見せてやろうか
扉の重さに、蝶番が高く鳴いた。
ルイは真紅のカーペットを歩き、真っ直ぐ玉座へ向かう。
エレノアには似つかわしくない背の高い玉座に、彼女は縮こまって座っていた。両手は肘掛ではなく膝に置かれて、細い肩や背はできるだけ椅子に触れないようにしている。王にしか許されないその場所に座ることを遠慮しているらしい。
それよりも。
彼女の様子が気になった。
ルイを見ない。誰の目も見ない。ただカーペットをじっと見つめていた。
「エレノアさん? どうしたの?」
隣で話しかけるビスにも答えず、彼女はただ息をしている。
怒っている、というわけではなさそうだった。
「エレノア?」
ルイがエレノアの元にたどり着き、彼女の手を取った。
「……なんでもないよ」
「なんでもないわけがないでしょう。何か、怒っていますか?」
「怒ってないよ」
目を合わそうともしないで、よく言う。
ルイは珍しく困惑を顕にしてビスを見るけれど、ビスも困り顔で首を振った。
「疲れたんですね。もう休みましょう」
ルイがエレノアを抱き上げて、彼女の部屋に転移した。彼女はされるがままになっていて、ベッドに下ろされても身動き一つしない。
どうすればいいのかわからないのでとりあえず、といった雰囲気で髪を撫でるルイに、エレノアは口先だけで謝った。
「本当に、怒ってるとかじゃないんだよ」
「はい」
「ちょっとね、なんか……変なこと考えちゃって」
何も言わずにわかってもらおうなどと、都合の良いことは考えていないらしいところがエレノアの美点だ。
きっと彼女自身にも纏まらないことがあって、何も言えないだけなのだろう。
それなら問い詰めるだけ無駄なので、ルイは「そうですか」の一言で引き下がった。が、問題はエレノアの不調以外にもある。
「君の考えはわかりませんけれど、こちらからも言いたいことはありますよ」
「……うん」
「勇者はあちらの世界に帰しました。けれど他の仲間はこちらの世界の者ですし、僕の姿形、素性を知りすぎています。記憶に鍵をかけることはできても、完全に消すことはできませんから……」
「うん。ごめんね、手間をかけて」
「手間自体は大したものではありません。どうして今更、彼らを生かそうとしたのですか? 殺してしまえば後は楽なのに」
最初は、殺す予定だった。
けれどハスミたちの息の根を止める前に、脳内に「待って。殺さないで」とエレノアの声が聞こえてきた。ルイはそれに従ったけれど、納得はしていない。
――情でも移ったのだろうか。エレノアは優しいから、それも不思議ではない。
エレノアは何も言わず、サイドテーブルを見た。
ルイも同じところを見る。果実がそのまま置かれていた。艶があって真っ赤な林檎が一つだけ。
ハスミから貰ったものらしい。
エレノアに頼まれて果実をここに送ったのはルイだから、経緯はわかっている。食べたいのかと思い「剥きましょうか?」と提案するが、エレノアは黙って首を振った。
「やっぱりちょっと疲れちゃったみたい。寝てるね」
「はい、おやすみなさい」
旅は疲れるものだ。歩けば歩くほど環境が変わっていく。
常に人間に囲まれていた妖精は尚の事、疲労も溜まるだろう。
ルイはエレノアに「無理はしないように」と言い残して、彼女の望みの通りに、休ませることにした。
明日になれば明るく笑ってくれるだろうと疑ってもいなかった。
私室のベッドで、エレノアは身体を小さくした。人間サイズになるのも好きだけれど、妖精らしい大きさでいるのも悪くないと思う。
そのまま飛んでいき、サイドテーブルの林檎の上に着地した。
林檎の上部で、ヘタの部分を避けて寝る。頬にひんやりとした果皮が触れて心地良い。林檎そのものの甘い匂いがした。
背丈は林檎よりもエレノアの方が僅かに高いけれど、体重は林檎の方がずっしりと重い。体を少し丸めてみれば安定するので、エレノアは果実の香りに包まれながら転寝しようとしていた。
けれど寝呆けつつある脳裏には、先の穏やかではない言葉が染み付いている。
『私には、彼女以外の命が軽く見えて仕方がない』
あれや。
『あの件に関わった人間は全員殺しているのだが』
これや。
ルイの台詞も衝撃的だったけれど、ルイの行動もなかなかに――衝撃的だった。
彼が魔王に就任して以降、人を大勢殺していることは知っていた。けれどエレノアは、その現場を初めて目にしようとしていたのだ。
それに気が動転して、止めてしまった。
