妖精と侍女
――地獄の果てまで、末永く。
義妹が笑顔で吐き出したのは、捨て台詞のような祝福だった。
雌妖精は目を覚ます。
*
ブラウンのショートボブに、着用したヘッドドレス。両サイドで主張する羊状の角。足の見えない丈のスカートとエプロン。魔王城の使用人の中でも、人間に近い体格の女性魔族には、メイド服が与えられている。
マーシェ・ブラスカ――魔王妃エレノアについた羊族の侍女が、魔王ルイの私室の前に立っていた。いま一度、身だしなみを確認した。ルイもエレノアも、まだこの中から出てきていない。自分が声をかける前にどちらかが起きてきてほしいと思うけれど、エレノアがここに連れ込まれた翌日の朝は、大抵こちらから突入するはめになる。
ここで待機して三十分。限界だった。
マーシェは一人ではない。他に三人のメイドと、女性コックが壁伝いに立っていた。――大丈夫、今日の魔王は機嫌がいいはず。
皆でアイコンタクトをする。全員が頷く。
マーシェは息を吸い、声を張る。
「御目通りを願います!」
巨大なドアに声が吸い込まれた。程なくして、ドアはひとりでに開いていく。
「失礼いたします」
一礼して入室、そしてベッドを見る。
窓から差し込む朝日の中、魔王ルイが上半身を晒しながら、穏やかに妻を慈しんでいた。シーツに広がる銀髪を指で遊び、蕩けた雰囲気でベッドの端に座っている。
マーシェは思う。服着ろよ。
彼は魔族から見ても魅力的な雄だけれど、腕や肩や手の甲に立てられた爪の跡が生々しい。愛妻をどれだけしつこく虐めたのだろう。
「両陛下へ朝のご挨拶に参りました、筆頭侍女マーシェ・ブラスカです。本日もご壮健なるお姿を拝見できましたこと、心より嬉しく存じます」
マーシェは形として長々しい挨拶をしているけれど、本来この魔王は堅苦しいことが嫌いらしい。というか、他人に世話をされること自体が好きではないようだ。元々はなんでも一人でやる人なんだよ、とエレノアから聞いたことがある。
「おはよう。朝食はここで摂る」
「速やかにお持ちいたします。エレノア様のご朝食はいかがなさいましょう」
「彼女には果汁の多い果物を」
返答を受けて、後ろ手にサインを送った。待機していた女性コックとメイドが、一礼して廊下を引き返す足音がする。
続いてマーシェの目は、エレノアに向いた。果汁の多い果物。喉を酷使したのだろう。
――不憫だな。
と、思う。エレノアは魔王城で二番目に強いけれど、一番の魔王にはどうしたって抵抗できない。こちらに向けられている背中だけでもぐったりと疲れきっている様子が見てとれて、彼女の侍女としては苦言の一つも呈したい。
「エレノア様を、あまりお叱りにならないでくださいませ」
「彼女が心配か」
「恐れながら」
マーシェはいつだってエレノアを心配している。彼女が魔王の重い愛情を一身に受け止めてくれるから、彼の機嫌が今日も良好で、城の平穏が保たれる。
聴覚を澄ませば聞こえる、すうすうとささやかな寝息が、マーシェの耳に心地良い。対してこの魔王ときたら、
「目を惹かれるだろう。妖精は素直な種族で、私が愛するほど綺麗になる」
妻に対してだけ、濁りすら感じるほど激甘な声色だ。胸やけしそう。
情事の気配が生々しく残っているのに、美しい。この時間帯のエレノアを男に見せたくないルイは、朝には絶対に男性を近寄らせない。だから男性が多いキッチン担当の中でも、必ず女性がこちらに来ることになっている。とんだ独占欲だ。
持ち主の疲労を表すようにへたった羽に、ルイが我が物のように触れた。ガラス細工みたいに繊細で透明な羽を、根元の方から羽先に向かってすうっと撫でる。
彼は「そういえば」と、さも今思い出したように、
「侵入者は地下か」
「は。ビスマルク様のご判断で、一時的に地下牢へ収容されております」
「詳しい話はあとで聞こう。後でビスに執務室に来るよう伝えてくれ」
彼の横から微かに、「……ん」と鼻にかかった声がした。
魔王妃エレノアがお目覚めのようだ。「おや」と嬉しそうなルイ。
エレノアは横向きになっていた体をころんと仰向けにして、ルイの金髪を目に映し、
「るみーなちゃん」
「寝ぼけないでください」
彼は妻に甘いけれど、受け答えの切れ味が時々鋭い。
「おはようございます、エリー」「おはよ……ルイの血の匂いがする……」「昨夜、君が散々に傷をつけてくれたので」「やめてっていってもいじめるからだよ」「気持ち良くてわけがわからなくなる君が可愛いので。無理をさせましたし、もう少し休みますか?」といちゃつきだす二人は、これもよくある光景ではある。
死んだ目でそこに立つマーシェの存在を思い出してくれた魔王が、やっと退室許可をくれた。「失礼いたします」と助かった心地で魔王の私室を出る。
