』
あの時ハスミの全身が血塗れで傷だらけだったのだろうけれど、最も痛かった場所が胸なのだろう。無意識か、ハスミの白い指が鎖骨の下から胸元をゆっくり擦る。
「変わらないルイと違って、エレノアは変化してしまうの。妖精としてゆっくりゆっくり成長する、というか忘れてしまう。人間が嫌いだけど、当時ほどの恨みではなくなってしまっている。その差が今になって顕著になったゆえのすれ違い、ということじゃないかしら」
ハスミはエレノアを見据える。
「今のエレノアは恨みよりも、悲しい、の方が近いんでしょう」
そうだ、悲しい。
心臓の奥が引き攣れた。
悲しいなんて言葉だけで表されてしまっても良いものかわからない、恋も切なさも流した血も、様々な記憶を織り込んだ、痛みにも似た感情。
ルミーナを失ったことも、かつて人間たちの光であったルイが憎まれていることも、エレノアのためなら何を犠牲にしてもいいと言いきったルイのことも、彼をそうした自分の無能さも、理不尽なこの世界の何もかもが。濁流のような時間に流されて、こんなことになってしまった今が。
――自分はずっと悲しかった。
エレノアは片腕を摩った。腕を脚を、潰れるまで踏み躙られる痛みを覚えている。羽をむしり取られた痛みと喪失感、妹分を失ったあの一夜。あの日の自分にとって、人間の力は強大だった。
その痛みの記憶すら、やがて風化してしまうのだろう。
エレノア自身が忘れてしまうのに、ルイはその恨みと絶望を忘れない。
そしてハスミの追撃、
「彼の箍を外したのが、エレノアとの約束なのね。エレノアにそのつもりがなくても」
――エレノアが苦しまない世界を。
――君が傷つかない世界を。
「でも、ルイがそうやってエレノアのために怒ったように、魔王に怒った誰かが世界を護ろうとするわよ。絶対に」
「そうだな。何百年、何千年かかっても、いつかルイより強い人間が生まれるだろう」
そうに違いない。ルイもきっと、それを覚悟している。
「私なんかよりもずっと強い誰かがルイを倒すのよ。そうされても仕方がない存在になってしまっているもの」
「それでもお前は、あいつと生きていたいと思えるのか? 本気で?」
語りながら畳みかける二人。かつてルイに想いを寄せていた二人。
今もその感情を持て余しているのかどうかは、エレノアには推し量れない。二人とも自分の気持ちを押し殺して、エレノアを一発ひっぱたきたいのを我慢して、ここに座っているのかもしれない。
けれどどこか本気で心配されているような気もする。エレノアは、ルイが優しいと評する自分よりも、クレアとハスミの方が断然に優しいと確信する。
返事は決まっていた。
「一緒にいたい」
それだけは揺るぎなかった。
二人に引き止められようとも。
「いつかその愛情にも差が出てくるかもしれないわ。お互いに苦しいだけよ。もうお互いを理解できないところまできているもの」
「そうかもしれない。でも、大丈夫かもしれない」
自分でもわからないけれど、心配要らないという確信があった。
ルイの重たい愛情を受け止め続けた二百年間、伊達に夫婦をやっていない。
「いつか私の愛情がルイと同じじゃなくなるとしてもね、本当にそうなる前に、彼はきっと私を石にして、ルイを愛した私のままこの世に留めて、居心地の良い場所に飾ってくれるから」
惚気ながら、それはとても素晴らしいことのように思えた。
クレアとハスミは口を挟まない。
「それでいつかルイが本当に寂しくなって、私の石像だけじゃ満足できなくなったらね。その時は私を砕き殺してくれるし、その後でルイも一緒にきてくれるから」
だから、エレノアが彼に愛想を尽かすことはない。
「それくらいの気概がなくちゃ、私達はとっくの昔に諦めてたよ」
けれど、こうも思う。
――傍に居たい。
――隣で生きていたい。
――それだけのことが、どうしてこんなに難しいんだろう。
