妖精と暗雲
妖精が落ちていくのを、男は見ていた。
足場にしていた高い岩場で、伏せていた体を起こす。周囲の面々も茫然としていて、やがて、わあっと歓声があがった。
「さすが帝国一の射撃手!」
「…………。」
背中を強く叩かれてよろけた。友人が喜んでいる。
けれど男はそれに応ともなんとも言えなくて、黒い煙が立ち上る銃口を見つめるばかりだった。弾を先端から押し入れて一発ずつしか発射できないマスケット。だからこの場にいる九人で三人ずつ、順番に撃ち込んだ。そのうち妖精の身――左肩に傷をつけたのは、自分が放った一発だけだった。
男は目が良かった。だからこういう仕事を天職と見た。祖国のために戦うのは誇らしかった、けど。
目が良いからこそ、獲物の様子がよく見えてしまった。
「腹を庇ってた。弾は腹には当たってなかったのに」
友人が「それが?」という顔をする。
妖精の羽を貫いたのは、この友人が撃った一発だと思う。なにせ彼は、男に次ぐ二番手だ。
「腹に、こ、子供がいたのかもしれない……!」
それを口にすると、追ってその非情さが己にのしかかってくる。
綺麗な妖精だった。見るからに愛されて育って、ふわふわした、幸せそうな妖精だった。妖精なんて人生で二、三匹見たか見ていないかの男にだって、彼女の美しさがよくわかった。叶うなら、その姿が見えなくなるまで見守っていたかった。
――なのに。
自分の相棒であるマスケットがどこか白々しく、まるで見慣れない他人の得物のように思えてくる。けれど握るグリップの馴染みようといったらなくて、その引き金に指をかける感覚も覚えている。それが現実だった。手が震える。訓練ではそんなことはなかったのに。
「腹に子供? そりゃ上出来だ。魔王の子だったらそれこそ、芽は摘んでおくべきだった」
「そこを飛んでただけじゃないか! あれが魔王妃エレノアじゃなかったらどうするんだ? 銀髪の妖精がどれだけいる? でっかい妖精ってだけで、俺たちは、おれ、」
「そう、銀髪のデカい雌妖精が世界に何匹いる?」
友人は肩を叩いてくる。落ち着けよと言わんばかりの態度。
腹の底がぐずぐず煮えるようだった。
妖精が飛んでいただけで撃った、それではただの通り魔じゃないか。
魔王妃エレノアが銀髪青目という話だって、所詮噂でしかなかった。そもそも妖精研究の権威が遺した本によると、銀髪青目は妖精族に多い色だという。それに射程圏内ぎりぎりの距離にいたあの雌妖精が、銀髪とだけはわかっても、瞳の色なんて確認できなかった。
獲物を獲物とわからぬままに、自分達は撃ち落としたのだ。
「仮に他人……他妖精の空似だったとしても、運がなかったんだよ」
「でもっ」
反意の欠片のような声が、男の口をついて出る。それ以上は言葉にもならなかった。
そんな男を見かねて、友人が慰めのように、
「死んじゃいないだろ。人間くらいに大きく育った妖精だ、一発二発は持ちこたえる」
けれど『銀』だ。
妖精に撃ち込んだものがそれだから、むしろじわじわと苦しめられるのかもしれない。
「なあ、探しに行った方がよくないか?」
「かもなあ、生きてるかもしれねえし」
「どこらへんに落ちたかなあ」
別の仲間の提案に、また別の仲間が賛同する。捜した先で、その妖精に息があったらどうするか、具体的なことは誰も話さずに。
岩場から下りて、妖精が落ちたと思われる方向に歩いていた時だった。
柔らかい風が吹いた。――優しくなどなかった。変に冷たくて、男たちの背筋をぞくりと震わせた。
頬を撫でる程度の弱弱しいそれが、けれど魔界から世界中に広がっていたことなど、男たちは知らない。
ただの風ではないと感じた。
男たちは周囲を窺う。
この深い森で、虫の声がしないことに誰かが気付いた。動物の気配がしない。――嵐の前の静けさのようだ。
