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魔王と予感

 彼女が出て行った窓から、その小さな銀色が見えなくなるまで見送った。

 大地に広がる峻厳な山々。その向こうに一直線に飛んでいく妖精が頼りなくて、何度「やっぱり行かないでください」と言いかけたか。強風が吹きつくたびにはらはらと見守っていたけれど、彼女はそれに煽られることも振り返ることもなく、夜闇に消えていった。

 山肌を滑り下りて向かってくる冷たい風に、怯んでくれれば良かったのに。そうすれば優しく抱き止めて寒かったですねと慰めてやれるのに。

 こんな詮の無い妄想をして、己の器も察せるというものだ。


「羽がないと死にかけるし、羽があると飛んでいくとは、厄介な生き物ですね……」

「でも可愛いよね」

「ええ、この世で最も愛しい生き物です」


 急に現れた女声に、ルイは驚かない。

 窓を閉める。先ほどまでルイが座っていた椅子が反射で映っていた。

 振り返る。

 何もいなかったはずの椅子に、女がふてぶてしく足を組んで座っていた。

 その傍には見覚えのある男が立っていた。以前に『妖精の長の傍仕え』として城に来た黒髪の男だ。女を呆れぎみに見下ろしていた彼は、ルイと視線が合うと軽く会釈する。立ち位置からすると、男の主はこの女だ。


 ――『羽に流れる魔力を月光に当てることで、生命力を生み出している。質の良い魔力を、月により近い場所にて晒し――』

 ――『お前の魔力と生命力を与え、半契約状態にすれば羽は戻る。――とのことだ。『より直接的な』方法によって』


 当時石像状態だったエレノアを抱えるルイに、男を通して助言を与えた人物。

 女はエレノアよりも意思が強そうな瞳と、緩く癖のついた長い髪を持っていた。外見は華やかではあるけれど硬質で、静寂を纏う。優しいエレノアと雰囲気は違うのに、青の目と銀髪という色味が、どうしても彼女を連想させる。背丈も体型も人間サイズのエレノアとほぼ同じだ。双子かとすら思う。

 けれど決定的な違いがあった。

 女には羽がない。


「貴女は、やはり妖精ではないのですね」


 知っていたけれど。


 ――『主は妖精の長と呼ばれているようだが、自分から妖精だと名乗ったことはない』


 以前、男がはっきりそう言ったのを、ルイは覚えていた。

 女は皮肉そうな笑みを浮かべる。やっぱりエレノアとは大違いだ。

 この男女がどこから侵入したのか、そんなことはどうでも良かった。彼らはおそらくルイの敵でも味方でもない。

 エレノアに似た女性の独特な気配を、これまで幾度か捉えたことがある。

 女はそうっと口を開いて、


「永遠の夏と永遠の冬、君だったらどっちを選ぶ?」


 問われて思い出す。

 かつてルイも、エレノアに同じ質問をした。約二百年前、十九歳の時。スティラス家の二人と一匹が幸せだった頃。苦悩を知らないルイ少年は、本に書いてあった問いをそのまま口にしたのだ。

 たしかエレノアは――。


「エレノアは冬と答えたので、僕も冬です」

「ふうん」


 にやにやするこの女とは本気で仲良くなれそうにないですねと思った。

 たしかあの本には、女についての記述もあった。


 ――『神話です。何千年も昔に生きていた人々が、その選択を迫られたといいます。解決するには生贄が必要だった。その生贄は、銀髪の、深い青色の瞳をした、妖精のように美しい女性だったそうですよ』

 ――『ただ性格だけは最悪だったのだとか』


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 それが本当にこの女のことなのかは確かめようもないけれど、良いご身分なのだろうとは思う。ちゃんと性格も悪そうだ。実際の人柄は知りようもないけれど、少なくともこの女と自分は合わないと確信する。それになんとなく、エレノアとは会わせたくないと思う。


「お話をしに来たんだ。聞いてくれる?」

「長くかかりそうですか?」

「そんなに長くはないかな」

「では、どうぞ。お茶は出さなくていいですよね」


 仲良くする気はさらさらなかった。女もその気は微塵もないようで、「もちろん。こいつのお茶の方がたぶん美味しい」と自分の従者を持ち上げて、薄ら笑いを浮かべるだけだった。


「突然だけどトラ転って知ってるかな」

「虎点? ……虎店……寅……虎天……とら……」

「…………………ヒント、トラックと転生」

「ああ、ファンタジーの導入の一つですね」

「そう。トラックに轢かれて死んで神に会って転生する。私のことは、そういう話でいうところの神様ってやつだと考えてくれたらいい。あくまでも君たちにとっては、だけど」

「御大層なことで」


 ファンタジー。創作物の一ジャンル。ファンタジーでしばしば登場する神とは、魔王を倒すための勇者役を誰かにお願いしたり、特殊な力を人間に与えたり、そういう役回りのイメージがある。

