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記憶の退行、というやつです

 彼の不可解な態度に困惑していると、あれだけ強く力を込められていた腕がそっと外された。

 エレノアは素早く距離を取り、ルイをじっと注視した。

 彼は頭を抱えていた。眉根を寄せて何かに耐えている。やがてその瞳がエレノアに向いて、


「…………エレノア?」

「うん?」

「…………。」


 彼は小さく「なるほど」と呟き、


「すみません、心配させましたね。もう戻りましょうか」


 なんでもなかったように、元来た道を戻ろうとする。さしものエレノアもこれにはびっくりで、どうしたの、本当に大丈夫なのと訊ねながら、野営地へと戻っていった。


 それからのルイは、どこかおかしかった。

 宿屋のある街に着くと、


「それじゃあ部屋割りだけど、」

「すみませんが、僕のところにエレノアをお借りしても構いませんか?」


 ということが増えた。ようは、ルイが近くにエレノアを置きたがるのだ。

 夜は調薬を手伝ってもらうと言って、二人の時間を持ちたがる。

 町に果物が売っていれば「お好きですよね。ほらどうぞ」と自分の手でカットした果物を食べさせようとするし、対応がものすごく甘い。

 ルイの変わりように勇者パーティーも首を傾げていて、そんなある日、


 エレノアが誘拐された。


 イベントの一つだった。人間の盗賊団が原因で、貴重な妖精を売りさばく目的だった。

 複数人の男性による拉致に、トラウマがあるエレノアだ。

 勇者一行が救助に向かった先で、顔を真っ青にして震える彼女を見た瞬間、誰よりも激怒したのはルイだった。


「下郎が」


 と。その一言に敵も味方も震え上がったし、両者がぶつかるとほぼルイの一人勝ち状態だった。

 

 そろそろ事情を聞かなければいけないと、エレノアは思った。

 だってこれでは、ルイとエレノアの本当の関係がバレてしまう。最後のその時まで、二人はあくまで旅仲間という態度を貫かなければいけないのに。

 人間サイズのエレノアは宿屋の一室で、白桃の一切れを「あーん」されながら、


「魔術師さま、最近どうしたの?」

「どうもしませんよ」


 そんなわけがない。


「……ルイ。このままじゃ勇者さまたちに勘付かれる」

「…………。」

「何考えてるのかわからないけど、私はあんまり頭良くないから、やりたいことがあるなら言ってほしいの」

 

 それからややあって、ルイは観念したらしい。残念そうに「タイムリミットですか」とおかしなことを言った。


「時間制限的な何かだったの?」

「ええ。そろそろだろうとは思っていましたが、ギリギリまで君を可愛がっていたくて」

「ふざけないでちゃんと話して」

「ふざけてないですよ、本音です」


 彼の手が、エレノアの頬に触れた。そのまま下に滑り、指先で首元を撫でられる。


「理解してもらえるかわかりませんが、今の僕の状態は、ゲームで言うイベントの一部なんです」

「え、何かあったっけ」

「記憶の退行というやつです。このゲームではそういったイベントがあったでしょう?」


 エレノアはぽかんとしながらルイを見上げた。


 肉体的、または精神的なダメージによる記憶喪失、失語症、昏睡状態、幼児退行、タイムスリップ。シリアスかコメディかによる差はあれど、ゲームではキャラクターに過度の負荷をかけるシナリオが少なくない。

 シリアスの場合は、そのイベントによってキャラクターの闇を露呈させる。コメディなら、食事作りが下手なヒロインの手料理を食べたショックで主人公の人格が変わる等である。

 主人公性別選択型恋愛RPG『魔王様と砂時計』では、記憶障害――『記憶退行』が採用されている。

 ちなみにそれが起こるのは、ディスク3。多くの敵を倒してレベルも五十以上になった頃。

 魔王の情報を求めて、廃墟グレノールに向かう道中のミニイベントである。

 けれどそれは、勇者への好感度が最も高いキャラクターに降りかかるものであるはずだ。そしてやはり、勇者の目前で頭を打った時のはず。


 そのイベントが起こっていたのだと、彼は言いたいらしい。


 エレノアの知るゲームでは、たしか彼の人格が七歳ほどに戻っていたけれど――目の前にいる彼はどう考えたって、そこまでお子様な雰囲気ではない。自分の状況を速やかに理解していたし、エレノアへの態度さえ変わっていなければ、異変にも気づけなかった。


