にゃんっ
魔王城に侵入してからの行動は速かった。
魔物の数は、敵の本陣としては少ない。その代わり一度でもかかれば致死レベルの罠が多くあり、曲がり角一つ、床の石一つにも気が抜けない。
どうやら当代の魔王は非常に陰湿であるようだという印象を、勇者一行は共有していた。
ようやく遭遇できたメイド姿の魔族は、勇者を一目見ただけで背を向けた。魔王の指示らしい。
このことから、魔王は陰湿だという印象に賢明であるというメモを心の中で付け加えた。
そして、今だ。
パーティーが強制的に分けられ、魔法陣で別所に追いやられ、今度は合流させられた。何がしたいんだと思う。
気が付けば、窓の一つもない湿った部屋にいた。
再会を喜ぶ暇もなく、ハスミたちは戦闘態勢を整える。
「……魔術野郎は? そっちに行ったと思ったけど」
「さっきまで一緒だったわ。もしかしたら別の所に飛ばされたのかも」
ルイだけが別所に飛ばされたのだろう。ハスミ、ファラスと共に魔法陣に入ったはずの彼がいない。この城内では何があっても不思議ではないから、ハスミは彼を心配こそすれど、疑いなど微塵もなかった。
一行は、この部屋が他とは別格であることを見抜いていた。
ハスミが最も得意とする双剣を、アーロイスが剣を、エミリエルが本とロッドを、ファラスはグローブを、それぞれ構えて、張り詰めた緊張感の中で部屋中を探り見る。
部屋奥の、人の丈の倍もある大きな両開きの扉を警戒した。
後衛の妖精はそこに飛んでいるだけで、構えていない。
――きい。
耳に痛い音がした。
皆が一斉に扉を注視すると、十センチほどの隙間が開いていた。
――ひょこ。
奥からは猫目が覗く。さらに扉は開かれて、猫目の主は右半身を勇者一行に晒した。
扉の向こうは、蝋燭の灯りに頼ったこの部屋とは違って陽の光が溢れているようだ。光の下からこちらを覗く彼は、勇者一行を右から左、後衛、前衛、と眺めた。
ある人物に目を止めた時、猫耳がぴくんと動く。
ぱああ、と破顔しながらとてとてと歩み出てきて、
「にゃんっ」
鳴いた。
眠れない子供が母親を尋ねる時のような、変に奥ゆかしい仕草だった。
彼のことを、一行は知っている。嘗て勇者ハスミを襲い殺そうとした魔族だ。見かけによらずえげつない実力者であることを、身をもって知っている。
「貴方が魔王なの」
「にゃん。先代だけどねえ。今はお留守番中だったんだ」
ということは、この少年よりも上がいるのか。
この事実に「うえー」と顔を歪めたのはファラスだけで、他は眉を顰めただけだった。
ひょん、と少年の尻尾が揺れた。
「エレノア、あの子の弱点わかる?」
相手に後退の意思が見られないのを残念に思いながら、ハスミはエレノアに聞いた。
効率良く弱点を狙い撃つのが常識だ。お助け妖精のエレノアは、これまでも魔物の情報を皆にもたらしてくれた。
けれどこんな大事な時に返答がなかった。
沈黙。ただそれだけだった。
ハスミの右隣にいたアーロイスがそっと振り向いてエレノアを窺い見ると、表情の一切をなくした能面のような妖精がいた。怪訝になりながら「おい」と声をかけるけれど、妖精は動かない。ふよふよと浮かびながらアーロイスへちらりと視線を向けたものの、何も言わずに再び前に向いた。
様子のおかしい妖精のことも気になるけれど、賢明なハスミは思考を切り替えた。
先手を撃って出られないのは少々痛いけれど、それも初めてではない。
何回かやりあって、徐々に見極めていけばいい。
いつ戦闘が始まってもおかしくはなかった。
不意打ちされたことだって何十回とある。
いつ何があっても対応できるようにと、足で床を踏みしめていた。けれど――、
「おや、良い空気ですね」
仲間があちらの扉から出てきた時には、どう反応するのが正しいのだろうか。
革靴を踏み鳴らして、魔王がいると思わしき部屋から出てきた彼は、魔術師のルイだった。
