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妖精と猫

 あの日から、夫婦仲が悪くなった。


 という事態にはならなかった。

 魔王の蔦に捕えられ、誰も来ない玉座の間で気絶するように眠ったエレノア。彼女が自室のベッドで目を覚ました時、そこにはルイがいた。いつもの笑顔で、ベッド横にふかふかの椅子を置いて座り、穏やかに本を読んでいた。

 妻が目を覚ましたと気付いた彼は『おはようございます。気分はどうですか?』などと、気遣いする余裕すら見せた。

 本を閉じ、ベッドで動けないでいるエレノアの髪を撫でて、


『昨日はすみませんでした』


 ――茶番だ、とエレノアは思った。

 申し訳なさそうな彼の笑み。そうしてしまえば、エレノアに「許さない」選択肢はないことを、彼は知っている。口を「え」の形にして声の一言も出せないエレノアを、彼は愛おしそうに見る。

 あまりにもいつも通りで、違和感があった。

 エレノアの裏切り行為を許した、わけではないのだろう。それならこの態度はなんだ。怒りでもない、呆れでもない、不自然と言えるくらいに自然すぎる態度は。


『大丈夫ですか? どこか痛いとか』

『……大丈夫。ちょっとお腹空いたかな。何かない?』

『そう言うと思って、ちゃんと用意しましたよ』


 差し出された果物と、お茶。どれも市井には出回らない、一般市民では手の届かない逸品だ。

 捧げ物を目にしたエレノアの体から、無駄な緊張が消えた。それと共に、血気すら抜けていくのを感じていた。

 自分が行動を起こしたところで、彼は結局彼のままだ。高価な好物たちに囲まれて、エレノアはへらりと笑った。もはやそれしかできなかった。

 ただ一つわかることがある。――食べ物に罪はない。




 ――また一年。早いなあ。


「一人でいいよ。バルコニーに行ってくるね」

「かしこまりました」


 エレノアは命じるなり塔を下りて、城内を歩いていく。

 ルイに与えられた白と青のドレスは、これまたルイに与えられた侍女にしっかりと着付けられていて、少しだけ息苦しい。

 世間はどうやら秋のようだ。人間でいえば朝とか夜とか、その感覚で季節が巡っていく。

 人間の世界は、今どうなっているのだろう。案外変わっていないのかもしれないし、近代的なビルが建っているかもしれない。あるいは戦争をしているかもしれない。


 ――まあ、どうでもいいか。


 使用人たちは、エレノアの姿を見るや壁際にずれて、恭しく頭を下げる。にこやかに「ご苦労様」と声をかけ、突き当りを曲がったところで、「にゃっ」「あれっ」猫耳の少年とばったり対面した。


「どこ行くの? おれも行っていい? にゃん?」

「いいよ。と言ってもバルコニーに行くだけだから、つまらないと思うけど」

「あそこ好きだもんねぇ。長く居るんならお茶とか用意させるにゃんっ。……ちょっとそこの犬のやつ、いつものセット用意してバルコニーに持ってきて」

 

 ビスの命令に慣れた犬耳の使用人は、「はい」と頭を下げた。


「いいのかな、お仕事あったりしないかな」

「さっきのやつ? 主人の要望に応えるのがお仕事だにゃん。もちろんおれもねぇ。だから、気にしないでいーのっ」


 陰気臭い城内を歩く。ビスを伴って、三階空き部屋のバルコニーに。

 エレノアの部屋は一塔の最上部で、窓はあるがバルコニーはない。新鮮な空気を全身で浴びるためにはと城内を探して、見つけたのが三階バルコニーだ。

 見張りも鍵もない部屋に入り、真正面のガラス扉を開ける。そこには、既にテーブルとイスが用意されていた。壁際には、置いてきたはずの侍女が人形のように立っている。エレノアが部屋からここに来るまでにこのセットを用意したと考えると、とんでもない速度だ。

