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魔王様と砂時計

今更ですが、何度か問い合わせをもらったハッピーエンドを開始します。

「どうして君が」からの分岐になります。

 その刃が勇者の胸を突こうとした瞬間、エレノアは動きを止めた。

 赤黒い羽をぴんと張り、殺意にぎらつかせた瞳で勇者を見ながら、それでもそのナイフを動かせなかった。


 ぎちり、と。


 彼女の片手首を捕えるものがある。それは蔦だった。エレノアの後方から勢い良く伸びてきて、強く巻き付き、今もぎちぎちと唸っている。

 戸惑ったエレノアは、それが誰の魔術か解っている。蔦からにじみ出る魔力が、『彼』の怒りをこんこんと伝えてくる。

「うそ」と小さく、エレノアの唇が動いた。

 後ろは振り向けなかった。

 目の前にいる勇者より、周囲で唖然としている勇者一行より、ずっと後方の玉座にいる夫が怖い。「どうしたのでしょう……?」「ふん、仲間割れか」「にぃに、にぃに、こっち、はやく!」勇者一行が纏まろうとしている。それはダメだ、今やらなければ。


 ――私の覚悟が無駄になる……!


 エレノアはもう片方の手を動かしてナイフを振ろうとしたけれど、その手も蔦に捕らわれた。彼女の細腕は見かけよりも膂力はあるけれど、魔王が生み出した植物の硬さには敵わない。捕らわれては跳ぶこともできず、エレノアはもがきながら沈黙するばかり。

 分厚い一枚岩だった魔王側の、明らかな亀裂。

 勇者は両手を捕らわれた魔王妃を敵と見なせず、ともすれば哀れにすら見えて、近寄っていく。


「……エレノアさ、」

「触れるな」


 けれど勇者が彼女に手を置こうとした瞬間、玉座の魔王が立った。


「それは私の妻だ」


 腕を一振り。それだけで、その場は魔王に支配された。彼は俯いて、前髪に隠れた表情は見えない。彼の周囲に渦巻く風がある。彼の髪を柔らかく揺らす春風のようなそれも――彼の、あくまでも優雅な、青い魔力だ。

 怒気と悲しみと混乱と様々な感情を含んだ、凄絶なる威圧感。

 背後にそれを感じ取って、エレノアの体が震える。足下がぐらついた。


「……っ、あ、」


 床から、彼女を囲うように何本もの蔦が飛び出してくる。エレノアの太腿の三倍ほどはありそうな、太さだった。皮も固い。深い緑い緑色のそれは植物というより、意志を持った生き物のようだった。

 細い先端が彼女一人に首をもたげ、


「捕えなさい」


 ルイの一言で、彼女を襲った。


「っ……!」


 エレノアに拘束の意志が襲いかかる。他でもない、愛しの魔王がそれを望んでいる。

 細い腰を、腕を、足を、全身を捕らわれて、彼女はついにその手からナイフを取り落とした。

 ぎゅぐ、ぐぐ。鈍く唸る蔦に、エレノアは「ひぐっ」と儚い悲鳴を上げる。ルイに初めて向けられる害意。想像もしていなかった。体に走る衝撃よりも、心が激しく戦慄いた。彼女は成す術もなく、一切の身動きを停止した。

 勇者は吠える。


「魔王ッ!! 貴様、彼女の夫ではないのか、また彼女を傷つけるのか!」


 勇者にとって『エレノアが捕らわれる』ことは何よりのトラウマだ。


「…………。」


 猛然と吹き荒れる怒りの声にも、ルイは無言で返した。鬱陶しそうに眉を顰めて、指を鳴らす。

 勇者は太い蔦で仲間と一纏めにされて、天井のガラスから外に放り出された。彼らに飛ぶ能力がなければ、地面に落とされて死ぬだろう。魔王が関知するところではないだろうが。


「さて、邪魔者が消えたところで」


 魔王が「ふふふ」と笑う。表情は昔の優しい微笑みの形をしていて、けれど瞳だけは冷たく凍り付かせて。己を裏切りかけた愛する妃と、己の浅慮を嘲った。

 こつ、こつ、こつ――、

 鷹揚な足音を鳴らして、ルイはエレノアの前に回り込んでくる。勇者一行が消えた玉座の間は静かなもので、夫婦が対話するには十分な環境だった。

 ルイが優しく語りかける。


「少しお話しましょうか」


 いつものように甘く、寝室で愛を囁き合うように。

 次の瞬間、エレノアの体中が蔦に強く締め付けられた。「っ」彼女の爪先が浮く。

 魔王の翼下で生きていれば味わうことのない、強い窮屈感だった。

 彼女自身が、世界でも指折りの強者だ。あの三人組に嬲られた時とは比べ物にならない魔力と戦闘能力を備えた。これほどの強圧を受けることなど、もう二度とないと思っていたのに。