ここまで苦楽を共にしてきた彼だ。
転移魔法陣に吸い込まれる前に見たのは、魔術師のローブ。けれど今はやけに堅苦しい印象の黒服を纏って、敵側に立っていた。
「ルイ? 何、してるのよ」
ハスミは認めたくない現実に喘ぎながらそう尋ねる間にも、魔術師は猫の少年の隣に並んだ。そして少年の頭を撫でる。猫の少年――ビスは気持ちよさそうに「にゃん」と鳴いて、されるがままだった。
「何、……なんで」
勇者は彼に恋をしていた。
諦めたのだと己に言い聞かせて、けれどまだあの微笑みに胸を痛ませるばかりの、儚くていじらしい恋だった。その心は今も忘れられはしないのに、彼はまたハスミにそっと笑って優しく心を射抜くのだ。
ハスミの双剣が揺れる。手が震えているのだ。すぐに動けるように意識していた両脚は、制御が効かなくなった。地に足がついている感覚がなくなった。
ビスはそんな彼女を見つめながら、無邪気に尻尾を揺らした。
「だから言ったにゃん。お留守番中『だった』って」
ルイが魔族の傍にいることが当然みたいに。
そしてそんなハスミに追い打ちをかけるのが、ルイの一言だった。
「エレノア、こちらへ」
「うん」
ハスミの横を白いものが通って、思わず手を伸ばした。――届かなかった。
それが仲間の妖精だと気付いた時には、妖精はルイの手に乗っていた。
「おかえりなさい」
ルイは、妖精に囁いた。
唖然とする勇者一行をよそに、ルイは妖精に魔法をかける。床に展開された魔法陣に妖精が飛び込んで、一瞬の後に、また現れた。
人間の大きさで、服は黒いワンピースになっていた。ルイの隣に並ぶことを想定して誂えたような揃いの服。
「うん、ただいま」
ルイに返答した妖精へ、ビスが勢いよく抱きついた。
スカートを握ってにゃんにゃんごろごろと上機嫌に甘えて、妖精もビスを拒まない。よしよしと猫可愛がりして、猫耳やらを撫で付ける。
魔族側の三人は、仲の良い親子のようだ。
「エレノア……?」
「うん?」
「なんで、そっちにいるの? それにルイも、なんで……?」
「……本当にわからないの?」
エレノアは、ハスミを冷たく見据える。
「ここまできて理解できない筈はないよね?」
信じられないほど他人のような、白い目で問う。
現実を認めない勇者を非難している。
ルイがくすりと笑って、ネタばらしを始める。
「魔王は私だ」
口調すら違った。
「……魔王が、私たちと一緒に、魔物を殺していたっていうの?」
「いかにも」
「どうして?」
「放しても君には理解の及ばない話だ。ただ自分の将来のためと言っておこう」
将来のため。前向きな言葉だ。
「それに、私はこれでも人間だ。魔王と認めない者も少なくはなかった。放置しておくのも鬱陶しいと思っていたところだ。そういった者は私の顔すら知らない者がほとんどで、魔術師を魔王と結びつけられる者もいない」
「な、……え……?」
「君の旅は、私に従わない者を狩るのに丁度良かった」
理解が追いつかない。
不気味に語られる思考が、雑草を刈り取ったと言わんばかりの態度が、わからない。
そんな勇者の蒼白な顔色を嘲笑って、ルイはエレノアの肩を抱く。
「エレノアのことは……、言うまでもないな」
そして彼女のおとがいを支え、一つ口付けを落とした。
「おお」と呑気に驚いたのは、二人の間にいるビスだけだった。
エレノアは顔を真っ赤にして俯く。
「……もう、人前で、だめって言ったのに」
蜜月さながらの二人を唖然と見守っていた――見守ることしかできなかったハスミは、「えれ、のあ」と口を動かした。乾いてかさかさで、声とも言えないような声は、周囲の仲間だけに聞こえていた。
ハスミは目を大きく見開いたまま、二人を見ていた。
呼吸さえできなかった。
ルイが魔王だった。騙されていた。好きだったのに。
エレノアが魔王側だった。騙されていた。信じていたのに。