ハスミ達のことだって、自分たちのためなら殺しても仕方ないと初めは思っていた。本当に軽率だった。いざその時になったら一年半の日々が思い出されてしまったし、ルイが扉を一枚挟んだところで人を殺している事実を思うと、咄嗟に彼を止めていた。
流されるままに生きてきたエレノアは、ルイが思うほど優しくはない。
覚悟だの理解だの、そういった重要な部分の何もかもが抜けていただけだ。
ぽたり、と。
彼女の心に一滴、泥のような染みが広がった。
『彼女以外の命』。この言葉が、妙に突き刺さった。
*
彼女の様子がおかしい。
ルイがそれを気にしてから、すでに十日が経っていた。
塔内には朱色の光が落ちている。時刻は夕方だった。
下に濃い影を作りながらわざわざ長い階段を登ってきたルイは、扉を軽くノックした。
「僕です。起きていますか?」
うん、いいよ、入って。
くぐもった声が聞こえた。ルイは扉を開いてベッドに向かう。彼女が背を向けて寝転がっていて、サイドテーブルには昼に持って来た紅茶が半分残したまま置かれていた。
彼はベッドの端に座った。前に回り込むのは彼女が嫌がるだろうから、背中側で妥協した。
「最近、食事を摂っていませんね」
妖精に食事は必要ない。ルイと正式な契約を交わしてから、彼の魔力が常時体に巡っている。
空腹知らずなわけだけれど、ルイが心配しているのはエレノアの腹具合ではない。
「……ちょっと怠いの。少し休めば治るから」
「十日が、少しですか? 以前のように何も言わずにいて、ある日突然倒れられたら困りますよ」
エレノアは言葉に詰まってしまう。
約百年前の失態をまだ覚えていたのかと、彼の執念深さを恨めしく思った。けれど自分の過失であることは疑いようもなく、彼の小言を甘んじて受け入れる。
「とりあえずこれを」
どさり。やけに重々しい音がして、気になったエレノアはやっと振り向いた。
籠いっぱいの果物が置かれていた。林檎はもちろん、桃やオレンジ、バナナ、ぶどうなど、果物界の錚々たるメンバーが揃い踏みだ。
「そんなにいっぱい、どうしたの?」
「果物はお好きでしょう?」
たしかに好きだけど。
エレノアが果物の山を見つめていると、ルイは微笑ましそうに笑う。
「君が望むなら、いくらでも用意しますよ」
そうすることが当たり前のように。
そう言った自分に、何の間違いも感じずに。
エレノアはそんな彼に、「ありがとう」と下手な笑顔を返した。
心の染みが広がった気がした。
「エリー?」
どうしよう、とエレノアは思った。
このままではいけないと思った。
どうしてだか、彼の傍から――離れたいと思ってしまった。
「あのね、ちょっと外を飛んで来ていいかな」
「いいですけど、誰かに護衛を頼んでから……」
「いいの。危ないことはしないから」
「本当に大丈夫ですか?」
「うん。そんなに遅くはならないよ。空気吸ってくるだけ」
エレノアは「これもらっていくね」と手を伸ばして、籠から桃を一つ手に取った。
ぽん、と軽い音を立てて妖精の標準サイズになると、途端に重くなった桃を危なっかしく抱えて窓から飛び出した。
――驚いてしまっただけ。少し休めば慣れるよね。
そう考えて十日も悩んでしまうなんて、エレノア自身、異常なことだとわかっている。
大きな満月が昇る頃にエレノアが降り立ったのは、崩壊した廃都グレノールだ。瓦礫だけの町並みの中で目立つ、完璧な形で現存する一軒家。スティラス家だった。
ルミーナが育てていた花壇の薔薇は、茶色く項垂れたまま月光の下に干からびていた。
エレノアは少し目を伏せて、家の周囲をうろうろと飛び回った。開いている窓を発見して、その身体を桃ごと滑り込ませる。頬を冷たい夜気が撫でた。
ルイの寝室だった。
懐かしい景色だった。
けれど一人だった。
出迎える者は誰もいない。
月光に照らされた埃まみれのベッドが少し寂しそうだ。きっと毛布がないからだろう。
床を見ても、どこを見ても、埃だらけ。
「……うん」
エレノアは寝室を出た。
この廊下は、ルイに捕まって初めて出られて、嬉しかった場所。
この書斎は、ルイと初めて会話したところ。
あの部屋はルミーナちゃんの部屋。
あとは階段を下って――。
リビングだけは、どうしてだかナイフやフォークが床に突き刺さったりしていた。
管理者を失った家は、それだけで虚しい。
どの扉を開けたって「おかえりなさい」が聞こえない。
ここは時が止まっていた。眠ったように穏やかで、死んだように冷たかった。
一頻り家を探索すると、エレノアは寝室に戻る。