 信じられない思いだった。けれどエレノアは、優しい彼にそれをさせたのが自分だと解っている。ルイがゆったりと歩み寄る姿に、彼の中の魔王を見る。


「やはり僕はルイ・スティラスだったようです。君にこんな格好をさせて、心から安心している」


 彼はエレノアの肌をするりと撫でて、


「肉の触手でも良かったでしょうか? 醜く蠢くものの中では、輝くような妖精の美しさがよく映えるでしょうね。……ああでも、君の肌が僕以外に汚されるのは……」


 嫌だな。――一言、低くぼそりと呟いた。

 彼が目を細めた。その視線一つで、エレノアの首元に光の輪が纏わり、そこに固定された。発光が終われば、そこにあるのは銀の首輪だった。妖精の力を奪う純銀。

 エレノアの羽から、汚らわしい赤が抜けていく。


「あ、ぁ、……ルイ……?」


 彼は本気だ。

 それまでエレノアには向けなかった魔王の残虐性、その一端を差し向けられている。エレノアは歯が鳴りそうなのを抑えて、怯えた目で彼を見つめた。

 彼女の恐れ。それを見ても、彼はうっそりと恍惚の笑みを返し、余裕そうにしている。エレノアが知っている彼であれば、罪悪感が滲む声で「ごめんなさい」「痛いですよね」と解放してくれるはずなのに。

 それほどまでに、自分は彼を怒らせたのか。

 エレノアは絶望の一端を見た。これは罰なのだと、『飼い主』を前に認識する。


「君は何をしようとしていましたか?」

「……殺そうとしたの」

「『同族殺し』。……自分と同じ妖精を殺そうと?」

「…………。」


 沈黙。

 それでもルイは得心したとばかりに「そうですか」と頷いて、


「ほんの少しだけ勢い付いてしまったんですね? その勢いを殺してしまった今なら、同じことをできませんよね」


 エレノアは俯いた。その通りだったからだ。

 衝動に身を任せたことを後悔はしていないけれど、一度の蛮勇を阻まれてしまったなら、同じことをするのは難しくなる。まして彼に見咎められたなら、二度目はないだろう。

 彼の手が動いて、エレノアの首元に向かう。


「ルイ」


 エレノアは、まさかと顔色を失った。彼が何をしようとしているのか、――嫌な予感がした。やめてと訴えても彼は聞いてくれもせず、彼女の襟元に手を入れて、目的のものを探り当てた。


「エリー。愛していますよ」


 そうして彼は、エレノアの首から下げられていた砂時計を、引き奪う。

 彼女が大事にしていたもの。ルイの手で渡してくれた、彼の愛の形。それが彼自身の手で奪われていった。

 細い鎖が無惨に切れて、エレノアの目が見開かれる。


「やだ、返して、私のだよ、やだ、やだ、お願い」

「返せません。これは今の君が持っていてはいけないものだ」

 

 処刑宣告にも等しいと思った。

 エレノアはその一瞬、体中の血液が止まってしまった心地になった。


「近頃の君が何かを悩んでいることには気が付いていました。僕に対しても、どこかおかしかった。君の変化がわからないほど目が節穴な夫ではないつもりでした。それなのに、君は僕に観察されていたことすらも解らなかったんですか?」

「かん、さつ」

「可愛いエリー。その愚かさに相応しい、呑気で無邪気なだけの妖精でいればよかったのに」


 酷いことを言われている気がする。

 エレノアは呆然とルイを見ている。吊り下げられている体が、不思議と重い。

 彼は奪ったばかりの砂時計を彼女の目の高さまで掲げて、


「『リセットボタン』」

「っ……!」

「過去の僕から渡された手紙には、このことも書いてありました。君はこれを使うことを、一度でも考えましたね?」

「なんで……」

「わかりやすいんです。……何故、と聞いても構いませんか? 大丈夫、理不尽に怒ったりしませんから、ゆっくり教えてください」


 ほら、いいこ。怖がらないで。ちゃんと言ってくれなければわかりません。

 柔らかな声が不気味だ。背筋を走る寒気が足を震わせて、巻き付く蔦がますます強く締まる。

 これは夫婦の話し合いなどではない。魔王の尋問だ。これでも破格の対応なのだろうけれど、体を縛られての質疑応答など恐怖でしかない。

「黙っていてもわかりませんよ?」と言われて、エレノアは追い立てられるように声を出す。


「ルイが、変わっちゃったと、思ったの」

「僕が、どう変わったと?」

「……私が、」


 私が。

 エレノアの目から、涙がぼろりと垂れ落ちる。


「私が弱いから、ルイは私を生かすためになんでもするの。私以外の誰でも殺しちゃう。私が欲しいものを簡単に買っちゃう。昔はそうじゃなかったのに」

「それだけですか?」

「それだけ、じゃないけどっ!」


 上手く言えずに、エレノアは言葉を探した。

 どう考えても、涙ながらに訴える内容ではない。その自覚はある。エレノアに優しくしてくれる、昔はそうじゃなかったのに。それがどうしてそんなに悲しいのか、実は自分でもよくわかっていないのだ。けれどそれを絶望的な変化と認めてしまったこともたしかだった。

