妖精と『母』
ルイに初めて会った時、彼はローブのフードを被っていた。
エレノアは当時、前世もゲームも知らない純粋な妖精だった。大樹の根が絡んでできた窪みの水たまりに、これまた大樹から落ちた巨大な葉っぱを浮かべて遊んでいた。前日に大雨があったのだ。水面に浮かんだ葉っぱに乗って、風が吹けばふよふよ流されていくのにきゃっきゃと喜び、そんな小舟ごっこをするのがお気に入りだった。
ぴい、と同胞が鳴いた。
周囲で思い思いに過ごしていた妖精たちが一斉に押し黙る。
呑気なエレノアはその時も葉っぱに乗っていて、水たまりに浮きながら、皆が注目する方を見た。
森の夜闇から生まれたような真黒い人影が、妖精の楽園に侵入していた。大木を囲む木々の一角からそっと顔を覗かせた彼、それがルイだった。
フードの中に輝く双眸が妖精たちを見て、エレノアで目を留めた。
たしかに視線を合わせた。
エレノアの大好きな満月みたいな色の瞳。妖精の大嫌いな人間に、大好きな色が埋まっている。
それが不思議で、ぱちくりと目を瞬かせた。
侵入者相手に危機感の欠片もなく硬直する彼女に、
『 』
ルイは口を動かした。今にして思えば、それは「エレノア」と言っていたのだと思う。
やがて夜の追いかけっこが始まって、
『やっと捕まえた』
その小さな手に成す術もなく捕まった。
フードの下は天使みたいにかわいい男の子だった。
当時はこんな関係になるなんてまったく考えていなかったけれど。
――その天使の子供を、私が?
どうすればいいのかわからなかった。
実家(大樹)で一日中考えた。
おそらく最後に彼と寝た時に種が宿ったのだ、とは思う。
実家の小さな同胞たちはおめでとうおめでとうと無邪気に喜んで、森の果実を運んできてくれる。仲間が増えるのは良いこと。幸福なこと。
けれど、
――『おそらく戦争が始まります』
お腹がきりきり痛くなるのは、きっと子供のせいではない。この子は内臓を圧迫するほど大きくはなっていない。腹の中で眠っている。
――空腹は、魔力が赤子の栄養になっているから。
――人間サイズから戻れなくなったのは、……それじゃあ、赤ちゃんのためかな。
人間の血を引いているから。人間の赤子と同じように育まれるために、母体も人間の女性に近くならなければいけない。のだと思う。半分人間の胎児は、母体の大小に合わせてくれることはないのだろう。
「ほんと、こんなことあるの?」
愛され続けた二百年。子供なんて影も形もなかったのに、よりによってこんな時に。
「このひねくれ具合、すでに父親に似ている……」
血の繋がりは疑う余地もなく、複雑な心境で途方に暮れる。大樹の枝に座りながら腹に手を当てるエレノアの頬に、食べて食べてとさくらんぼの実が押し当てられた。
「ありがとう」
『美味シイ』
『甘イ』
『コレ食べテ』
新たに木の実が手渡されて、
「ありがとう、いただくね」
同胞たちは出産までをサポートする心構えのようだ。それはそれで平和かもしれない。妖精族の争いといえばせいぜい見守っていた果実を食べられたから言い争ったとかその程度で、三時間もすれば喧嘩したことすら忘れている。
それに、本来の妖精は雌の腹の中からなんて哺乳類的な生まれ方をしないのに、同胞たちは細かいことを気にしない。仲間は仲間、新しい命。これだけの単純なことと、総出で祝福してくれるのだ。
妖精の住処は心地良い。時間が許すならいつまででも安らいでいられる。
「これが本当の里帰り出産」
けれど、今日か明日あたりに動かなければ。そろそろ約束した日数の半分だ。安全に復路を飛ぶなら十日は欲しい。
無茶できる体ではなくなったのだ。無策で動けば、自分が危ないどころか子供を危険に晒す。ルイに知らせて迎えに来てもらうのが一番良いけれど、ここは残念ながら念話の範囲外だ。通信手段を持たないエレノアは自ら魔界へ戻るしかない。
月時計も手に入れられず。
これでは何をしに外へ出たのかわからない。
ここまで、目についた人里に入るたび、魔王ルイへの怨嗟の声を聴いた。様々なものを見た。家々に備えられた武具、壊された石壁、山道に見つけた食い散らかされた死体、壊滅して久しい村、街の外れに新しく開拓された広い墓場、
――『戦争が』
急に羽が重くなった。
ルイはたしかに戦争が始まると言った。けれどエレノアは、それはたぶん違うと思った。だって今でさえ、こんなにも死がある。傷付いている人が多くいる。
いつかどこかでビスが言っていたように、
――『ずっと恨み合って殺し合ってやってきたんだから、こういう状況って、言わば静かな戦争だよぉ?』
人間との戦争は、きっとずっと昔から始まっていた。どっちが先かは関係ない。傷付け合うしかなかったから、大事なものを囲っておくしかないのだ。
そんなだから、彼は。
「……どうしよう」
まだ主張のない腹を撫でた。この皮膚と肉の下に命があるのだと思うと、不思議な感覚だ。
――あなたは『前』の私のところにも来てくれていたのかな。
――その時の私は、ちゃんと無事に産んであげられたのかな。
――男の子だった? 女の子だった?