「……じゃあ単刀直入に聞くけど、ルイくんは今何歳なのかな?」

「僕は君の知っているルイではありません。だから僕の年齢を言っても、正直関係ないと思います」


 はい? エレノアの思考回路がショート寸前だ。

 そんな彼女を見て、ルイはくすくすと笑って上品に馬鹿にした。


「いろいろ教えてあげますよ。ここが例えば……一個人が作った世界で……。今この会話を物語として見ているお客さんがいたとしても……、僕には……関係ありませんから」

「うん?」

「……なんて言ったって、僕もほとんどわかっていないのですけれど……」


 やけに『……』(三点リーダー)が多い台詞を連発しながら寂しそうに微笑むルイを、エレノアはまだ理解してあげられない。


「僕はたしかに、君から見て過去のルイです。けれど、違う」


 二人は「過去なのに、違うの?」「ええ」「全然わからないよ」「そうでしょうね」とまったりしたやりとりを繰り返す。


「記憶退行といいましたが、……そうですね、僕はほんの少し色々知ってしまった時間軸のルイだと思ってください」

「ええっと、未来のルイくんなの?」

「いいえ」


 彼の言い方では、まったく要領を得ない。けれど彼はたしかにルイだ。彼が彼である以上、多少の違和感はあるものの、無闇に刺激しようとはしないエレノアだった。


「君は現状を後悔していたりしますか?」

「なに、いきなり」


 ルイは、エレノアの砂時計を一瞥して、


「『魔王様と砂時計』では、時計がリセットボタンになるらしいですね。時計をひっくり返しますか? だとか、巻き戻しますか? だとか。そういった文章が出るみたいですが」

「うん、それは知ってるけど……」


 エレノアは、魔王城で目を覚ましてルイを受け入れた日を思い出した。

 最初にリセットボタンを見て、初めてステータス画面を開けたのだ。あの日は特に思うこともなくスルーしていたけれど、冷静に考えてみれば、少しおかしいかもしれない。


「この世界でリセットボタンが出る条件は、何かを強く後悔した時。リセットボタンの表示がなくなるのは、ハッピーエンドに到達した時――リセットなんかしたくないと、心の底から思った時、らしいですよ」


 彼は物語を読み上げるように平々淡々と伝えた。

 エレノアは一瞬、彼から目を逸らす。


 まるであの日にリセットボタンを見たエレノアが、『()()()()()()()()()』ようではないか。


 けれどたしかに、ゲームのリセットボタンは所々の分岐点で現れるのだ。巻き戻せる時間はタイミングによって違うけれど、パーティーが全滅した時だったり、バッドエンドに確定してしまった時だったりと、プレイヤーが『後悔』するであろう場面においてよく見られた。時計は、リセットボタンとコンティニューの二役を担っているわけである。

 ――でも。


「そもそも私は『主人公(プレイヤー)』じゃないけど、リセットボタンなんてあって大丈夫なの?」

「……それは」


 それは。

 ルイは小さく息を吐いて、


「これだけは言っておこうと思っていたのですが、ここはただの箱庭です。ゲームの世界を参考に作られた、小さな世界です」


 そもそも、ここがゲームの世界などではないと。

 彼は、言うのだ。


「君がエレノアとして転生してしまったように、僕が日本の国を知っているように、君が魔王側にいるように、どこかしらに『バグ』がある」

「……バグ」

「この世界でも、リセットできる条件はゲームとほとんど一緒のようです。後悔していて、その場に時計があればいいんです。君の様子だと、一度以上はリセットの選択肢を見たんですね」

「……見たけど。待って、後悔とかって、何それ」

「たとえば僕……ルイと出会わなければよかったとか」


 そういうことを思いませんでしたか、と。

 彼が顔色の一つもかえずに言う。

 とんでもないことだった。エレノアは即座に反論する、


「後悔なんてしてないよ! だって私、ルイと一緒にいる。砂時計を渡してくれたんだよ、嬉しかったんだよ、泣くほどだったよ、ちゃんと一緒にいてくれるんだよ、今回は……――っ」


 ――()()()