この世界に悪が息づいていることはわかっていた。
日本とは少し違った社会形態の、その裏のどろどろした部分だって垣間見てみた。けれどこんな最悪の裏切りが、巨大な陰謀が、鮮烈な痛みを齎す悪意が、すぐ傍に存在していたことに――ハスミは目眩を覚える。
『私は君のお手伝いをする役目だよ。妖精の、エレノアって言うんだ。よろしくね』
どうして気付かなかったのだろう。
『勇者さま。この世界――『パンデュール』へようこそ!』
だって彼女は、あの時たしかに、――嗤っていたのに。
「ひとの頭上でいちゃつかないでよねぇ。お仕事いっぱいあるんだから、にゃん」
「今日の晩くらいはゆっくりしたい。久しぶりに彼女といられるのだから」
「だからそういうこと言わないの。一週間前だって、宿で一緒にいたのに」
「人目を忍ぶというのもなかなか辛いものが……」
魔王側は絵に描いたようなほのぼの家族だ。
なんて白々しいのだろう。どうしてこんなにも暖かな光景が、こんなにも辛いのだろう。
ハスミは一歩、また一歩と、覚束無いながらも足を後退させていく。左隣のファラスがハスミを支えた。
勇者一行は、ルイの魔法とエレノアの能力に助けられてきた。
個々の能力は高い。だからこそ、二人も抜ければ形勢は変わる。簡単に逆転されてしまう。
六人だから魔王と渡り合えるだろうと万全のつもりで臨んだ決戦は、足元から崩れた。最初から落とし穴の上にいたのだと気づかされてしまった。
そして精神的な苦痛は致命的だ。
勇者の体調、士気、すべてにおいて最悪の一言に尽きる。
ここはひとまず撤退した方が良いと判断したエミリエルが、先ほど転移してきた魔法陣を確認した。そして今からなんとか体勢を立て直して――と、発言しようと口を開いた時。
ルイに、三日月型の閃光が放たれた。
それは騎士、アーロイスの剣から。
純白の光は神聖だった。魔を討つ剣を具現化したような。
斬撃をそのまま形にした巨大な刃が暗闇の室内を照らし、音すらも置き去りにしながら、魔王の元へ飛んでいく。床の石を砕き斬り、黒衣の一家へと。
それは騎士の得意技だった。常ならばいちいち技名を叫びながら真摯に扱われていたそれは、今はどうだろうか。
完全な不意撃ちだ。
エミリエルが「アーロイス!」と咎めて叫び、ハスミとファラスが立ち竦む中、その光は妖精一匹の手で拒絶された。
「……何するの、アーロイス」
ひたりと、手のひらが向けられていた。そこに巨大な、見えない壁があった。
魔王側三人と勇者側四人組の間に、透明で完全な一線が引かれている。小さな欠片や煙すらも通さない、綺麗な境界だった。
神聖で卑怯な一閃は、完全に消え去る。
騎士は無言だった。親の仇を見る目でルイを睨み、剣を再び構えようとしている。
「……アーロイス……?」
ハスミの声にも耳を貸さずに、彼はただルイだけを見ていた。
どうしてこんなことになってしまったのと、ハスミは剣を取り落とした。
どうして。
こんなはずじゃなかった。
私の仲間が、どんどんおかしくなっていく。
けれど時間は停止を許さない。誰かがどんなに現実から目を逸らしたくとも、これ以上の変化が怖いと嘆いても、時間は全ての者に平等だった。
ルイがアーロイスを嘲笑い、
「退く気はないか……と聞いても、無駄だろうな」
「私が戦おうか?」
「いや、私がやる。君は奥で待っていてくれたらいい」
「なんで? 魔王が先に出るなんておかしくない? 私だって戦えるのに」
「そういう気分だからだ」
ルイはビスにエレノアの世話を命じると、彼女の背を押して扉に向かわせる。
エレノアはちらちらとルイを気にしながら、ビスに手を引かれていった。
「最後に言っとくとね」
扉に手をかけて、エレノアがハスミを振り返る。
「ルイのレベル、本当は六十三なんてものじゃないよ」
そんなことより貴女の嘘でない言葉を知りたかったと、ハスミは思った。