――妖精の羽はあるの?
――私と彼のどちらに似ていたの。
「なんて、考えても仕方ないよね」
今は今なんだから。彼の子供がここにいる。それだけがたしかな事実だ。
急に心細くなって、彼に会いたくなった。
おでかけの時のおやくそくにも制定されている。何か問題や異変があればすぐに帰ってくること、と。きちんと目を合わせて言い聞かされた約束を、エレノアは憶えている。
「よし、帰ろう」
妊婦は無理をしてはいけない。ここはまっすぐ帰るのがいい。ここで無理をして取り返しのつかないことになれば、それこそルイとの溝ができてしまう。
この物騒な時代に魔王城で生まれることになるこの子が、幸せになれるのかはわからない。けれど何事も、まずは安全な出産からだ。
『帰ル?』
『危ナイ』
「帰るよ。この子のお父さんのところに戻らなくちゃ。大丈夫、結界はちゃんと張っていくから」
大樹の枝からそろりと飛んだ。一瞬ふらついたけれど、落ちることはなかった。
心配そうな同胞たちから、餞別にと何粒かの木の実をもらった。自然界の魔力が宿った実だ。一粒食べると、妖精が大好きな甘い味がした。
また来るねと笑って、飛び立った。
周囲に結界を張った。エレノアの結界はルイも唸るほど固い。魔界に入るまでは結界を保ちつつ、安全のために速度は落として向かうつもりだ。
深い森から飛び出して、上空を飛んでいく。少しして振り返ると大樹がどこにあったのかもわからなくなって、寂しくなったけれど、正面に向き直ってまっすぐまっすぐ飛んでいく。
ルイは喜んでくれるかな。
迷惑です、なんて言わないかな。
どうしてこんな大変な時期にって、嫌な顔をしないかな。
なんて嫌な方向に考えないこともなかったけれど、すぐにそれはないなと思考を取り下げた。だって優しい彼のことだから、泣くかもしれないというくらい喜ぶに決まっているのだ。
「名前、どうしよう」
女の子と男の子の名前、どっちも考えておこう。
エレノアとルイの子供だからきっと魔力が豊富な子になるだろう。そうだ彼との子供だ。たとえ魔力がなくたって、あまり似てなくたって、彼と自分の子供。彼はずっと子供を欲しがっていた。血のつながった家族を作りましょうと言っていた。ビスがきっといい兄になってくれると言っていた。
手に入れた幸せの兆しを失わないように、大切に大切に育てていかなければ。
「えへへ」
エレノアの口元がほんのり緩んで、
――たーん、
音がした。とっても軽い、けれど恐ろしい余韻を残す音だった。誰かに後ろから肩を強く押されたみたいに空中でふらついて、エレノアは混乱する。
左肩。
そっと目を遣ると、そこからこぷりと血が溢れてきた。
「……え」
たーん、たーん、たーん、
それが鳴るたび、んんん、とやっぱり長い余韻が、眼下の大自然に響く。二回目の音の直後に、右羽が「ぱり」と不吉な音を立てた。
結界を抜けて、何かが当たったのだ。
「あれ」
ぐら、と体が傾く。視界がかすんでいく。無意識に腹を庇おうと、両腕を動かそうとする。けれど左腕はだらりとして、てんでいうことを聞かなかった。
そこでエレノアの結界は強制的に解かれて、新たに綺麗な透明の壁で覆われる。青みがかったガラスのような球体で、慣れ親しんだ魔力に安心感を覚える。
ルイにもらったイヤリングの効果、
『持ち主が一定以上のダメージを受けると、強力な結界を張る』
これが発動したのだとわかった。
それから何発か撃たれたようだけれど、今度は結界をすり抜けてはこなかった。
「……ぁ、……あ、ぇ……?」
血液が流れ落ちて、呼吸が荒くなる。
左肩に熱い異物感がある。よく考えなくても、エレノアにはその知識があった。
――鉄砲。
人間たちの訓練の中に、それがあったことを思い出した。そんじょそこらの鉄砲ではない。ただの弾ならエレノアの結界にだって弾かれているはずだ。吐き気がして、頭がくらくらして、魔力と体力が急激に失われていくこの感覚は。
「銀の……弾丸……?」
知らない。エレノアの知識にそんなものはなかった。
「っ……!」
銀は妖精の天敵だ。肩に埋まった銀を抉り出さなければいけないのに、飛ぶ力も残っていなかった。
背を丸めて、お腹を守りながら、エレノアは落下する。