ベッド横のテーブルに置かれていた銀の籠に向かった。
その中に敷かれているクッションは、幼い頃のルイがエレノアに用意してくれたものだ。今はやはり薄汚く、埃を被っている。
「『除去』」
クッションを、ひとまず掃除した。
それから籠に入る。桃は少しつっかえたけれど、力づくで押してやればなんとかなった。
綺麗になったクッションの上に立つと、エレノアは意味もなく周囲を見回した。完全に一人でいることを確認すると、女性らしさなど気にせずに、持ってきた桃をかじかじと噛じり食べてしまう。
「……んん」
身の丈ほどの果実で腹を満たせば、睡魔がふらりとやってくる。
エレノアはぽふぽふ、と手のひらで叩いてクッションの具合を確かめると、顔から突っ込んだ。
寝転がると、とても安心した。この家の匂いが染み付いているそれは、昔と変わっていなかった。
籠の下一面に詰められた居心地のよい大布団は、エレノアの宝物の一つだ。
妖精の『巣』は、この小さな家から始まったのだ。
そうっと、窓から入り込んだ風が、床に落ちている本のページを揺らした。はらり、静かな音がする。
妖精の天敵である銀で拵えられた鳥籠はとても小さな世界で、けれどルイの手にある限りは安全だった。隣のベッドで本を読みながら寝入る彼と、穏やかに眠ることが日常だった。幸せだった。
けれどそれも、もう過去のこと。
食べて、寝る。この幸福感に甘んじて全てを忘れてしまえればいいのにと、エレノアは思った。
声が聞こえたのは、そんな時である。
「見せてやろうか」
どこかで聞いた声だった。けれど知らない声だった。
透明で、鈴を転がすよりは少し低めの、女性の声だった。
誰かが侵入してきた音も気配もない。妖精の五感をもってしても感じとれないほどだから、ここに誰かがいるはずがない。
エレノアは警戒心も顕に身を起こすと、扉の方を見る。声は廊下の方から聞こえた。
「……え?」
――閉じた覚えのない扉が閉まっていた。
「……誰……?」
寒気がした。聞こえてはいけない声を聞いてしまった気がした。
すぐにそこを出ようとして、籠の入口の方を振り向く。と、その方向には、
『ぃ、あ……っ!』
『エリー……』
エレノアとルイがいた。
ベッドのシーツを握り、汗を流して呻くエレノアと、そんな彼女を慰めているルイ。どちらも半透明で、輪郭が朧げだ。
月光に照らされながら、影はなかった。
『大丈夫、大丈夫ですよ。ゆっくりでいいんです。深く呼吸してください』
『う、くっ……!』
なに、これ。
鳥籠にいるエレノアは、その様子を唖然と見ていた。
『すぐによくなりますから。ね、そんなに握っては、手に傷がついてしまいます』
十九歳のルイがベッドの横に膝をついて、いくら優しく声をかけても、ベッドのエレノアはただただ呻く。彼の声など聞こえていない。
髪を振り乱して、激しい苦痛をどうにかしようと躍起になっているばかりだ。
エレノアは誰に説明されるでもなく、目の前の惨状を理解した。
これは過去だ。
エレノアが知っていて、けれど記憶する余裕すらなかった苦痛の日々だ。
血羽を生やすにも相当の苦痛を伴ったけれど、この身体はいつからか、何時どの場面であろうとも激しい痛みを訴え始めた。そんな時期のエレノアは自分でも痛々しい。自分自身でそう思うのだから、傍にいるルイはどんな想いでいたのだろうか。
半透明のルイは、ベッドのエレノアに魔法をかけた。
『おやすみなさい』
その言葉で、睡眠の魔法なのだとわかった。
籠にいるエレノアは、ベッドの自分がことりと眠りに落ちたことを確認した。我ながら気絶したようだと思った。
どうしてこんなものを見せるの。
「見せてやろうか」という声の主は、まだ気が済まないらしい。エレノアの過去の幻覚は消えずに続く。
エレノアは籠から出て、立ち上がったルイの背を追った。追わなければいけない気がした。
『……はあ……』
ルイは寝室から出ると、閉じた扉に背を預けて、ずるずると崩折れる。
額に手を当てて唇を噛み締めていた。頭痛をやり過ごしている。そうしていればいつか波は過ぎ去ると、知っているのだろう。
その姿を見下ろすエレノアには、彼がとても小さく見えた。あの当時、ベッド上のエレノアには大きく見えていたであろう彼が、こんなにも脆い。
脆いはずだ。
だって彼はこの時、少年だ。
今すぐに彼の元に行きたかった。衝動のままに今すぐ抱きしめて、優しく母親のように保護者面して「私は大丈夫だよ」だなんて、
――どの口が言えるの?
