夢と妖精
――あれ?
エレノアが目を覚ますと、スティラス家自室のベッドにいた。開いていた窓を見ると、太陽が西に傾いている。
彼女の手元には、半分ほどの絵柄が出来上がっている布があった。刺繍の最中で転寝をしてしまったらしい。大きなクッションに預けていた背を少し浮かせて、伸びをした。
掃除や洗濯はするなと言われていて、少し退屈だ。
たまには体を動かしたいなと思って足を動かした途端、見張ってたようなタイミングでドアがノックされた。
『おねえちゃん、いい?』
――義妹だ。
学園から帰ってきたらしい。
エレノアが応答すると、ルミーナは花の咲くような笑顔を見せて入ってくる。
『ただいまっ』
『おかえりなさい。今日のテストはどうだった?』
『いつも通りですよ』
『そっか、良かったね。成績優秀なルミーナちゃんは、これで来年の研究所行きは確定かな』
『どうですかねぇ。まあたとえ合格したとしても、お兄ちゃんの七光りなんて言わせないんですから。たくさん勉強しておくに限りますっ』
エレノアの義妹は、あと約半年後に学園を卒業する。
入学した時のあどけないルミーナを知っているエレノアは、ついつい涙ぐみそうになった。
ルミーナは背も伸びて、立派な女性になりつつある。
いつかは彼女も自分のように、男性に恋をして恋をされて、この妖精の目の届かないところで様々な人生を歩むのだろう。それは切ないことだけれど、仕方のないことだ。――などと、エレノアが夕焼け空に向かってしみじみと黄昏ている傍で、ルミーナは『変なおねえちゃん。……いつもですけど』と笑う。
そして新たに、一人が入室してきた。
『研究所は実力主義ですし、七光りなど無意味でしょうね』
黒いローブを腕にかけて、その立ち姿は凛として美しい青年。国一番の魔術師である彼は、その名を世界中に轟かせている。エレノアの夫だ。
彼はエレノアに『ただいま』と微笑んだけれど、ルミーナに向ける言葉は淡々として厳しい。それが愛情表現の一種であると、スティラスの女性二人は知っていた。「試験は身内であっても容赦しない」という発言からマザコンがどうという流れになり、兄妹の会話を聞いていたエレノアは盛大に笑った。
ルイは元母親代わりの現妻にイラっとしたけれど、気を取り直してくれたようだ。壁にかけられたハンガーからカーディガンを取り、彼女の肩に掛けながら、
『体を冷やしてはだめですよ』
『寒くないよ?』
『君は寒くなくても、お腹の子はそうではないかもしれません』
エレノアは、反射的に腹に触れた。
――そうだ、子供がいた。
そこが僅かに膨れていて、こうして意識すれば、どうして今まで忘れていたのか不思議だ。同時に、自分がこうしてベッドとお友達状態な理由も思い出した。
『君に似て鈍感なら良いのですが、僕に似ていたら繊細でしょうし』
『……お兄ちゃんが繊細、だと……?』
『やはり落としますか』
『そ、そういえばおねえちゃん! 今日は学園のみんなで球突きをしたんですよう!』
ルミーナは冷や汗を滲ませて、義姉にしがみついた。
『球突き? 長い棒で、こんってやるやつ?』
『はい。恥ずかしながらルールも全くわかんなくって、お友達に教えてもらっちゃいました……。最初なんて、わけもわからずフルスイングかましちゃいましたよぅ……』
『楽しそうで何よりだよ』
『はい、楽しかったです!』
ぱあ、と輝く向日葵のような笑顔は、スティラス家で唯一の太陽属性だ。
ルミーナはエレノアのベッド付近から退いて、長い棒を振り回す仕草を取った。球突きとはたしか、台の上に玉を転がし、長い杖のような棒の先で突いて遊ぶものだ。ルミーナの元気な身振りではまるでゴルフのようだと思ったエレノアは、それを言おうと口を開いて、無邪気な声で遮られる。
『だからね、おねえちゃん。私、本当に楽しかったんです』
――え?