「エレノア、それって私の世界でなんて言うか知ってる?」
「なあに?」
「『正妻面』」
「…………。」
ハスミの笑み混じりの嫌味に、クレアでさえ沈黙した。エレノアは面もなにも正妻なんだけどなと思わないこともなかったけれど、据わった瞳の前には些事だった。
この場で最も怒っているのはハスミだ。
当然だった。エレノアがしてきたことを思えば。
「さっきも言ったけど、貴女を許していないわ。もう友達とも思ってない。だけど生かしてくれたことには感謝してるの」
ハスミはしょぼくれるエレノアの額を小突いて、
「だから、これで終わりにしましょうね」
残酷な最終決戦で、最後まで言葉を交わせなかった自分たちの関係を。たとえ生まれ変わったって、二度と会わないように。
もう終わりだ。
穏やかで健全な絶縁宣言を、エレノアは大人しく受け入れた。こんな時こそ笑えばいいのか、泣けばいいのかもわからない、下手な苦笑が顔に滲み出る。
「そういえば最後に聞きたかったんだけど、エレノアは私のことが嫌いだったの?」
「嫌いじゃないよ。どちらかというと好きだった」
「良かった。それが聞ければ十分」
エレノアはとりあえず、注がれて時間が経ったお茶に口を付けた。不思議と淹れたてのように熱いアールグレイが、乾いた口にすっきり心地良い。
手にしてさえいなかったフォークでアップルパイを切り、口に入れる。フィリングの林檎はキャラメリゼされていて、ほんのりとシナモンの香りが鼻を抜ける。香ばしい甘味を味わっていれば、すぐに酸味がじわじわやってきた。
ケーキ向きのおいしい林檎を使っている。
妖精もお気に召す良い味だった。
美味しいと素直に味わうエレノアに、クレアがふと笑う。
「ちゃんと自覚できていて、正直安心したよ」
「……はい」
ルイの行いが誰のためか自覚しろと。
運命に流されるままのエレノアを初めて糾弾してくれたのは、彼女だった。
風が吹いた。
この空間に固まっていた大気が、ここへきてようやく動き始める。クレアの赤い髪を、ハスミの栗色の髪を、エレノアの銀の髪を優しく揺らす。微風に目を細めて彼方を見つめるエレノアの横顔に、二人が顔を見合わせた。
いかにも手のかかるやつだなという雰囲気で苦笑していたクレアだったけれど、一瞬の間を置いて、少女のように泣きそうな顔で「やっとまともに失恋できたな」。細やかな声はエレノアの耳には届かず、同じ気持ちのハスミにだけ伝わった。
凪いでいた水面に波が生まれる。
水平線の向こうからやってくる緩やかな波が、テーブルの脚を浅く浸した。
――エレノア、
どこからか声がした。
二人は責めない。ただ静かにそこにいる。
エレノアは行かなければと思う。
「あいつが呼んでいるのか」
「はい」
きっとこれが最後の会話だと、三人は解っている。
「そう。それじゃあ、さようなら」
「……さようなら」
途端、エレノアの椅子の脚が沈んだ。
椅子に座ったまま後方に傾いていく。
とぷん、
水面にぶち当たるはずだった背もたれもそのまま水中に沈み込んで、エレノアごと水中に落ちていく。上がっていく気泡とは正反対に、底の方へ。いつからか椅子から投げ出されていた。水に揺れる銀髪の間に、先まで座っていた椅子と、使っていたカップが遠ざかっていくのを見届けた。
――エレノア、
――どこに、
冷たくも温かくもない水の中に揺蕩いながら、彼の声を聞いていた。
身を翻した。目の前に白っぽい砂の底と、光るものがあった。
こんなところにあったんだ。
口端が緩んだ。
砂の中に半分埋もれていた妖精の月時計を大切に手に取って、エレノアは上へ向かう。
ずいぶん深く沈んだはずなのに、水面まではすぐだった。
そこにクレアもハスミもお茶会セットもなく、代わりに濃い木々と美しい湖があった。
『ノーシャント湖畔』
スティラス兄妹とエレノアにとって、特別な場所だった。
空が真っ暗だった。