 けれど女の生贄がどうという神話を鑑みると、そう単純な立場でもなさそうだ。


「神を自称するならもっと神々しさが欲しいですね」

「何言ってるんだ、こんなに神々しいのに。ね?」


 従者に同意を求めた女は「お前がそう思うならそうなんだろう」と曖昧な答えをもらって、何事もなかったようにルイへ向き直り、微妙な間を置いて「まあとにかく」


「もっと感謝してほしいな。君たちに何度もチャンスをあげてるのは私なんだから」

「……チャンスですか」

「知っての通り、君たちは何度もやり直しをしている。それが私の力だって言ってる」


 嘘ではないのだろう。ルイとエレノアにとっての神様と言いきっただけのことはある。

 だからといって、到底感謝する気にはならなかった。だって女は慈悲の心からそうしたのではないことが、そのいけ好かない態度からよくわかる。慈悲があったって、それがどうしたとしか言えないのだけれど。

 どちらかというと、ルイたちを巻き込んだと言った方が正しいのだろう。

 女は人形みたいに整った微笑で、胸糞悪い愚痴を滔々と垂れ流し始める。


「いやあ本当に、片方が片方の目の前でひっどい死に方もするし。別の奴とくっついたりもするし。一番『うわっ』て思ったのはね、知らないうちにエレノアが薬にされて複数人に量り売りされてた時かな。兄妹揃って魔王になって人間を絞ってでも回収してたっけ。君たちのハッピーエンドって観測してきた中で一つもないんだけど、いやだから今に至るまで繰り返しているわけなんだけど。ほんとにもう、どうしようって感じ」


 吐きそうになった。その大半をルイは憶えてないけれど、想像するだけでおぞましい。わざわざ言って聞かせてくる女の神経がわからない。これで信じてくれるかと言いたそうな間を取られても、それが真実かどうかは今のルイには判断しようもないのに。

 まあでも、過去のことはどうでもいい。

 大事なのは今だ。過去の教訓――エレノアはすぐ逃げること――を有効活用してやってきた、今の人生。


「それで何が目的ですか」

「後輩を作りたいんだ」


 後輩?


「……どういうことですか?」

「私達は長く生きすぎてね、もういいかなって思ってる。だけど私がこの立場から解放されるには、後任をこの立場に据えなくちゃいけないらしい」


 嫌な予感がした。


「この立場っていうのはね、なんて言えばいいかな。夏とか冬とかで世界が停止してしまわないように、時間を動かす権利者って言えばいいのかな。そういう存在。摂理というか、現象というか、そういうもの。それには私と似て、同じだけの魔力を持った者じゃなくちゃいけなくて、だから私は君に目を付けた」


 嫌な予感的中。


「君が魔王に成長するたびに、ただの人間ではありえない、途方もない魔力が蓄積されていく。それを何度も繰り返してやれば、やがては神にも等しくなる。たぶん今の君の魔力量は、私の全盛期よりも上だ」


 ということは今から単純な魔術戦を行えばルイが勝てるのかもしれない。けれどその程度でいい気になれるほど、お気楽な思考はしていなかった。現に女は、ルイの知らない知識を持っている。ルイが生きた二百年どころではない時間を、彼女らは二人で過ごしてきたのか――。

 ルイは一瞬、男に視線を流した。男はそこに突っ立っているけれど、壁の絵画をじっと見つめて話を聞いていなさそうだった。


「君たちは繰り返している。けれど長い目で見れば、君たちの時間はたしかに進んでいるよ。その証拠に、今のエレノアにはこれまでにないことが起こってる」

「これまでにないこと?」

「それを私から言うのは野暮ってものだから、秘密ね」


 女は口元に人差し指を立てて、悪戯っぽく笑う。それまでのいけすかない態度と違って、含みもなく楽しそうだ。そうしていれば、少しはエレノアに似ている。

 女の話は終わりのようだ。

 ルイは窓を見る。女と男は、やはり映っていない。窓に映る肉厚の椅子はがらんとしていた。二人はそういう存在なんだろう。そしてそういう存在になれと、ルイは誘われているのだ。

 そんな怪しい存在になる気はない。――今はまだ。

 ただ、絶対に嫌だとは言えなかった。

 ルイはかねてより考えていた質問を口に出す、


「過去の僕は、この世界を箱庭と言いました。この世界の外……貴女たちの世界にも人が生きているんですよね? ここより広いですか?」


 女は意外と素直に答えてくれる。


「もちろん。ここは私が見様見真似で作った世界に過ぎないからね。私が生きていた世界はもっと広いし、人間もまだ多く生きてる」

「あなたのようにパートナーを連れて行くことは?」

「できるよ。だから君だけでなく、エレノアまで巻き込んでいるんだから」

「そうですか。それともう一つ」


 不思議なほどさらりと口から出てきた質問、


「僕と妹とエレノアが三人でいられた人生はありましたか」


 それがどんなに酷い状況でも、三人でいられたことはないのか。希望の欠片もないのだろうか。

 その答えをルイは察していた。


「私が見てきた中では一度もない。必ず一人は脱落してる」


 やはり女の辞書に慈悲とか優しさとかいう言葉はないらしい。突き放されるような返答に、ルイは思わず苦笑する。諦めのような納得のような何か。

 質問はこれだけと悟った女は立ち上がって、


「覚悟が決まったらこちらにおいで」


 ルイが瞬きしたその瞬間に、二人は消えていた。


       *


 エレノアが魔王城を出て、魔界と人間界の境界を越える直前。


「あれ」


 自分の身に違和感があった。なんとなく体が重い気がしたけれど、気のせいかもしれない。

 それよりもっと不思議なことがあった。

 ルイの魔力が満ちているはずなのに、


「……お腹、すいてる?」

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