エレノアの微笑が固まった。
赤い赤い夕日は先程から少しも位置をずらさずに、部屋を赤く照らしていた。
ルイの姿はいつの間にか消えていた。
ルミーナはベッドの端に座り、『ねえ』と問いかける。
『だから、お兄ちゃんとおねえちゃんにも、たくさん笑っててほしいって思うんです。おねえちゃんとお兄ちゃんの子供が生まれたら、私みたいに生きてほしいって思うんです。これってね、たぶんとっても幸せなことなんですよ』
ルミーナが、豪奢な金髪を耳にかける。
見えた横顔は少し寂しそうだった。
『エレノアは、どうしたいんですか?』
どうしたい。
自分は、どうしたいのだろう。
『私は』
『うん』
『……戻りたい。さっきみたいに、この家、みたいに、みんなで元の関係になりたい』
『戻れないですよう。だって私がいないんですからっ! ……なんて、そんなことエレノアはわかってるんですよね。もう、ず~~~~~~~~~~っと前から、理解してるんですよねっ』
というかビスくんもいなきゃ寂しいじゃないですか? と、故人であるルミーナが、見も知らないはずのビスの名前を出してくる。これは夢なのだから、何も不思議ではないけれど。
夢のくせに、優しかったはずの義妹は厳しいことを言う。神妙な顔で『それに、この夢に留まっていることもできません。夢はいつか覚めるものです』ここではっとして『あーでも、それはお兄ちゃんの魔術なら可能かもしれません。でも、エレノアがそうなることを、やっぱりお兄ちゃんは許さないでしょう』――夢も希望もなくしてくる。
要所要所で容赦がないところは、さすが兄妹だ。
『なるほど、戻りたい。それが無理なら、次にどうなりたいですか? このままでいいですか? それとも、お兄ちゃんとお別れしますか? 離婚調停案件ですか? それか、仲良しのいちゃいちゃ甘々万年新婚夫婦に戻りたい? ……それともまた、この世界とお別れしたいですか?』
エレノアは言葉を詰まらせながら、
『わからない』
『なるほど、わかりませんかっ』
『だって、私のせいだよ』
――ぽた、
涙が溢れてくる。
夢の中なのに止められない涙が静かに頬を伝って、寝具にぽたりと落ちて染みをつくる。そのささやかな音までが現実のようで、切なかった。
ルミーナはいかにも『仕方のないおねえちゃんですねぇ』と言いたげに肩をすくめて、エレノアを抱きしめた。お腹に響かないように優しく。昔に、エレノアがそうしたように。
室内に、エレノアのしゃくりあげる声だけが響く。ひく、ひく、ぐす。齢三桁の大妖精が、まるで人間のようにすすり泣いた。
『ルイは、すごかったよ。頭が良くて、天使みたいに可愛くて、みんなに好かれてて、町中のみんながルイを頼ってて、……そりゃ、ちょっとひねくれてる人も、いたけど』
『はい』
『だからね、今みたいに簡単に人を殺しちゃったりするルイを、どうすればいいのかわからなくて』
『はい』
ルミーナの手が、エレノアの頭を不器用に撫でてくれる。『戻りたいって、思っちゃった』『ルイを傷つけちゃった』『どうしよう』『どうしよう』
ぼろぼろだった。
心は、ずっと前から擦り切れていた。『泣くほどお兄ちゃんが好きなんですねえ』なんておどけた言葉に、恥ずかしげもなくこくこく頷けるくらいに限界だった。
ルイを裏切ろうとした感情の大きさは、そのまま彼への愛情の大きさでもあるのだ。
夕日は沈まない。
この世界中に二人しかいない。
濃い橙色は、それでも優しい。窓から緩い風が入ると、白いカーテンが柔らかく膨らんだ。
『私はスティラス家の人間です。あの薬を開発した家柄と知っていながら、エレノアに隠していました。そんな私は、お兄ちゃんの行動の意味がよくわかります』
エレノアの額に、こつりとルミーナの額が当てられる。『私はいい子じゃないんです。エレノアが思っててくれたみたいな、無邪気な子なんかじゃ、全然なくて』そんなことを告白するルミーナには、体温がなかった。夢だから。それともちろん彼女がすでにいない人物だから。撫でてくれる手の平も、抱きしめてくれる体も柔らかいのに、温もりがない。それはとても歪で悲しいことだ。
『一緒に居たかっただけなんですよ』
私も、お兄ちゃんも。そんな言葉が含まれている気がした。
――『僕は努力をしました』
――『君と幸せになるために』
――『君は、そんな僕の努力を、否定するんですか』
ルイの言葉が胸に突き刺さる。一緒にいたかったのはエレノアだって同じなのに、どうしてこんなにも違ってしまったのだろう。
『おねえちゃんのせいじゃないんです。お兄ちゃんのやり方を否定するもしないも、おねえちゃん次第でいいんです。たしかに、お兄ちゃんの不意を突くみたいなやり方は悪かったかもしれませんが……とにかくおねえちゃんは半分くらい悪くないですっ』
要約すると、エレノアには選ぶ権利があるのだと、ルミーナは言う。
それなら自分はどうしたい?
