話にならない
エレノアが玉座の間に下がったことを確認して、ルイはその瞳をがらりと変えた。
「アルスの思いやりを無にするのは甚だ遺憾だが、これも仕方のないことだ」
禍々しい魔力を放出する。
「アルス? 誰だよ」
「昔の副官だ。グレノールでの手紙を読んだだろう? 王都の危機を悟り、せめて罪のない王子だけでもと、クレアとギルレムに託して王都から追い出したようだ。……グレノールを潰した夜、アルスの姿を見かけないと思ったら、なるほど」
「…………っ」
「王族を守るのが宮廷魔術師の義務、とはいえ、辛いものだ」
「てめえ……っ!」
手始めに。
ルイは右手を前に出した。左から右へ、空に線を描くように指を滑らせる。そうしながら三つの玉を生み出した。赤と、青と、黄色の玉は、それぞれ握り拳ほどの大きさだった。
それらは、ルイの目線一つで飛び出していく。
きゅん、
と高い音がして、それは勇者一向に突っ込んで、爆発する。
炎と、冷気と、電気。それぞれの属性が、渦を巻くほど高密度に閉じ込められてできた球だ。
ハスミはすぐさま床に転がり、落としたままだった双剣を捕らえながら炎を躱した。
電気は治癒師のロッドに直撃して麻痺を誘い、武闘家の左肩を氷に閉じ込める。けれど慌てず騒がず、エミリエルの治癒と回復が充てられる。
「どうしてこんなことするのよ!?」
「それを聞いても何にもならない」
ルイは少しの負い目すら感じていない。この青年のどこを見て『仲間』だと思っていたのか、今なら不思議にすら思えてしまう。
――本当は、解っている。
この場の皆が、解っている。エレノアも敵に回った今、魔王に敵うはずがないと。
落ち着け落ち着けと、ハスミは唱える。彼がにこりと一度嘲笑する間にも、彼の美貌をしっかり目に焼き付ける勢いで観察し、警戒し、体中の信号回路を意識して。
冷静沈着。平常心。相手は裏切り者。相手は敵。
必要な感情だけで埋め尽くそうと、ハスミは負の情を心に呟いた。
戦場に愛は必要ない。
風が吹けば崩れてしまいそうな、弱い心こそを――圧殺しろ。
「貴方を倒せば、エレノアと話ができるのね」
「彼女が望めば」
「……そう、それなら……」
でも。
それでも逃げ出したいと泣き叫ぶ少女の心を、ハスミは否定できなかった。
臆病だと嗤うものは嗤えばいい。
敵わない相手に向かっていく勇気は、無謀と同じ。
向かって走ることこそが、臆病よりもずっとずっと醜い愚行。
「いくわよ……!」
それでもハスミは地を蹴った。
*
剣を振る時に何を考えるのか。
最も大事なことは、成功の瞬間を想像しておくことだ。
けれどハスミはルイを前にして、彼を倒す未来など微塵も見えなかった。
その結果は見るも無残、語るも無残な大敗退。
勇者の仲間たちはぼろぼろだった。全員が一度は石の壁へ身を強かに打ち、痣がないところなどない。
全身が痛くて、どこかの骨にひびがあるかもしれない。それでも走ることはできるから、きっと脚の骨は折れていないのだろう。
対して魔王は黒衣の飾緒が切れることもなかったし、髪が切れて舞うこともなかった。頬を傷付けることなんて、夢のお話だと思った。
彼は数歩下がるだけで剣を避ける。騎士の剣の軌道は見切られ、複雑に何回もの斬撃を繰り返すハスミの双剣は、残像を斬っていただけのような気がする。運動に飽きた魔王は、もう結界で自らを覆うことだけしかしなくなった。
こんな有様だ。
魔王のHPが減っているのかもわからない。敵と認識して初めて見られるステータス枠には、『HP:????』と表示されていた。
敵になってからわかる。
魔王は強い。
この世の災害をすべて閉じ込めたと言っても納得できた。
埃一つすらつけられない、絶対的な黒。
「っ……く」
手足を心地よく動かせない。思うとおりに動かせない。苛立ちは焦りを生む。
ハスミは一度大きく足を引き、渾身の力で、ルイに突っ込んだ。
――この攻撃は大丈夫? ちゃんと当たってくれるの? 防がれてしまうの? ……いや、弱気にならないで、気迫で負けちゃ駄目、負けるな、迷うな、迷うな、迷っちゃ駄目……――!
ハスミはもう、己の涙すら隠さなかった。身はがたがたで、心はぐちゃぐちゃのぼろぼろで、それでも敵に走ることしかできなかった。
目先のルイは右手をそっと差し出して、甘く微笑む。
「おいで」
優しく唆した。
これは、酷かった。
「っあ……、」
彼に恋をしていた弱い少女にとっては、甘く苦く残酷な、毒でしかなかった。
「ああああああぁあああぁあああああああああああああああああああああっ!」
――騙されないで、騙されないで私。こんなことで攻撃の手を止めて、たまるか!