 侍女が引いてくれた椅子に腰かけた。


「ありがとう。ビスくんと二人にしてくれる?」

「かしこまりました。では、失礼いたします」


 お堅い侍女が去って、エレノアはようやく深呼吸した。

 世界中で最も空に近いこの魔王城では、空がさらに青く見える。もう一つの椅子にビスがぴょこんと座って、機嫌良さそうにしている。ごろごろごろごろ……、喉も鳴っている。


 平和だ。

 平和でないのは、自分だけだ。


 一年前からずっと、エレノアの心は穏やかではない。じわじわと低温で炙られている心地だ。


「ビスくんはよく外に出てるんだよね? 人間の国とか行く?」

「んー、時々は様子見に出てるよ。面白いものはないけどにゃん」

「どんな感じになってるのかな? 十二階くらいのガラスの建物とか、できてたりしない?」

「それどんな技術? 気になるなら出て見ればいいにゃん。人間界なんてそうそう変わんないけど。エレノアさん、ずうっと外出てないよねぇ……ルイに言われたの?」

「そういうわけじゃ、ないんだけど」


 一年。 

 エレノアは一度として城の外に出ていない。

 だから人間界はもとより、魔界の様子すらも完全には知れない。


「ルイはねえ、ちょっと過保護じゃない? ってところあるし……何かあったら言ってねぇ」


 まあおれが、ルイを相手に何かできるかわからないけど。

 そう付け加えられて、エレノアは苦笑する。


 お茶を楽しんでいると、外の大門が開くのが見えた。

 大きな首無し馬が引く荷台と、御者が見える。行商人だ。鼠の耳が生えているから厳密には人ではないけれど、『行商魔物』では語呂が悪い。


「何持ってきてくれたんだろう?」

「んー? あ、なんか珍しいものがあるんだって。ほら、近々ルイの魔王就任記念日? みたいなお祭りがあるにゃん? その関係で色々と、にゃん」


 王の就任記念祭は、人間に比べて荒れくれ者の多い魔界では、そう多くないイベントである。

 魔王ビスの時代には一度もやらなかったらしい。何代も前のイベント好きの魔王なんちゃらの時代には、一年ごとに企画されていたらしいが。

 その催しに作法はない。自由だが散らかりやすいので、主導する方も大変だろう。


「ルイ、今は大変な時期なの?」

「大変といえばいつもそうだと思うけどぉ、このイベントに関してはおれが統括だからさぁ……にゃあん……」

「あー、そっか」


 今回の祭りの発端は、ルイを慕う城内の魔物の一意見だ。それが魔王城外に広がり、是非にと賛成者が続出したものの、ルイ自身は


『自分で自分の就任を祝う気はないので』


 と言うので、あえなく魔王城三番手のビスに責任が回ってきたわけである。ふにゃん、と溜息を吐くビスも、まんざらではないらしい。

 ビスの頭をよしよし撫でると、ごろごろごろごろごろと鳴き方が激しくなった。


「ってことで。しばらく、ああやって珍しい品物とか、積極的に来ることになるんだにゃんっ」


 ビスとエレノアは、外で門番の検閲を受ける商人に視線を戻して、


「あれも事前に知らせがあったから、怪しいもんじゃないよぉ」

「いや怪しいとか考えてたわけじゃないんだけど」


 そこでエレノアはふと考えて、


「すぐ戻るからね」


 ぴょん、と飛んだ。「えっ」後ろからビスの声が聞こえる。

 エレノアは妖精だ。好奇心に動かされやすいし、軽率に飛ぶ。ドレスをひらりと靡かせて、髪を風に遊ばせながら、地面に降り立った。

 突然表れた妖精に、門番と商人はぎょっとする。


「エレノア様!」

「何故このようなところに……」

「王妃さま、ここは危のうございます」

「魔王城の敷地内に危ないとかあるの?」


 上級魔物に紛れて生きる妖精は、ライオン小屋に住む兎と同じようなものだ。けれど魔王城では、その妖精が確固たる地位を築いている。その光景を初めて目にして驚く鼠の商人に、エレノアは表向きの笑顔を向けた。