侍女としてはエレノアのいる室内に留まっていたいけれど、あの二人を至近距離で見ていたくはないし、陛下この野郎が二人きりを望むのだから仕方がない。廊下で背筋を伸ばして待つのみだ。
同僚がワゴンを押してやってきた。先のマーシェのようにぴんと背筋を伸ばし、声を張る。
「ご朝食をお持ちいたしました!」
そして入った室内で何を見たのか顔を真っ赤にして出てきた同僚を見送って、マーシェは真顔で直立していた。いつ呼ばれてもいいように心の準備だけはしている。
そこへ再び客が現れた。ビスだった。
「ルイは?」
「まだご朝食を召し上がられているかと。本日はエレノア様もご一緒です」
「じゃあもうちょっとかかるかな。まったくもう……」
「ビスマルク様は後ほど執務室へいらっしゃるようにと、陛下からのご指示がございます。何か言伝などございましたら承ります」
「言伝……」
そう言って尻尾を揺らすビスの手には、分厚い本があった。そう古くはない装丁だが、争いに巻き込まれたのか、赤黒い血がこびりついている。
「それは……」
「これね、侵入者が持ってた本。これについて聞きたかったんだけど、邪魔しちゃ悪いしにゃん。……んー、『了解! てきとーな時にルイのとこ行くにゃんっ!』って伝えといて」
「かしこまりました」
それから三十分もして、完璧に身支度を整えたルイがやっと部屋から出てきた。
マーシェは早速用件を伝える。
「陛下。先ほどこちらにビスマルク様がいらっしゃいました。伝言がございます。『かしこまりました。後ほど改めて陛下の元へ参ります』と」
「わかった。ご苦労」
そして礼をしながらやりすごす。
彼が通り過ぎる際に「彼女を頼んだ」と言われたのは、少し気にかかる。常なら「いつものように」と言うはずなのに。
――何かあったのだろうか。
マーシェが魔王の私室に入ると、エレノアはすでにベッドから起き出ていた。
開けた窓の傍で風を浴びている。白いワンピースの裾は風を含んでいた。伸ばした羽は陽光と反応しているのか、うっすら虹色になっている。
「おはよう、マーシェ」
振り返った主人の笑顔は、たしかに綺麗だ。魔族にはない、妖精特有の透明感がある。
人間を王に頂き、その妃に妖精を置いたのが今の魔王城だ。歴史的にも特殊な代だと思う。
「おはようございます」
「さっきも挨拶に来てくれてたんだよね? ごめんね、寝ちゃってて」
「とんでもございません。お疲れでしたら、もうしばらく休んでいただきたく思います」
「ルイの言いつけ?」
くす、と仕方なさそうに、エレノアは微笑む。
違和感。
マーシェの胸に魔王の命令が過る。――彼女を頼んだ。
「陛下のご命令でもありますが、恐れながらわたくし個人としても、無理をしてほしくないのです」
「そっか、ありがとう。でもいいの。常日頃からたくさん休んでるから」
「さようでございますか……」
何か聞かねば、と思った。
彼女の世話を任された時から、彼女はどこか諦めたように遠くを見ていた。マーシェは『夫から遣わされた監視役』としてしか見られなかった。
それなのに今日はどうしてこんなにも、目が合うのだろう。
きっとエレノアに余裕ができたのだ。監視役を許容できるようになった。心境の変化があった。この一夜で?
「何か良いことでもございましたか?」
なんでそんなことを聞くのかと驚いた顔をしたエレノアは、けれどすぐに答えてくれる。
「頑張りたいことを見つけたの。だから今、ちょっとだけ嬉しいかな」
――これは危険な兆候だろうか。
マーシェは努めて真顔で、さようでございますか、と返した。
魔王に報告しなければ。それは決まっているのに、エレノアのこんなにも強い瞳を見るのは初めてで、自分が悪いことをしている気になってくる。自分の報告が、エレノアの『やりたいこと』を奪うきっかけにはならないだろうか。
マーシェの逡巡を見抜いたのか、魔王と違って優しいエレノアは「報告してもいいよ」と赦しの言葉をくれた。
「そのうちルイには、私から言いに行くんだけどね。マーシェもお仕事しなきゃだし、どっちでもいい」
「……お心遣い、感謝いたします」
なんだろう。その、長年の共依存DV関係から目を覚まして離婚を決意した妻のような清々しさは。爽やかな朝に似つかわしすぎて、逆に不吉だ。
窓の外を飛び去るグリフォンの雛が、いかにも暗示的だった。
「ちょっとそこらへん飛んでくるね。お城の周りにいるから心配しないで」
そう言って窓からひょいと飛び去っていったエレノアを見送ってすぐに、マーシェは魔王の元へ直行した。魔王とて常日頃から玉座にいるわけではなく、魔界の情勢が落ち着いてからは玉座の間に入ることすら少なくなっていた。それにここ最近は、大ぴらにできない話も増えているため、小数の部下以外は招かれない。
許可を得て入室すると、執務室にはすでにビスがいた。先ほど持っていた本をルイに差し出しているところだった。