 同族殺しという、同じ罪を被ろうと決意するくらいには。そうした後で、世界をリセットするかどうか、選択してみようと思うくらいには。

 ルイの変化は、それほどまでに悲しかった。


「たしかに僕は変わりましたよ」


 彼は静かに認めて、


「けれどそれは僕の意志だ。僕は僕のためにここまで来た。君と生きたい僕のためだ、君のためじゃない。まったくの傲慢です。君の思考は受け入れられない」


 エレノアの思考を拒絶する。傲慢だと言い切った。


「でも、人いっぱい殺して、こんなやり方じゃ……っ」

「間違っていると言いたいんですか? 僕はそうとは思えませんが――」


 ルイはややあって、「ああ、いえ、間違えました」と言い直す。


「僕は一度だけ、致命的に間違えた。あの日、君とあの子を家に置いて行ってしまったあの時。忌々しい。今思い出しても、己の迂闊さに反吐が出る」

「迂闊なんて、そんな」

「あの瞬間の間違い、失敗から、今に分岐してしまったんです。けれどその後に間違いはありません。だって君は回復して、僕と一緒にいてくれて、今に至るまで生きていてくれているから」


 ルイは言う。

 君を生かすために、もう間違えないと決めたのだと。

 君が死んでいないから、僕は間違えていないと。

 それは呪いじみた覚悟だった。エレノアの優しさ――もはや甘さとも言うべき脆弱な心では、推し量れそうもない。

 エレノアの同族殺しの覚悟。それは間違っていないと、エレノアは思う。けれどルイの『二度と間違えない』覚悟も、きっと間違いではない。それに係る想いは、どちらがより大きいのだろう。どちらがより強いのだろう。考えるまでもない。現状を見れば一目瞭然だった。どちらが正しいのか。どちらが間違っていたのか。どちらの頭が良くて、どちらが馬鹿で、どちらがどちらに従うべきで、どちらがどちらにひれ伏すべきで、どちらがより傷付いてしまったのか、


(……ごめんなさい)


 エレノアの思考が止まる。

 ――私は捕らわれた。

 ――私は負けた。

 彼の手が、項垂れる彼女の銀髪に触れた。


「僕は努力をしました」

「…………。」

「君と幸せになるために」

「…………。」

「君は、そんな僕の努力を、否定するんですか」


 ぽつぽつと吐き出される寂しそうな声は、昔の彼みたいだな、と思った。


「君は、僕が変わったことを悲しんでしまっているのかもしれません。けれどそれで何もかもを終えてしまったら、今ここにいる僕の気持ちはどうなりますか」


 エレノアは一言「ごめんなさい」と吐き出した。

 敗者の謝罪に、ルイは満足そうに微笑み、


「何か、ほしいものはありますか?」

「え……」

「食べたいものとか、読んでほしい本は?」

「…………。」

「ないなら、明日にでも桃の砂糖漬けと、林檎のコンポート、あとはミントのお茶でも、君の部屋に持って行きますね。主食には血を分けてあげますから」

「るい」

「この玉座の間は、陽光と同じく月光も差します。妖精の育成環境としても申し分なく、君を置いておくにも丁度いい」


 周囲をくるりと見回した彼は、エレノアの頭をいいこいいこと撫でた。


「お仕置きです。ここで一晩、頭を冷やしてください」


 ベッドでの『お仕置き』は、もうお仕置きではなくなってきているでしょう? 僕にたくさん抱かれて、気持ちいいことが好きになってしまったから。そんな君に対して、新しい方法を考えようと思っていたところです。それで、こうしました。痛めつけるのは嫌なので――、つらつらと宣う彼に、エレノアは暗い瞳で「はい、はい」と機械のように返した。


「明日になれば部屋に戻してあげます。何かあれば僕を呼んでください。大抵のことはできますよ。動けない君をお世話するのは、慣れていますから」


 愛していますよ、エレノア。おやすみなさい。良い夢を。

 良き夫のような言葉を丁寧に置いて、魔王は去っていく。妻が大事にしていた砂時計を奪ったまま、自分の部屋に帰っていく。

 エレノアはそうっと口を開いて、


「ごめんなさい」


 玉座の間の巨大なドアは、ゆっくりと閉じていく。

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― 新着の感想 ―
[一言] ハピエンルート……!? ありがとうございます! とても面白くて大好きな作品でしたが、結末が衝撃的すぎたので……続きが楽しみです。
[一言] 何年も前に読み、今でも大好きで記憶に鮮明に残っているこの作品の別ルートがみられるなんて… とっっっっても嬉しいです!! せっかくなのでまたはじめから読み返しつつ、続きをお待ちしようと思いま…
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