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閑話 魔王と人間と妖精

 扉を開けた瞬間に怒号かすすり泣きでも聞こえてくるかと思ったけれど、静かだった。ルイは意外に思いながら、階段を降りていく。長い石段だ。城の中でも限られた者しか立ち入らない、地下牢へ続いている。

 柵で区切られたいくつもの牢が並んでいるけれど、今は一人しか入っていない。目当ての人物はすぐに見つかった。奥から三番目だ。

 魔王城にたった一人で侵入した猛者。けれど想像していたよりもずっと小柄で、若い男だった。少年と言った方が正しいかもしれない。癖のある髪が俯く顔に影を作っていたが、ルイが牢の前に立つと前髪の隙間から強く睨み付けてくる。

 ――まだ若い、成長途中の魔術師だ。


「侵入に適した魔術を得意としているようですね。努力の凄まじさが窺えます」


 ルイは片手に持っていた本を、少年によく見せた。今朝にビスから渡されたものだ。


「この本はどこで?」

「あんた誰」

「この城の主をしている者です」

「……魔王かよ」


 少年は睨み続けながら、


「その本は師匠の家の地下室にあった。師匠がそれよく読んでたから、形見にもらった」

「師匠がいたんですね」

「死んじまったよ。魔物にやられて」


 明らかな嫌味だ。少年の抱える恨み、憎しみ、そういった激しい感情を遠慮なくぶつけてきた。今にも殺してやると叫んでナイフの一つでも飛ばしてきそうだけれど、ビスにこっぴどくやられて身体検査も終わり、なおかつ魔力が枯渇している状態であることは確認済みだ。魔術師の恐ろしさはルイが一番よくわかっている。

 それにしても。

 ルイは少年をまじまじと見つめて、


「その才能と魔力の高さ。主人公格ですね」

「は?」

「頑張れば僕を倒せるかもしれない人間のことを、個人的にそう呼んでいるんです。物語で魔王を倒すのはいつも勇者、つまり主人公でしょう?」

「趣味わる」

「性格が悪いとは言われますね。ところで、この本の内容で聞きたいことはありませんか? 質問があれば答えますよ。一部翻訳が間違って伝わっている部分がありまして、著者としては好ましくないんです」

「著者……?」

「ルイ・スティラス。頭文字はL.Sですよ、わかるでしょう?」


 一瞬の間。


「……隈と髭と禿げは?」

「残念ながら僕は二百年こうですよ」


 ルイはページを捲っておっさんの絵を出すと、少年に見せつけて「どこか似てたりしますか?」と追い打ちをかけた。


「目が二つと鼻と口が付いているところは似てる」

「それはすごい共通点ですね。はいこれ、お返しします」


 格子の隙間から本を差し入れると、少年がおそるおそる寄ってきて、勢いよく本を取り上げて、奥に逃げた。


「ボクをバカにしに来たのかよ」

「何故ですか? 成長しようとする魔術師を馬鹿にはしませんよ」

「……魔王っぽくない」

「今は一介の魔術師として来ているので。君が歯向かったり、城内の誰か、特に妻を傷付けようとしない限りは生かしてもいいかなと。絞れる情報も無さそうですし。人間は嫌いですけど、魔術師はある意味仲間ですからね」

「意味わかんね」

「そんなに特殊なことは言っていませんよ」


 それでも少年は、かねてからの疑問を解消しようとルイに質問をぶつけた。ルイは丁寧に答えてあげた。

 その間にも、少年は隙を狙っていたらしい。ふとした時に牢の格子の間から片手を伸ばしてルイの首を絞めようとしてきたけれど、一歩下がるだけで簡単に避けられた。軽く電気を食らわせて黙らせた。少年はふーふーと犬のように息を荒げ、憎悪を漲らせた眼差しでルイを突き刺してきた。

 魔術師同士、だからといって懐柔できるとは考えていない。

 ルイは「では、ごゆっくり」と少年に背を向けた。


『今の自分』らしくない。そんなことは、ルイもわかっている。変に感傷的になったのは、今朝、寝ぼける彼女から懐かしい名前を聞いたからだ。

 地下牢を出たところで、自分の前髪を一房引いて、上目で見つめる。二十代前半で止まっている身だから、いつまで経っても白髪にならない。若々しい金髪だ。

 あの子の髪と同じ色。


「もしかして、エレノアに何か言ったんですか」


 ――ねえ、ルミーナ。

 返ってくる声もないけれど、答えはわかる。あの子なら「だってエレノアが悩んでたんですもんっ」と、自分には一切の非もありませんという顔で胸を張るに違いない。

 あの子が生きていれば、今の兄の姿を悲しむかもしれない。けれどそんな優しい妹を亡くした元凶がそもそも人間なのでと堂々巡りになる。


 魔術師は感情を出してはいけない。

 魔術師は魔術師であるほどに、無感動で冷静だ。

 稀代の魔術師が感情を発露してしまったから、今のように最悪の魔王が生まれてしまった。――だからもう本当は、魔術師としては失格なのかもしれない。

 後悔はしていない。間違ってはいない。

 どうせ宮廷魔術師だった頃のルイでは、エレノアを生かせなかった。


「もう引き返せないんですよね、残念ながら」


 近頃、人間の動きが怪しい。

 魔王ルイの時代が長いのだ。ちまちま派遣されていた勇者は、皆がそれなりの力を持つ強者ではあったけれど、それでもこの魔王城で成す術なく屠られてきた。最も魔王に近づいたのは勇者ハスミと、勇者に扮した妖精だった。

 それまで鬱屈としてきた人間たちは、もう限界のようだ。国々の垣根を越えて、世界中が一丸となって魔界を攻めてきてもおかしくない。

 人魔大戦。

 ルイはそれを警戒している。


       *


 地下牢に、ひょんっ、と小さなものが飛び入った。

 捕虜に食事を運んだ魔族の足下を狙って、小さなエレノアが侵入したのだ。入ってしまえばこっちのものだった。

 人間が捕まっていると噂で聞いて、いても立ってもいられなくなった。自分が知らないだけで、それまで何人も地下牢に入れられていたに違いない。

 地下牢をそろそろと探索し始める。小回りのきく妖精サイズで、手前から牢を一つ一つ確認していった。

 奥の牢屋に、きらりと何かが光っていた。

 なんだろう?