青い空の向こう、見渡す限りの地平線から、真っ黒でどろりとした雲が押し寄せてくる。雪崩のように隙間なく大地を覆い隠そうとしている。果てがわからないほど高く積み上がって、渦を巻きながらおそろしい速さで拡大して、広大だと思っていた森がちっぽけに思えるほど絶望的な規模の、おそらく積乱雲だった。
雲の腹が地表に着くのではないかというほど低く這っていて、その下に光が届いていない。
「あ……」
誰かが発した情けない一声だった。
ほどなくこの地も夜に覆われた。男たちは上空を見上げながら、闇の下に足を止めている。
嵐が来る。
*
エレノアは水に立っていた。足場にする葉っぱもなく、羽を動かしてもいないのに、エレノアは水面に足を着けて呆然としている。
どうしてこんなところにいるんだろう。
波の立たない水面が、晴れ渡った空を鏡のように映していた。
「何をしている」
後ろから声がした。あの怪しい女性の声ではなくて、ちゃんと記憶の中に刻まれた、知っている人間のものだ。頭の中に燃えるような赤色の髪が思い浮かぶ。
「クレアさん……? なんで、だって――」
死んだはずだ。
エレノアがばっと振り向くと、
「私もいるわよ」
勇者ハスミがひらりと手を振った。もう随分前に自分の世界に帰されたはずの。
ハスミはエレノアと旅をした時と同じ姿で、クレアは死んだ時と同じ姿で、二人そろってお茶会をしていた。二人はエレノアににこりと笑って、着席を待っている。
ケーキや軽食、お茶を満載した白いテーブルに、三脚の椅子。椅子は一人分空いていた。エレノアがここにやってくることを知っていたようだった。
「勇者さまも、どうして」
「私はもう勇者じゃないわ。ルイに帰らされた時から一般人に戻ったの」
「私も、今どうして私がここにいるのかはわからん。まあこれは夢だと思えばいいんじゃないか、お互いにな」
クレアは頬杖をつき「少し話をしよう、座れ」と、空いている席に目を遣った。
テーブルの上は華やかだった。三段のケーキスタンドの、上段にフルーツのプティフール。中段にショコラや生クリーム、チーズのケーキやアップルパイ。下段には小さめに切られたサンドイッチが、上品に盛られている。おまけ程度に添えられているマカロンや果物の一粒ですら形よく、触れることを躊躇わせる。
「座れ。好きなものを食べて良い。妖精でも食べられるのだろう?」
「……でも」
エレノアはその座に着くことを躊躇った。だって目の前の二人は、エレノアの大罪の象徴だ。けれどだからこそ、二人に「さあ」「ほら」と促されれば従うしかなかった。
ぐっと唾を飲んで椅子に座った。
処刑台に上った心地だった。
二人分の女性の視線が輪になった縄のように、エレノアの声と心臓を締める。斜め左右からこちらを注視する眼差しには、恨みも憎しみもなかった。
ただひたすらに面目ない。クレアからルイを引き離して、ハスミの恋心を弄んで、そうしてまで一緒にいたかったルイも、自分の愚にも着かない凶行のせいで傷付けた。罪悪感が重くて頭が上がらない。
クレアが優雅な手つきでお茶を淹れてくれるけれど、手を伸ばせない。
「どうした、私のお茶が飲めないか」
「毒なんて入ってないわよ?」
毒の心配はしていないけれど、毒が入っていても仕方がないなとは思った。
「……私が貴方たちに酷いことをしたって、少しはわかってるの」
「ほう」クレアが頷いて、
「そうなのね」ハスミがクラシックショコラを食べる。フォークの先が皿に当たって、かち、と鳴った。
「もちろん許してないわ。ルイのことも貴女のことも。自分の世界に帰って何年も友達を信じられなかったし、なんなら半年引きこもりになった」
「……ごめん」
「それで引きこもりながら貴女たちのことを考えてたんだけど、どうしてあの時、私を助けてくれたの?」
あの時。最終決戦の場で、ハスミと仲間たちを殺そうとしたルイを止めたのは、他でもないエレノアだった。
「だってルイの様子からしても、私を殺したって支障はなかったんでしょう」
――どうして?