エレノアの中で、自分の声で、誰かが冷たく囁いた。お前のせいだと。
ルイがふらりと立ち上がって、階段を下りていく。
エレノアは彼を追いかけた。
けれどそこに彼の背はなくて、代わりに一つの扉から暖かな光が漏れていた。
食器の音がする。スプーンが皿の底を擦る音や、カップを静かに置いた音。光がある扉からだ。
エレノアは誘われるように、その扉を開けた。
懐かしい陽光が柔らかく照らす、三人のリビングだ。
『はいこれ』
『これどうしたの?』
お茶を飲んでいたエレノアに、ルミーナが何かを差し出した。
可愛らしい紙袋と洒落た麻紐で飾られた小袋だ。見た覚えがある。その中には幾つかの胡桃クッキーがあるのだ。『今の』エレノアは知っている。この後で、自分がどれだけ喜ぶかも。このプレゼントを私室に持って帰って、どうにか腐らせずに保存できやしないかと馬鹿なことを考えるであろうことも。
眼前で笑う、百年も前の自分は、ただ『なあに?』と不思議そうにするばかりだけれど。
『お兄ちゃんと作ったんですよぅ。二人がくっついた記念です』
『くっついたって……え』
そこでくすくすと柔らかに笑う声がして、エレノアは顔を真っ赤にしながら、斜め向かいに座るルイを睨む。
『なんで笑うの』
『いえ、やはり可愛いなあと思いまして。……まあそれはそれとして、受け取ってやってくださいね。何度焦がしたかわからないし、犠牲になった材料が浮かばれませんので』
『エレノアのお菓子より美味しくないかもしれないですけど、でもこういうのは気持ちが大事なんですからね。どんなに不味くても、受け取ってくれなきゃ嫌ですよー』
ルミーナはエレノアの手にそれを握らせて、『返品は不可です!』などと茶化して言うのだ。
エレノアは突然のプレゼントに硬直していた。ルイから生活用品をもらうことはあっても、ルミーナから改まった形で贈り物をされることがなかった。
それにしても、くっついた記念とはまた不思議なお祝いだ。
渡された小袋を見つめるエレノアに、ルミーナは『あ、あのですね!』とさらに改まって、というより緊張した様子で言葉を続けた。
『考えてみたら、エレノアにきちんと挨拶してなかったんです。スティラス家にようこそって、言ってなかったんです。こういうのって、本当は区切りが付いた時の方が良いのでしょうけど……、待ちきれなかったものですから、お先にお祝いしておこうと思ったんです』
その様子を見ていた『今』のエレノアは、「やめて」と、唇を動かした。
そう、エレノアは知っているのだ。
初めてお祝いを渡された数ヵ月後に、この愛しい妹分を亡くすことも。
「……やめて……」
これ以上、思い出を見せないで。
幸せが重くて、切なくて、明るすぎて、目が潰れそうで、堪らない。
『おねえちゃんって呼ぶのは、エレノアが正式に家に入る時まで、ちゃんと待ちます』
『……いいの? 私が、その……ルミーナちゃんのお姉さんになっても、大丈夫?』
『エレノアじゃなきゃ嫌ですー!』
ルミーナが抱きつく。それを見守るのがルイだ。
「……やめてよ……」
嘗てのエレノアは、この兄妹に挟まれて息をしていた。
「やめてッ!」
幸せを拒絶して、小さなエレノアは耳を塞ぐ。
わかっている。この光景は全て、誰かが見せた幻だ。
終わってしまった時間を、届かない場所から見ているだけだ。
――時間はいつだってそうだ。そこに留まりたくたって、這い蹲ったって、こんなちっぽけな存在を途方もない力で引っ張って、進むことだけを強いるから――。
顔を上げれば、そこにはもう何もいない。何もない。柔らかな陽光は冷たい月光に戻り、あるのは埃だらけのテーブルと、床に散乱した椅子。フォークとナイフ。どれもがすべて、温度をなくしてそこに佇む。
この落差を、何としよう。
首からさげた砂時計を握れば、すぐにでもリセットボタンが見えてしまった。
『時計を回し、ルート確定前の選択肢に戻りますか?』
ルイに捕まえられる前に戻るかと聞いているのだろう。
「違う、のに」
後悔なんてしていないのに。
わかってしまった。今日、部屋へ果物を持ってきてくれた彼にあった違和感。
――君が望むならいくらでも?
こんなこと、昔は言わなかった。ソファ一つ置く場所を作ることすら面倒だったこの家で、優しい彼はただただ、妹と家政婦を養うために仕事をしていた。人助けだってしていた。そんな彼を尊敬していたのがルミーナで、そんな二人を、家事をしながら待つエレノア。それはそれは居心地が良く、ささやかで、まあるい生活だったのに。