「ここまでご苦労様。私のことは気にしないで、ちょっと見てるだけだから」


 大きな羽は邪魔になるだろうと常に広げず、背に垂らすように癖付けている。エレノアは羽の収まりを確認すると、荷台の方にてけてけと歩いていった。


「美味しそうな匂い。果物があるね」

「え、ええ、この時期ですから、南領のオレンジが粒揃いだそうで。今年は果肉の赤みが違うと評判でございまして」

「ふうん? ……あ、ごめん。お仕事していいよ」


 ほんとに大丈夫だよ気にしないでいいよと言われて戸惑う商人に、門番が「大丈夫ですよ」と声をかける。エレノアがそういうのだから本気で気にしないでほしいのだろうと、彼女を知っている城内勤務の魔物は察せるのだった。

 ちなみにエレノアは前世から、声をかけてくるアパレル店員が苦手なタイプだ。


「……お」


 品物の中でも、甘い匂いを嗅ぎつけた。

 そうしていると、


「何をしているんですか?」


 背後から伸びてきた腕に、絡みつかれる。

 胸下に回された腕は、とてもよく知っている。

 気配なく近づいてこないでほしいなと思いつつ、大きな手に自分の手を重ねた。もう片方の手には彼の指が絡み、指先ですりすりと怪しく撫でられる。


 お仕事はどうしたのだろうか。


 エレノアの夫は、今日も人目を憚らない。

 永遠の蜜月とも言うべきいちゃつきようを前にしても、魔物たちは引かない。そこに我らが主人がいると認めて「魔王様!」ずざ、と膝を着く。


「行商の方が来られてね、美味しそうなものがたくさんあるんだよ。綺麗な織物も」

「報告にはありましたけど……。気に入ったものはありましたか?」

「気になってるものはあるかな。甘い匂いがするの。たぶんあそこの、黄色いやつ」


 鮮やかな黄色い実を指さした。木箱に緩衝材が敷かれ、そこに間隔を空けて詰められている。


「なるほど。行商の鼠族、……知らせによると、トティと言ったか。あれのレシピはあるか?」

「へ、へぇ。人間の料理本なら……」

「それはありがたいな」


 魔族も料理はする。人間の本も、多くはないが魔界に流通している。ルイは本をぱらぱらと確認すると、


「この実を全て買い取ろう。手続きを」

「はっ!」


 荷下ろしは城内の使用人で手伝うことと決まっている。ルイが許可を出すと、門番から呼び出された城内の使用人がわらわらと出てきた。


「ねえ、全部って、何に使うの?」

「あれば困らないでしょう? 妖精にも人気とありましたし、気に入ったらすべて君のものです」

「私が気に入らない味だったらどうするの」

「その時は城内で消費しますから」

「……そっか」


 二人は騒がしくなった現場から離れた。

 ルイがエレノアをエスコートしながら、バルコニーまで送ってくれる。


「おかえりなさーいにゃん。なんか増えてるし」

「ただいま」

「僕はすぐに戻りますから」


 最後に、エレノアの耳元で「今日は早く終わります。僕の部屋で待っていてください」と囁いて、ルイは仕事へ戻った。その背中を見送りながら、エレノアとビスはバルコニーのお茶会を再開する。


 エレノアは気づいていた。

 ルイは、エレノアが外部の者と会うことを警戒している。エレノアが誰かを殺す機会を作らないようにしている。彼女がふらりと出歩いて、危ういと悟ればそれとなくビスを派遣するし、それが失敗すると自らがやってくる。

 かといって、外出も客人の対応も、明確には禁止されていない。


 その曖昧な自由が、不気味だった。


 だからエレノアはこの一年間、外には行けなかった。自分が外に出ると、彼がどんな手を打ってくるのかわからない。怖かった。思いもしない手段で拘束してくるのではないか、自分を試しているのではないか、水槽の中で泳がされているだけなのではないか――、そんな疑心暗鬼に陥っている。