ハスミは気長に答えを待つ心構えのようで、黙り込むエレノアに構わず、クラシックショコラの最後の一口を掬った。フォークに乗り切らなかった欠片が、白い皿にぼろりと落ちた。咀嚼しながら、ふと思い立ったようにフォークから手を離すと、新しい皿に別のケーキを乗せ始める。
エレノアは呻くように、
「私は、勇者さまたちを追い込むことを、楽しんですらいたの。あなた達を対等な人間としてすら見ていなかった」
だってエレノアにとって、ハスミは所詮『ゲームの主人公』だったから。
あの旅は、無邪気で邪悪な茶番だった。
「たぶんそれが変わったのは、ルイと衝突する前の夜。あの時私は、勇者さまがルイのところに行くんだと思ってた。勇者さまがルイのことが好きだって、私は知ってた。でも」
かちゃ、
エレノアの前に皿が置かれた。ケーキが一切れ乗っている。
ハスミの手でサーブされたそれは、艶やかなナパージュが食欲をそそるアップルパイだった。
「あの夜、勇者さまは私のところに来て、だからね、その時ね、……なんでだろうね。何かがおかしいなって、やっと」
「ハスミと違って、私は最期まで助けてもらえなかったがな」
横合いからしみじみと突き付けられた刃に、胸を突き刺された心地だ。震える唇の隙間から、嗚咽まじりに漏れる「……ごめんなさい」に、どれだけの価値があるのか。
けれどクレアは一言、
「許すよ」
エレノアは顔を上げてクレアを見る。
「こちらこそ悪かった。お前にはずっと妬む気持ちがあって、少し意地悪をしてしまった。そもそも私を殺したのはお前ではないし、……それに当時のお前達の様子は、この目で見て知っている」
当時のお前たちとはなんだろう。――ルイが魔王城へ行く直前、クレアがスティラス家に来ていたことを、ほぼ意識のなかったエレノアは覚えていない。
「お前たちも辛かったのだろう。私には理解しきれないことで、申し訳ないがな」
困惑するエレノアにもたらされたのは、とろりとした優しさだった。
騎士らしからぬ柔らかさで、この場の誰より小さな体で、痛いほどの包容力だった。
「エレノアも、ルミーナ・スティラスも、守るべき一般市民だった。人間かどうかが問題ではない。守れなかったのは私の落ち度でもあった。私はお前を責める立場にはない」
「そんなことは……」
「私はそれを伝えられれば良かったのに、できなかった」
泣きたくなる。エレノアの方こそクレアに謝ることがあったはずなのに、与えられた言葉を噛み締めることだけで精一杯になってしまう。「わ、私も――」お話したいことがあったんですと繋げようとした時、当のクレアからびし、と人差し指を向けられた。
「お前に言いたいのは、アーロイス殿下の件についてだ」
「アーロイス……、騎士さま? で、殿下?」
ハスミとの旅で一緒になった、ゲームの攻略キャラクター。エレノアの元推しだ。
そういえば彼は王族の血筋で妖精のハーフでうんたら、という話を思い出した。たしか彼の育ての親が、クレアとその部下のギルだったのだ。原作の時点でそういう設定があったのかはもう覚えていないけれど、ハスミとの旅で判明した事実に大層驚いた記憶がある。
「騎士さまは記憶を消して帰したって、ルイが言ってました。その後のことはわかりません。本当に無責任で、自分のことばっかりで、申し訳ないです……っ」
「そうじゃない。この脳内ひまわり畑クソ鈍感女」
「脳内ひまわり畑」
「でもしょうがないわ、エレノアはルイしか見ていなかったもの。私と旅をしていた間も、今にして思えばルイとすごく『仲良し』だったものね? アーロイスにも可哀想なことをしたわ」
エレノアは涙目で震えるしかなかった。
どんなに酷いことを言われようと、諾々と受け入れる覚悟だ。「わからずや」「私の世界でいう鈍感系主人公もびっくりよ」「阿呆」「色ボケ妖精」「ランクSが聞いて呆れる」「人の感情に疎すぎる」「冷血女」と一通りの罵詈雑言を喰らって、ぐうの音も出ない。