「え」


 自分が何を口走ったのか、わからない。

 寒気に襲われる。

 大事なことを忘れている自分が信じられなくて。


 ――大事なこと、大事なこと。


 私には。

 もっといっぱい、思い出があったはずなのだ。

 もっといっぱい、記憶がある。


 それはとても甘い思い出。とても痛いこと。とても赤くて、目の前が揺らぐ、生臭くて、ほっとして、安心して、残酷で、冷徹で、容赦なくて、平凡とは言いがたくて、けれどたしかに楽しくて、あの時、私は、わたしは、彼に、


 ――時計を渡した。()()()()()()


 頭に記憶が過ぎっていく。見慣れた魔王城。玉座に座る彼。彼に跪いた自分。私を美しく見下ろす彼。

 ――『保護者としては失格なんだろうけど、これをあげたかったの』――。

 月時計を渡した。それは、いつの記憶だろう?


 頭がふらついて、エレノアはルイのローブにぽすりと顔を埋めた。

 そうして荒い呼吸を整えようとした。何かを思い出すだけで酷い倦怠感がある。背を撫でて宥めてくれるルイを、やはり優しいと思った。



 ルイは懐から羊皮紙を出す。そして羽ペンも出現させる。

「さすが僕ですね」と呟く声が聞こえて、エレノアはなんのことかと顔を上げた。ルイはそれに答える。「いつどこで新しい魔法や薬を思いつくかわからないので、紙とペンは用意しているんですよ。やはり僕は僕ですね」とのことだ。

 ルイはルイだ。当たり前のことだった。

 彼は羊皮紙に文字を書くと、何らかの魔術をかけて折り畳み、エレノアに渡した。


「これを君のルイに渡してください」

「……うん?」

「これ以上のことが気になるなら、この体のルイに判断を仰いでください。君に知らせるべきか否かは彼に判断させるのがいいでしょう」


 エレノアが受け取ったのを確認すると、ルイはふっと息を吐いた。

 彼は疲れているように見える。

 お疲れ? と気遣わしげな彼女の視線は、ルイの顔を歪めた。悲しそうだった。

 エレノアは真正面から抱き込まれる。びくりと肩を揺らしただけで、彼女は何も言わずに彼の背に手を回した。


「……すみません。しばらくこうしていていいですか?」

「いいよ」


 彼は彼だ。弱っているルイを前にして、拒む理由はなかった。


「貴方のエレノアは傍にいないの?」

「……()()()()()()しまいました」

「そっか、だからか」

「ええ、君を代わりにしました。ごめんなさい」

「ううん。ねえルイ少年、なにか歌おうか?」

「……お願いします」



                      どこかで女性が、ふ、と笑った。


       *


 昔むかし、あるところに、ひとつの世界がありました。

 世界には喜びが満ち溢れ、海の精霊は涼やかで、大地の精霊はおおらかで、火の精霊は豪快で、風の精霊は穏やかに、時の精霊は冷静に、世界に生きる子等を見守っていました。

 いつしか人は世界に蔓延って、精霊への畏れを忘れてしまいます。

 人は大いなる自然を壊し始め、時の精霊はこれに怒りました。


『永遠の夏か、永遠の冬か、どちらかを選びなさい』


 時を動かすとは、同時に四季を動かすこと。それができるのは時の精霊をおいて他にいません。その精霊が、四季を止めてしまうと言い出したのです。

 そうすれば、困るのは人間と生物たちです。

 人類は、生贄を捧げて許してもらうことにしました。

 生贄には、全人類で最も魔力が高いとされる娘が選ばれました。

 娘は、銀色に輝く髪と、海のように深い青色の瞳を持つ、妖精のように美しい女だったといいます。

 生贄になると決められた時、彼女はこう言いました。


『私の命で皆が救われるなら、それでもいい。

 私の身は消えるけれど、この心はきっと、時の精霊様の中に宿るから。

 その目で世界を見守って、

 その耳で世界の声を聴いて、

 その口で眠れぬ人に子守唄を歌ってあげられる』


 最後の日、彼女は笑って、時の精霊の元に向かいました。

 彼女を一人にさせてはならないと同行したのは、彼女の婚約者でした。


 娘は勇ましく、優しく、強く、気高いひとでした。誰にも慕われた、穏やかなひとでした。

 その反面で、娘はとても弱くて、臆病で、とても人間らしかったという人もいます。

 お供をした婚約者は、彼女に無理に連れ去られたのだと言う人もいます。

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