落ちながら目についた岩場に、こちらへ銃口を構えて震える人間が一瞬だけ見えた。
薄れていく意識の中で物騒な格言を思い出す、
戦争は発明の母。
自分は魔術師や勇者の強さに注目するばかりで、人間の発明力を侮っていた。
むしろ衰えているとすら思った文明が、全く動かなかったわけではなかったのだ。人間たちはその裏で力をつけていた。他の何を犠牲にしても、戦う力を求めていた。
落ちていく。
落ちていく。
成す術もなく、深い森の中に。
――どうしよう。
『六、見つかる危険性があるなら、常に結界を張ること。
七、何か問題や異変があれば、すぐに帰ってくること』
――どうしよう。
彼はまた背負い込んでしまう。
自分がこんな指示を出してしまったせいでと、悲しんでしまう。
『僕は一度だけ、致命的に間違えた。あの日、君とあの子を家に置いて行ってしまったあの時』
違う、違う。
あの時も今も、ルイは間違ってなんていなかった。
いつだって正しい指示をしてくれた。妹と恋人のために考えて、その時々で最善の方法を示してくれていた。
それでもこうなってしまったのは、誰のせいだろう。
外に出たいと我儘を言ったエレノアのせい。
頑張ろうとした何もかもが裏目に出るせい。
それに人間のせい。
きっと魔王妃が妖精と知って銀を利用した。人生を諦めていなかったからだ。
誰もが幸せになりたいと思っている。
そうだ、私だって頑張ったのに、私だって幸せに、彼と一緒に生きていたいだけ、それなのに、いつも何かが邪魔をする――、
――ああ。
「……そ、……か」
理解した。
頑張っても幸せになれない。
こんな世界が、誰より何より、間違っている。
その答えがすとんと腑に落ちた途端、涙が溢れた。エレノアの視界が揺らいだ。逆さまに落ちながら見ていた青い空に、零れた水滴が光って散る。
「……るい」
――あなたは正しいよ。
――まちがってなんていないんだよ。
お願い、待ってて、私を信じて。
私は必ずこの子を連れて、貴方の元に帰るから。
*
実家に戻った妻の身を案じて気もそぞろという醜態を見せるわけにもいかない魔王ルイは変わらず政務を続けていたけれど、たぶん周囲にはバレていた。特にビスには「離婚じゃないならいいにゃん」とゴミ屑のような慰めをもらった。
謁見の申し出があって赴いた玉座の間にて「やっぱり妖精にはいい場所ですよねこの空間は」と諦めの悪い思考に走っていた時、
「はいごめんねー‼︎ ちょっと急ぎで知らせたいことがあるんだけどいい!?」
忙しなく扉を開けてやってきたのは、配下のビスだった。
「エレノアさんこっちに戻した方がいいかもしれない。人間が魔王の弱点っぽいものを先に獲りにくる考えがあるらしいって、さっき報告がきた」
珍しく息を切らして尻尾を膨らませながら、ビスは続ける。
語尾も忘れるほどの非常事態だ。
「私の弱点?」
「まだ未確定の情報だけど、銀を利用した武器を密かに開発しているとかいないとかで――」
ぴしりと、頭の中で何かがひび割れた。
ルイにしか聞こえない、壊れた音。
「……――。」
席を立った。「ルイ?」とビスが怪訝そうに見上げる。謁見途中だった見どころのある(らしい)魔族が、何かを勘違いして慌てて平伏する。
ルイは虚空を見る。
エレノアとの繋がりに、一瞬波があった。それに、彼女に渡したイヤリングの効果が発動するとルイにも知らされるようになっている。
「傷つけられた」
イヤリングの結界が展開されたなら、相応のダメージを与えられたということになる。生半可の傷ではない。下手をすれば命の危険がある怪我だ。
何があったのか、大丈夫か、返事をしてほしい、エレノア、エレノア、と脳内で何度彼女を呼んでも、彼女は念話の範囲内にはいないらしい。
繋がりが薄弱になっているのが感覚でわかる。彼女は人間界にいる。そこで傷を負って、きっと今、とても痛がっている。助けを呼んでいるかもしれない。苦しんでいるに違いない。
『 る みな ちゃ』
あの時のように。
誰だ。
あの優しい妖精を誰が害した。
そんなの、考えなくても決まっていた。
「――人間……ッ!」
※注、ハッピーエンドです。大丈夫です。