後には引けないこんな状態で、せめて最善を選ぶとしたら。
『……もう少し頑張りたい。人を殺してほしくないし、また仲良しになりたい』
『難しいけど、それなら何かしないとですね』
『でもルイを先に怒らせたのは私だよ。いまさら、何かできるなんて……』
『だからって何もしないでいれば、つらいままです』
こんな複雑な気持ちでは、夫婦関係を続けられないだろう。
純粋なまま死んだ義妹は、とことん厳しい。
『エレノアは、ちゃんと知っているはずですよ。見落としたものがあるはずなんです』
このままではいられない。……それなら、どうする?
まだ手段が残されていると、ルミーナは確信しているらしい。
エレノアは考える。
見落としたもの。まだ手段があるというなら、自分は伝説のヤンデレエンドには至っていないのだろう。人間である勇者と、妖精は違う。まず飛べる羽があるから、いざという時に逃げやすくはあるだろう。それに自分には原作の知識があるし、
『……あ』
エレノアが声を上げる。
ルミーナが花のような優美な笑みで、
『ね。見落としたもの、あったでしょう?』
『あった』と言えるのかは、今のエレノアには判断できない。けれど、とっかかりはあった。
忘れてはならない。自分は主人公ではない。
妖精は攻略対象キャラクターだ。
本当の意味で攻略されてしまえばいい。
――私が、ルイ・スティラスを攻略してしまったように。
エレノアは押しの強いルイに攻略された気でいたけれど、世界のルールに則るならば、時計を相手に捧げたルイこそが攻略対象キャラクター――攻略された側になる。
自分は与えられるばかりで、ルイへの想いを未だ示していない。
その差異を埋めるために、妖精として定められたものを、彼に捧げなければいけないのかもしれない。
――『妖精の月時計』を。
今度は自分が彼に渡すのだ。優しい彼が、もう随分と遠い昔に、それをしてくれたように。
そうしてからようやく、本当の意味での『ごめんなさい』ができる気がする。
チャンスは一度だ。それで彼の心を開けなければ、きっと二度目など許されない。間違えてはならない。この緊張感すら、ルイが若くして味わった苦悩とは比べ物にもならないのだろう。
『できるかな』
『やるんです』
『失敗したら、どうしよう』
『失敗してもしなくても、やるしかないんです』
『……うん、探してみる』
『それでこそ、わたしのおねえちゃんです』
エレノアの体が解放される。
ぱっと立ち上がったルミーナは、そのまま振り向いてエレノアに向き直る。制服のスカートが翻って、愛らしい立ち姿――とても懐かしい。
エレノアは義妹を見上げる。
ルミーナはこほん、とわざとらしく咳払いして、
『愛が重くて、ちょっと偏屈なところがあって、意地悪で、子供っぽいところがあって、変なところでこだわり性で、飽き性でもあって、たまに人の話を聞かなくて、あれは不束者と評するしかない兄です。それに、世界中の人間から嫌われる大魔王です』
酷い言いようだった。
『おすすめポイントは、魔術がすごいところと顔がいいところと、家事ができるところ……くらいしかないかもしれません』
それだけ見れば優良物件だ。
『それでも、いいって言ってくれるなら』
そんな彼がいいのだと、エレノアは泣きそうになりながら、どうにか笑った。
『地獄の果てまで、末長く。お兄ちゃんをお願いしますね、お義姉ちゃんっ』