憎め。憎め。憎め。憎め。
憎悪は気力に変わってくれる。
実力が足らないなら、それに勝るほど濃厚な感情をぶつけてしまえ。
ハスミは悲鳴とも慟哭ともわからない声を叫びながら刃を構え、ルイに飛びかかった。
彼の優しい微笑みが一変して冷たいものに変わり、差し出されていた右手はハスミを指し示す。
ルイの周囲に、冷たい粒子が発生した。
くきゅ、ぴきゅん、ぴキゅん。おぞましい音がした。
彼の背後にさらさらと漂う氷粒が何カ所かで集い、それぞれがぐぎゅっと圧縮されて悲鳴を上げた。そうして不純物がなくなり、透明になり、きりきりと螺旋を描き、美しく捻れた氷の刃へと姿を変える。
「行きなさい」
彼は出来上がった二百六十八本もの悪趣味なオブジェクトたちに指先で合図を送り――ハスミを貫けを命じた。
ハスミは臆さない。
敵の攻撃の軌道が読めるスキルがある。
飛んでくる攻撃のすべての軌道を読み、避けて突破できる。
さすがに無傷とはいかないまでも、無理のない道を――見つけた。
――前方右部、すぐに後退してまた右、そして三歩分は左に行って……あとは真っ直ぐ!
そう定めたハスミは、向かってくる氷の刃を避けた。脇腹を掠めた。
疾走し、右の剣がルイに届く前に、硬い壁に当たる。
ぎりぎりと力を込めて切りかかった刃の、数センチ先で、ルイは楽しそうだった。
「っ……く」
刃こぼれなど意識できない。
間を置かずに、左の剣で同じ位置を抉るように穿つ。そうして少しずつ結界を壊していこうという心積もりだった。この圧倒的な戦力差で、耐久戦に持ち込めれば万々歳だ。ルイの四肢のどれか一つでも落とせたら、一番良いのだけれど。
ぼう、と、
ハスミの足元に魔法陣が現れた。
ハスミは舌打ちした。聖鉄で鎧った爪先でルイの結界を強く蹴りつけ、その勢いに乗って後退する。
一瞬の後、先ほどまでいた位置には炎の渦が巻き起こった。
ハスミの戦闘スタイルとして、深追いはしないことと自戒している。双剣は盾を持てない上に、大技だと外した後の隙が大きい。
ルイの頭上に、雷をまとったファラスの拳が迫る。
「よっ……とぉ!」
身軽な動きはビスに似ていた。
腰を大きく捻った体勢から拳を振り、ルイの頭蓋をも押し潰す勢いだった。けれど拳が当たる直前で、やはり見えない壁に遮られ、拳との間に火花がちりちりと散り消えていく。
ファラスは噛み締めていた唇を、びち、と噛み切った。
バカみたいに固い結界に押し負け、弾き飛ばされる。石壁に身を打ち付ける直前で体勢を整えると、両足を壁に着けて衝撃を殺し、とんと着地した。
「っ……はあ……」
己の拳のみで戦うファラスは、他の者より酷く血に汚れていた。己の血だった。
酸素を深く吸い込んで、二酸化炭素を吐き出す。
普段のおちゃらけた雰囲気からは想像もできない荒々しい目付きをしながら、口内の血を吐き出した。唇を袖で拭う。そうしてから、ルイに言わせれば『お行儀の良くない言葉』を投げつけた。
「クソが……ッ!」
心からの一言だった。
その気持ちを汲んで、敢えてルイは何も言わなかった。
詠唱は一切ない。
性格が悪すぎる魔王、ルイ・スティラスの魔術の真髄は、未だ見えない。
*
「貴方は、ハスミの気持ちを知っていたのか」
エミリエルが問う。彼は魔力を使い果たしていた。
「知っていたが、何か不都合があったのか?」
戦闘開始から十歩も動いていない位置で相変わらず立ったまま、ルイが答えた。
彼はエミリエルとファラスがハスミに向ける想いも知っていた。
「最低だな、貴方は……っ!」
「魔王だからな」
ルイとてハスミの心を積極的に弄んでいたつもりはないけれど、もし自分の想い人が他所の男に傾いた挙句に騙されていたとしたら、たしかに冷静ではいられないかもしれない。
「それにしても君たちは弱すぎる。話にならない」
言いながらルイが周囲を見渡すと、勇者一行は惨憺たる有様だった。
聖鉄の鎧は見る影もなく砕かれて、治癒師が着ていた『妖精の髪と白金のローブ』――最高の防御力を誇る装備も血に汚れていた。ルイに言わせれば「申し訳程度」にあった彼らの魔力が底をついている。
「まだ……っ」
「……意志は強い。だが体がついていかない、と」
立とうとするハスミに、ルイは呆れて息を吐いた。
「想いだけではどうすることもできないものがあることを、知った方がいい」
ルイは闇を煮詰めて固めたような瞳をしていた。
そこにどんな感情が込もっていたとて、誰にも慮ることのできない真っ暗闇の双眸。
――ぞくり。
その異様は、エミリエルの背に氷を落とした。
「君は私の手記を見ただろう」
ルイはハスミへ静かに問いかける。
勇者はどこか遠く聞いていた。
視界が赤くて、それどころではなかった。
炎でぬらりと照らされる石床に、点々と斑を描いていく己の血を見ていた。