 彼にお仕置きされた翌日の朝。

 あの時から、エレノアの中に生まれた恐怖は、少しも動かない。


「エレノアさん?」

「……あ、ごめんね」

「やっぱり疲れるよねえ。たまには文句言っても許されるんじゃない?」

「ルイはお仕事たくさんあるし、できるだけ付き合ってあげたいから」


 今こうして談笑しているビスでさえ、ルイからどういう命令を受けてここにいるのかわからない。

 エレノアは疲れていた。

 息苦しいほど愛されているのに、信用はされていない。

 息の詰まるような現状は、エレノアの心を確実に蝕んでいく。




 侍女に肌を磨かれて、魔王の寝室で待つこと数十分。

 ルイが帰ってくるなりベッドに押し倒されて、エレノアは体を貪られる。

 この一年間、彼は以前よりも積極的に彼女を求めるようになった。愛しさを囁いて、慈しんでくれる。そして避妊は一切されない。

 子供を求めているのだろう、と思う。

 

『ここに沢山注いで、僕で満たして、子ができれば……、君は絶対に、離れられなくなるでしょう?』


 正式な契約がなされた夜に、彼が言った言葉だ。彼は以前からその片鱗を見せていた。


 うつ伏せになって揺さぶられて、意識が朦朧としてくる頃に、エレノアはずっと向こうのチェストを見た。この広い寝室では、ベッドから家具までがいちいち遠い。

 優美な曲線の足で立つ調度品の、その上には――砂時計がある。

 今のエレノアには手が届かない代物。

 彼から一度は与えられた、ルイの想いの形。

 それが、魔王の結界に包まれて安置されている。円形の青い光の中で浮かぶそれは、闇の中では間接照明のように柔らかく照らしてくれることを、エレノアは知っている。十日に一度は、ここで夜を過ごすからだ。

 砂時計を守る結界は、見るたびに変わる。今は光の中、その前は氷の中、その前はどういう仕掛けなのか、風が小さく渦巻いていた。

 エレノアから奪った砂時計を、彼は封印してしまった。そしてそれを誰にも触れさせないようにしている。結界を日ごとに替えて、対策する間も与えず、奪う意思すらもべきべきしていく心構えであるらしい。

 それとも、彼の個人的な趣味なのだろうか。

 新しい結界を作る実験でも、しているだけなのかもしれない。


 ――わからない、なあ。


「…………。」


 エレノアが砂時計を見つめていると、


「ダメですよ」


 ルイが言う。そうして、彼女の視界を手で塞いでしまった。

 視界がなくなると他の感覚が敏感になって、快楽を受けるのみになる。知らずに溢れた涙だって、気持ちいいからなのか悲しさによるものか、判別できない。


 ルイはもう、時計を与えてくれることはないだろう。

 無邪気な妖精にリセットなどさせないように。


 自分は失敗した。もう同族殺しなんてできない。失敗した。ちっぽけな妖精の感傷なんて、血反吐を吐く想いをした魔王にぶつけて何になるというのだ。

 失敗した。

 この結果も、自業自得というやつだ。


「考えないで。大丈夫。怖いことは、なにもありません」

「……なにも、ない?」


 本当に?


「ええ、何も。ほら、気持ちいいですね?」

「えっ、あ、……ぁ」

「時計なんてなくても、僕は君を愛しています。気にすることはないですよ。たくさん気持ち良くなって、難しいことはすべて任せて、ずうっとここにいましょうね」


 ――これは、あのエンドと似てるのかもしれない。


 女主人公を選択した『魔王様と砂時計』で、ルイ・スティラスのルート固有のヤンデレが発揮された。玉座に坐する魔王が、服が乱れた勇者を膝に乗せて笑っている。その暗くいやらしいエンディングスチルが恋愛ゲームとしては衝撃的で、ファンの間で語り草になっていた。


 ――そのエンドに至った主人公も、こんな気持ちだったのかな。

トラブルがなければ後でもう一話投稿します

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