うそつき
エレノアは決めてしまった。
自分のせいでルイが汚れてしまったのだと悩んでいる時に、勇者――同族の敵が現れたことは、信じてもいない神様のご意志のように思えた。
――そうだ。
――彼が私の手で落ちてしまっていたのなら、私が落ちればいい。そうして一緒になればいい。
――決めるなら、それからにしよう。
――だってどうせ、この人生はリセットできるのだから。
ルイが愛した清らかな妖精は、勇者が同族だと知った瞬間、エレノアの中で死んでしまった。
ルイが魔王へ凋落していく様子をまざまざと見せつけられた時から、彼女の心は軋んでいた。彼が望む優しい妖精でいる必要がないのだと思った。どうせなら自分も同じところまで落ちて、その位置に耐えられなかったら、その時は――と。
彼女の中でそれは救いだった。奇妙な自信に満ちた美しい解だった。
悩んでいることに疲れた彼女は、倫理から始まるあらゆる思想を投げ出した。
だから彼女は、それを成し遂げた。
「ね、ルイ」
エレノアは微笑む。
ルイは彼女の前に駆け寄って、薄い肩に両手をかけた。その瞳は悲哀と困惑に揺れていた。
――どうして。
――彼女はこんなになるまで、何に悩んでいたのか。
エレノアの脳に、ルイの心が聞こえてくる。以前ならその声に耳を塞いでいたけれど、この時ばかりは穏やかに耳を澄ませた。
「自分のしたことをわかっているのですか? 同族殺しなんて……」
「それはルイも同じだよ。自分がやるのはいいのに、私がやるのはいけないの?」
血溜りに立ってにこりと笑う彼女に、ルイは顔を歪ませた。
彼女は笑っているようで笑えていない。作り笑いの下手な彼女は、己が為した罪を誰よりも怖がっている。手の震えは引かないのに、それでも短剣を握り込む力だけはどうしたって抜けない。
彼女が初めて被った血液はおぞましくて、生暖かい感触に吐き気がした。同胞の筋肉をぶちぶちと引き裂いて、その奥の臓物を破った音が、彼女の手に伝わっていた。
――気持ち悪い。こわい。恐ろしい。なんでこんなことをしてしまったの。ごめんなさい。気持ち悪い。気持ち悪い――。
この感触を知り、この嘔吐感を認めてしまった今、彼女は自分を許せなくなった。長年の間、この非道を彼に課した己を恨んだ。
彼と同じように同族を手にかけたエレノアは、死にたくて、死にたくて、死にたくて、消えたくて堪らない。
かつんと、硬い音を立てて短剣が落ちる。
「ごめんね。保護者失格だったよね。ごめんね」
「君に保護者でいてほしかったのではありません! こういうことは僕がやるのに、どうして君が……!」
ルイは、大事なものが壊された子供のような顔をしていた。エレノアの肩に額を付けて、「どうして」「なんで」と何度も何度も問うてくる。
その悲痛さはエレノアの方が笑いたくなるほどで、「大げさだよ」と言いたくなった。
――大げさ。本当に、そうだろうか。
肩に込められる力が一層強くなったけれど、エレノアは何も言わずに彼を見つめた。
「……早く身を清めてください。後処理は僕がやりますので」
「必要ないよ」
鳥籠に入れられたまま微温湯に溺れさせられる、心地よく苦しい世界を、もう――。
「終わりにしようか」
エレノアは決めてしまった。
それは真実、ここに居るルイへの死刑宣告だった。
「……何を、言っているんですか」
「昔の夢を見て羨ましいって思った。あそこに行きたいって思った。もう見たくないとも思った。たぶんね、生きてる今の状況によって、幸せな夢は悪夢になるの。だから終わらせるんだ」
輝かしい過去。後ろ暗い未来。
ルイの膝で見る長い長い夢――天使に捕まってから今に至るまでの夢が、苦しかった。
戻れないのなら思い出したくもない。
けれどあの日々に戻れる方法を、エレノアは知っている。
エレノアは、服の中にさげていた時計を取り出した。それをぎゅっと握ると、リセット画面が表示される。
『時計を回して、リセットしますか?(記録は消えてしまいます)』
砂が落ち切っているそれを上下逆さまにするだけで、これまでの全てが消える。
エレノアの右手が触れることによって、砂時計は赤黒く汚れてしまった。それが自分の心を表しているように思えて寂しい。
こんなことを思うなら、早くリセットしてしまえばいい。
そうわかっていても、エレノアはなかなかその手を返せなかった。
心臓は別の生き物のように冷え切って、ぎこちなく動いていた。悲しいのか、怖いのか、何もわからない。愛する人に愛される喜びすらも捨て去ることは、もしかしたら死ぬより辛いことかもしれない。散々、抱き合った。その温かさすらも無かったことにしようとしている。他でもない、自分が。
しんと静寂立ち込める玉座の間に、二人は向き合っていた。
くす。
ルイが笑う。いつものように優しい声で。
「どうぞ」
そして「リセット、できるのでしょう?」と、知ったような口をきく。
エレノアの髪に指を通して、返り血で固まった銀糸を解した。
「僕にも、不思議と覚えがあるんです。それに過去の僕からの手紙には、君が何度も死んでいるのだと書いてありました。詳しくは分かりませんけれど、ゲームのシステムで考えれば……そういうことなのでしょうね」
