閑話 宮廷魔術師の手記
・一月九日
彼女に時計を渡した。
また関係が変わるけれど、この家で過ごす日々自体に変わりはない。
・一月十一日
王にあの薬を渡した。
これで良かったのだと思う。
予定通りにいけば、あと数日で自由になれる。彼女のために使う時間が増える。
・一月十二日
二階へ上がると、彼女が廊下にいた。本を取りに書斎へ行きたかったらしい。
匍匐前進はどうかと思う。体力を消耗するから無理はしてほしくない。
しかし歩けない彼女はやはり暇だろう。
彼女の手が届く範囲に、本を数冊は用意しておこう。
・一月三十日
彼女の傍で寝ていると、彼女が日々痩せていくのがわかる。体温も冷たくなっていく。
血を飲ませたら頬を引っ掻かれた。彼女は謝ってきたけれど、こんなものは痛みのうちには入らない。
あの子の夢を見た。笑顔が癖になった自分と違って、明るく笑っていた。
・二月十日
体中が怠いと思ったら、どうやら熱があるようだ。休みたくはなかったけれど、彼女が泣いて止めてきた。今日は彼女とベッドにいることにした。珍しく彼女から抱きついてきた。そうすれば突っ撥ねられないということを、彼女はよく知っているのだろう。
久しぶりによく休めた。
明日からは今日の分も頑張ろう。
・二月十五日
魔法を禁止した。
彼女には我慢させてばかりだ。
もっと自由にさせてやりたいのに。
こんな夫に、彼女は「お誕生日おめでとう」と笑った。
・三月二十五日
食糧を買いに街へ出た。
あの子の分まで考えてしまう癖を、そろそろどうにかしないといけない。
街では、あの子の死を悼む言葉と、遠回しに彼女が死んだかを確認する質問を投げかけられた。彼女は辛うじて生きてくれているけれど、それを答えたらこの街の住民が何を言い出すかわからない。薬にしろとでも言われたら、住民を間違いなく殺してしまう。
曖昧に言葉を濁せば相手は勘違いしてくれた。それだけなら良かったけれど、どうして娘を紹介してくるのだろう。
疲れた。早く帰らせて欲しかった。
必要なものを買って帰れば、彼女は「どうしたの?」と笑ってくれた。嫌なことを忘れさせてくれる。彼女を妻にして良かった。
・四月十八日
ベッドやクッションの清潔を保つのに、普段は除去の魔法を使うけれど、三日に一度は水で洗うことにしている。
彼女を抱き上げて椅子に座らせた時に、服を掴まれた。彼女はこちらが何かを言う前に手を放して、なんでもないと言った。
この時は新薬の様子を見るために焦っていて、すぐに研究に戻ってしまったけれど、今思えば彼女は心細かったのかもしれない。彼女を救うためとはいえ、病床の彼女をほとんど一人きりにしてしまっているのだ。それを思うと、昔のあの子にも寂しい思いをさせていたのだろう。
区切りがつけば様子を見られるけれど、これまで彼女には夫婦らしいことを何もしてやれていない。
次に街へ出た時には、何か土産を買おう。
どうにか我が儘を言ってほしいけれど……無理か。
・四月三十日
街へ出た。
近頃、女性の声が鬱陶しい。あの子のことを口実に擦り寄ってくるのは止めてほしい。
彼女への土産に、果物と本を買った。とても喜んでくれた。彼女は肉より植物性のものが好きだ。甘い果物、特に林檎や桃などがいい。砂糖漬けにして干して、ベッド横に置いてみてもいいかもしれない。
自分にできることを考えただけでも嬉しい。次は何をあげようか。
・五月十九日
睡眠の魔法を使うことにした。
少しは苦しいことを忘れて、安らいでくれるだろうか。
・六月二日
歌えなくなったという。彼女は泣きながら必死に声を出していた。五分もせず、咳き込んで倒れた。痛々しくてこちらが苦しくなる。
あの子がこの光景を見なくて良かったと思う反面、ここに居てくれたらとも思う。感情が豊かなあの子が傍にいれば、彼女も癒されるだろう。彼女が寝言で呼ぶのは、いつもあの子の名前だ。
・六月三日
今日も彼女の呼吸が落ち着くのを見て、強い睡眠魔法をかけた。近頃、体調が芳しくない。
助ける方法を見つけられない。
何が夫だ。
自分が情けない。
・六月二十日
彼女が血を吐いた。
どうすればいい。
彼女の血はもう見たくない。
・七月五日
人間の声がうるさい。
・七月十日
家の結界を強化して、街には出ないことにした。
食糧など、それこそ魔界ででも手に入る。
聖水に浸せば粗方の瘴気は中和できる。
彼女の
・七月十八日
そう、激しい咳が聞こえたのだ。すぐに処置をしようとペンを置いて……前回の文章はそれで書きかけなのだった。何と書こうとしたのか覚えていない。彼女の? 何だろうか。彼女について語ろうとすればきりがない。それにこれは大した意味ももたない日記なのだから、そう重要なことではないだろう。
ところで、今日は痛みを取り除く術が一つ成功した。
あの薬を彼女に飲ませたいけれど、あれの精製には時間がかかる上に、そんなことをすれば彼女は自決してしまう。
早くしなければ。
何か見つけなければ、彼女はいなくなってしまう。
彼女はもうろくに起きていられないようだ。
以前、彼女と新居について約束したことを思い出した。目星はついている。
彼女のお茶や料理が恋しくてたまらない。
・八月十五日
研究はまた失敗した。
また血を飲ませなければ。
彼女は日々弱くなっていく。
羽を生やそうとするたびに怯えるようになってしまった。
彼女がこんなにも苦しまなければいけないのは何故だ。彼女が何をしたというのだろう。
・八月二十二日
今日は彼女が一段と弱って見えたから、ベッドの傍で一日中、資料と今までの研究結果を読んでいた。新たな発見はなかったけれど、彼女の笑顔が少しでも見られたから良しとしたい。
生きるためには気力も必要だ。自分にできる範囲で元気づけよう。
彼女が生きることを諦めないように。
・八月二十三日
彼女が何度も血を吐いて、痛みに喘いで、泣いて、けれど壁一枚を挟んだ外では、人間が数多くのうのうと暮らしている。
・八月三十日
夜に彼女の傍にいれば癒されるはずなのだが、ここ数ヶ月はおかしい。彼女の冷たい手を握っていると、人間が憎くてたまらなくなる。細い身体を抱えると、更に。
・九月一日
この街の人間は、あの子と彼女にしたことを忘れている。
・十月三日
彼女の目が見えなくなった。
好きだった満月の光を失って、彼女が泣いた。
どうして奪われなければいけない。
彼女が何をしたというのか。
あの子が死ぬ必要があったのか。
・十月四日
また血を見た
彼女があの子の夢を見て泣く
気弱になってはいけないというのに
・十月五日
無邪気に笑うあの子を抱えて、彼女と空を歩いている
月が綺麗だった
また行こうねと言われた
酷い夢だ
・十月六日
駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ。諦めるな。君は生きていていいのに。あの子はきっと君を受け入れない。あの子は君が好きだから、君はまだここに
・十月七日
朝が恐ろしい。起きるたびに、彼女の脈拍を確かめている。
・十月八日
頭が痛い