ルイは受け取った本を机に広げてぱらぱら眺めながら、マーシェに「エレノアに何かあったか」と訊ねる。
「エレノア様は、昨日よりもどこか……何かを決意したように見受けられました。やりたいことを見つけたとも仰っておりました。今は城の外を回遊しておられます」
「『やりたいこと』……」
ルイは振り返って大窓を見た。
「彼女がああして飛んでいるのは久しぶりに見るな」
世界中で空に一番近い魔王城、その中でも上層階の一角に設けられた執務室だ。エレノアの部屋ほどではないにしても十分に高く、窓の外は空で、綿雲がものすごく近い。羽を持つ生物の領域だ。
ちょうど見えたエレノアが、グリフォンの雛と楽しそうに戯れていた。――約一年間、彼女はルイの顔色を窺ってか、移動に最低限の飛行はすれど、今のように自由に飛ぶことはしなかったのに。
マーシェがはっきりそれとわかる変化を、彼が見逃すはずがない。
エレノアを見つめながら考え込むルイに、ビスが「エレノアさんがどうかしたの?」と声をかける。そんなの訊ねなくたってろくでもないことに決まっている(とマーシェは思っている)のだから、ルイからの答えが返ってくる前にここを辞したい。余計な心労は要らない。「私は退室した方が」と口を開こうとしたけれど、一歩遅かった。
「玉座の間を妖精の飼育場にすると、何か支障はあるだろうか」
ほら見ろ、ろくでもない。
何を隠そうこの魔王、妻に関しては自制を知らないのだ。
だからマーシェはいつもエレノアを心配している。
「純粋にどうして? 何を考えてそうなったの?」
「近々彼女を軟禁しようかと考えている。あの場所は妖精飼育に向いているし、長期間閉じ込めておくにも都合が良い」
「ビスマルク様、今からでも魔王に返り咲きしませんか」
「おれも今ちょうどそれを考えてたとこだにゃん」
エレノアが浪費癖のある魔王妃だったらと思うと、ぞっとする。ルイはもしかしたら、妃に言われるがままに高価なあれそれを買い与えて城を傾かせる愚王になっていたかもしれない。
「首輪……鎖……」と不穏な呟きを聞き取ったビスが、
「強引に閉じ込めると離婚とか言われるんじゃないかにゃん」
「嫌だ」
「そう言われてもにゃん。そもそもエレノアさんがルイと結婚してくれたこと自体、わりと謎なところあるしにゃあ……」
「彼女に聞いて了承を取れば問題ないだろう」
なんでそこまで。
これ以上付き合っていられないので、ビスは当初の目的を果たすことにする。
「でね、この本ってもしかしてルイが書いたやつなんじゃないかなって思ってさ、にゃん」
「懐かしいな。もう時代遅れかとも思うが、新装してまで伝わっているとは」
『この薬草は絶滅している』とか『当時は主流だった』とか、時代の流れを感じさせる注釈が散見されるらしい。
「見てこれ。なんかすごい偉人みたいな感じになってるけど」
ビスがページのどこかを指さしている。マーシェも気になったけれど、見せて見せてと会話に入れる身分ではない。カップにお茶を注ぎ入れて、魔王の机にそっと置き、ちらりと本を盗み見る。
最後から二枚目のページ。髭面で頭頂部が禿げたおっさんの人物画の下に、
『L.S
魔術師の家系の生まれ。詳細不明。
現代魔術の祖と名高い、世界有数の大魔術師。幼少期からその類稀なる才能を開花させ、多くの魔術を生み出した。妖精に深い関心を持つ。本書は彼が遺した最後の著書とされる『属性と薬草、及び妖精と魔術の相性考察』を現代語に翻訳、改訂したものである』
と書かれていた。ビスは噴き出しそうになりながら、
「ねえこの、このおっさんさぁ、ルイなの?」
「そうらしい」
「すっごーい! ルイかっこいーーーーーっ!」
語尾のにゃんを忘れている。
「後付けの絵だろう。これを描いた絵師も、おそらく私を知らない」
ルイ・スティラスは、現代では魔王の名前として伝わっている。頭文字の表記しかないのはそのせいだろう。この著者の本名を、人間はとうの昔に忘れ去っているに違いない。――そんなことをルイは言った。
マーシェが何とはなしに外を見ると、窓の外に白いものが見えた。興味深そうにこちらを覗くエレノアだった。グリフォンの雛と別れて、楽しそうな声を聞きつけたのかもしれない。夫が軟禁計画を立てているなんて知りもしないで。
懐かしそうに本を読む美貌の魔王と、どひゃひゃひゃひゃと大笑いする愛らしい前魔王、その後ろの窓から頑張って本を盗み読みしようとする大妖精の魔王妃。
なんだこれ。
室内の全景が見渡せる位置にいるばっかりに、マーシェは今日も気苦労が絶えない。
ただこんな時間が嫌いではない。魔王ルイの時代に強化された魔物のせいで人間界がどうなっているかなんて、一介の侍女の知ったことではなかった。
こんな日々が続けばいいと心から思う。