「ルイ」
「今の僕では、君を幸せにできなかったというだけの話です」
ルイはエレノアの頬を両手で挟み込むように触れる。彼は今日に至るまで、彼女に何度触れても飽きなかった。
彼女だって、何度何回、彼に触れられたのかわからない。妖精は飼い主の頭や肩や膝の上。触れられる位置にいることが当たり前だった。
二人で何年生きていたのかも正確には覚えていないけれど、ずうっとずうっと昔から、エレノアの身体は変わらない。変わらないままでルイの傍に居続けた。その心の内では憂いが増えていて、どこか変わってしまっていた。
ルイは微笑む。
「何も気にしないで。今回の僕は最後まで『生きた』君といられて、とても幸せでした。独り善がりだったとしても、僕はこの人生に後悔なんて……ありません」
別れは円滑でいたかった。これがルイなりの、彼女へ最後に向けられる優しさだった。最後まで優しくあろうとした。
けれど彼女は、その心遣いを一蹴する。
「うそつき」
涙に潤んだ瞳で精一杯に睨みつけ、弱い自分をなんとか立たせていた。
ルイの左手に自分の右手を重ねて、ぎゅうと握った。
「こんな終わりで幸せなわけない」
後悔なんて、何もない。ひとつもない。
――そんな物分りのいい最期を語れるほどに、温かい日々だったわけがないの。
「……エリー……?」
目を見開いて。そうしてからじわりと氷が溶け出す。その瞳が揺らいだことに、ルイは自分で気がついているのだろうか。
泣きはしない。後悔もしていない。どこか安堵したような、少しだけ荷が下りたような。
遠い日あの家にいた少年の表情で「……君は本当に仕方のないひとですね」と苦笑したあとで、彼はほうっと息を吐く。
「……僕が魔王として立ったことで、多くの人間が死んだことでしょう」
「うん」
「ルミーナを殺し、君を僕から奪いかけた人間達よりも、多く。それでも僕は人間という種族に対し、まだ憎悪しかない」
「うん」
エレノアは保護ぶってルイの言葉を聞いていた。いつか幼いルイにしたように、抱き締めてはやれなかった。あの時と違って血で濡れているからだった。
「また君が、人間達にあのような目に遭わせられるかもしれない。君との子ができたところで、その子も人間に奪われるかもしれない。……断ち切れませんでした」
「うん。……ルイ」
「はい」
「少年」
「はい」
「次は私から渡すよ。妖精の月時計、きっと渡すよ。私もルイの砂時計が欲しいから」
血まみれの妖精がルイから離れていく。
その距離を縮めたくて、けれどそうしたところで彼女は喜ばないから、ルイはただ彼女を見ていた。
その白い手が、砂時計をひっくり返す光景までも、全部、ぜんぶ、見逃さないように。
「また捕まえてほしいな」
エレノアが消えた。最初から、そこには何もなかったかのように。
ルイは昔のことを思い出した。まだ幼い宮廷魔法使いだった時の自分は、成人用の安楽椅子がお気に入りだった。空いたところに小さな妖精が腰掛けて、暖炉の前で本を読んでいた。薄暗くて、柔らかで、優しくて、温かだった。あの静寂がどれだけ尊いものだったか。昔からそれだけを願っていたはずなのに。
自分には玉座など不似合いなのだ。似合わないことをした。だから。
世界が壊れていく。
端から崩れる地平線に、柔らかな夕日が沈む。
朱の光に照らされながら、大地が割れる。
二人の思い出の家では、その柱が倒れてベッドを潰した。
穏やかな湖畔の墓石は、ぴしりと音を立てて地面の罅に落ちた。
傷だらけの猫の少年は、ルイの寝室の椅子に丸まっていた。ベルベッドの背もたれに頬を擦り付け、満足げに「にゃん」と一声鳴いた。
そして床がぴしりと抜けた。猫の少年は椅子から放り出された。自分の落下にも気づかず、瞼を閉じた。
階段も防壁も壁もなくなった魔王城は、大げさな音を立てて地下から解けていく。
「でもね、エレノア。君と共にいることは、たしかに、幸せだったんですよ」
魔王はそこにいる。
城の最上部の玉座の間で、残された石畳の床に片膝を立てて座り、ただその時を待っていた。
――『こんな終わりで幸せなわけない』
彼女の声を心に反芻する。
最初から最後まで、決して強くはなれなかったひと。抱きしめればふわふわと柔らかで、弱いくせに、ルイを守りたいと願った女性だった。
ルイの足元には、青い砂と硝子片が散らばっていた。
役目を果たし、音を立てて割れてしまった、彼の想いの残骸だった。
それに手を伸ばして、指先で砂に触れる。
――『うそつき』
言葉自体は鋭いはずなのに、彼女の方が泣きそうな顔をしていた。なんだかおかしくなって、ふふ、と漏れ出るささやかな笑声は、もう誰に聞き届けられることもなかった。
「やっと、言ってくれましたね。……嘘つきと」
床が落ちた。どこに落ちるのだろうと考えたけれど、不思議と怖くはなかった。
その身を空中に任せた彼の手は、さらさらと光り散る砂を追って風を掻く。
「君は優しいから、一度くらい、そうして叱ってもらいたかった」
誰かを裏切り続けた人生の終着点。
魔王はふわりと微笑んで、赤い光の中に消えた。