立っていれば手狭にも感じた室内が、立てない今は途方もなく広い。
――手記。なんだっけ、……日記? なんだろう、ああ、あの……廃墟で見たやつよね。
荒い呼吸が自分のものではないようだと思った。酷く冷静な思考回路が、ルイの声に応えて働く。
「あの日記の『彼女』は、……もう分かるか」
――かのじょ。
ハスミは唇だけ動かした。
一度しか目を通せなかったその文章を、今でも思い出せる。内容の全てはさすがに覚えていないけれど、一貫して人物の『名前』が出てこなかったことを記憶している。
ハスミの体は限界で、床にべしゃりと崩れた。視界は、ものの輪郭すらあやふやになった。
くすくすと、魔王が笑う。
「体を押さえ付けられ、羽をもがれ、髪を切り取られ、甚振られ、妹分は殺されて、そして人間を憎んだのがエレノア・スティラス――私の育て親にして妻である妖精だ」
「っ……!」
「私には、彼女以外の命が軽く見えて仕方がない。その原因を作ったのは人間の方だ。……とはいえ、あの件に関わった人間は全員殺しているのだが」
――がきん。
ルイの背に剣が振り下ろされた。
ゆるりと振り返れば、そこには血塗れのアーロイスがいた。彼は端正な顔を歪めて吠える、
「おまえが、母さんと親父を……殺したのか……ッ!」
ルイは目を細めた。復讐に燃える騎士の瞳の奥に、また別の感情がある。
ちりちりと飛ぶ火花を挟んで、それを読み取った。
親を殺された憎悪、悲しみ、裏切りへの怒り、それに微かな嫉妬。
「ほら、自分の復讐のことしか頭にない。そんな君を、とても気に入っていたんですよ!」
ルイは笑う。
瞳孔が開き、口角を上げて、獰猛に。エレノアも見たことがないような顔で。
「今の君がやっていることは僕とほとんど同じですよ。どういう気分ですか? 感情を持て余しすぎると、頭がとても痛くなるでしょう」
アーロイスは答えない。
親の仇でいて恋敵の魔王を睨みつけて、弾き飛ばされて、血反吐を吐いた。
また立ち上がる。
「君の育ての親は、復讐を意味のないものと断言してくれましたけど」
「…………。」
「でもこういうのって、理屈じゃないですよね」
アーロイスがすうっと息を吸い込んで、
「うっせえ!!!! 死ね!!!!!!!!」
ぱちくり、と前を瞬かせるルイ。
威勢のよろしいアーロイスは、再び剣を構えた。
ハスミとファラスとエミリエルも、再び立ち上がる。獲物を構えて集中し、そして――。
そして呆気なく負けた。
「ここまでだな」
彼の足元から円が現れる。
何百もの直線と、何千もの繊細な曲線が織り成す、左右非対称な魔法の陣形。禍々しくも上品な、完成品の極致。
部屋の床一面に。どこにも逃げ場がないように。
月を連想させる蒼光が表した、勇者たちの絶望だ。どんな魔法かはわからない。足元に線として走る、薄ら寒いほど無疵の美は、純正な『死』を連想させた。
「では、さようなら」
自分だけが守られる結界の中で、魔王はひらりと手を振った。
彼の足元からは新たな光が伸ばされる。黒い光が先に敷かれていた線を辿り、蒼を押し潰していった。
それらが外円に及ぶ前に、
「……おや」
ルイが一声上げて、その黒は唐突に止まった。
そして彼は無防備に扉を見る。玉座の間へと続く方をじっと眺めていたかと思うと、「……君が言うなら」と呟いた。しんとした室内では、愛おしい者に囁く声色がよく響いた。
そして一度手を振り、魔法陣を綺麗さっぱり消してしまう。
魔法陣に流し込んでいた魔力は、まだ途中だったとはいえ、終盤にまで広がっていた。あれだけ巨大な魔法にかかっていた魔力は想像も及ばない量だっただろうに、それを呼吸するかのごとくに操作し、無いものとしてしまった技量は――。
エミリエルは、それ以上の思考を放棄した。
どうしたって、どのような生き方をしたところで、あのような化物を理解できない。
「彼女が君達に情けをかけた」
情け。
ハスミは地に伏したまま、反応できなかった。
ルイが魔法を発動してもしなくても、このままでいれば死は免れないだろう。
ルイは少し考えて、また扉を見て、また考えて、やがてハスミに小瓶を投げつけた。風の魔法はそれを運ぶ。ハスミの頭上で瓶が砕けて、中身が彼女に降り注いだ。
ポーションだ。
傷が治っても起き上がる気力のないハスミは、横たわったままルイを見た。その瞳には当初の光などなく、無残に裏切られて粉々の心を引きずる少女がいた。
「……エレノアは、私のこと、ずっと嫌いだったの?」
「彼女の心は知らないが、彼女が私に意見してまで生かそうとした勇者は君が初めてだ」
ルイは簡潔に答えると、一人一人の下に転移魔法陣を敷いた。ハスミの下にあるものだけは、他の三人よりも複雑で大きかった。