 そちらを気にして、一気にそちらまで飛んだ。

 突き当り。一番奥の牢屋の片隅に、割れた眼鏡が落ちていた。格子の間を難なく通ってそれを見ると、眼鏡のフレームは全体が錆びていた。古いもののようだ。ガラスには血のようなものが付着している。


「……知ってる?」


 エレノアは、その眼鏡をどこかで見たことがある。思い出そうとすると頭痛がする。嫌な何かを思い出しそうになるから、深く考えるのは止めた。この牢だけなんとなく嫌な感じがした。

 ここには誰かが閉じ込められていたことだけはわかった。


「……誰かいるのか?」

「ひゃあっ!」


 びょんと跳ねた。

 エレノアは心臓のあたりを押えながら、知らない声が聞こえた方に向かう。

 牢屋を一つ二つ飛ばしたところに、エレノアの嫌いな人間がいた。

 粗末なベッドで本を開く少年の姿が、かつてのルイに重なった。


「妖精……?」


 彼はエレノアを見てあんぐりと口を開けている。


「私はここで住んでるから。君はお城に侵入したって聞いたけど、本当なのかな」

「…………。」

「……どうして人間が、たった一人で、魔王城にまで来たの?」


 城の立地だけで察せる。侵入がどれほど困難か。エレノアが改めて魔王城の周囲を飛び回った時に、自分に羽があってよかったと心から思った。羽がなければ橋を渡るしかないけれど、もちろん強固な警護の目があったはずだ。見つければただでは済まないことも理解しているだろうに。

 どうしてそんな危険を冒してまで、一人でこんなところまで。


「魔王妃エレノア?」

「知ってるんだ」

「……魔王とサイズ感違うな。そんなんで夫婦やれんの」

「夫婦にはいろんな形があるからね」


 どういうことだよと納得してなさそうな少年。ルイに比べれば表情豊かかもしれない。

 少年の両目は腫れていた。声もがさがさで、口ごもるような話し方には途方もない苦痛が表れている。


「なんで一人って。今までパーティー組んで帰ってこなかった連中ばっかりだったから、一人の方が動けると思った」

「危ないのに?」

「危険は承知だ」


 少年は命を賭して魔王を殺しに来たのだ。

 その覚悟には、きっと重たい事情がある。


「あなたは、ルイのせいで誰かを失くしたの? って、聞いてもいい?」

「師匠」

「お師匠さん?」

「厳密には魔王のせいじゃない。トロール。昔は騎士の三人でかかれば倒せてたみたいなんだけど、今は十人くらいじゃなきゃ倒せないようになった」

「……うん?」

「昔の騎士が強かったのかもしれないけど、それだけじゃない。今の魔王の魔力が強くて、それが魔物たちに影響して、強化されてるんだって。魔物の強さは魔王の強さだって」

「うん」

「だから強い魔王がずっといると、それだけで致命的なんだよ」


 知っている。魔物とはそういうものだ。魔王が命令をしなくても、知性のない魔物は人間を襲う。ルイはそれを知っていて、好きにさせているのだ。


「人間ってさあ、弱いんだよ」


 なんのことかと、エレノアは無言で話を促す。

 少年は光のない瞳で天井を見上げながら、


「何にもないんだよ。魔族に比べて、早く走れもしないし、飛べもしないし、馬鹿みたいに時間使って魔術習ってこのザマだ。なのにどうしてあんたみたいなやつを大事にしまい込んでんの。ボクらのことなんかどうでもいいくせに、誰が死んだってどうでもいいくせに」


 妖精なんて脆弱な存在を後生大事に囲っておいて、どうしてその慈愛を人間には向けてくれないのか。エレノアは「そんなの」と言い返そうとして、けれど押し黙った。自分達の事情を少年が知らないように、自分だって少年の苦悩を知らないのだ。

 魔王と、それにくっ付いている妖精の存在が、理不尽で仕方がないだろう。涙を落とすほど。ここに忍び込めるまでになった幼い魔術師は、こんな場所に閉じ込められて、悔しさをどこにもやりようがないのだ。「なんでだよ」「くそ」「師匠」と零す言葉の一つ一つが、エレノアの胸に突き刺さる。


「くっそぉ……ッ!」


 少年が本を抱き締めて呻く。本はぼろぼろだった。表紙が取れかかって、ページも波打つほど荒れている。人為的に破られたそれを、少年は大事そうに抱えている。


「……その本は、どうしたの」


 少年は乱暴に涙を拭って、


「師匠の形見」

「……そう」

「でも、魔王が書いたんだって」

「…………。」


 そうか、本を破いたのは少年か。けれど壊しきれずに、抱えたままなのか。

 エレノアはあっさり納得した。

 少年は沈黙して、それ以降なにも言わなかった。

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