勇者を喚んでみよう!
ビスは王城の図書室に来ていた。司書に恭しく挨拶されたので「どーも」と返し、目的もなく本棚を見て回る。
図書室は城に勤める者なら誰でも使用可能だ。
初めの頃は、城に置く本をルイが選定していた。けれど司書を置いてからルイが図書室の運営に関わることはなくなり、本は一層多様性を増している。ファンタジー、恋物語、英雄譚、なんでもある。
奥まったところにある意味深で埃臭い書庫は、太古からの小難しくて分厚い本とか今や存在しない大陸が載っている何百年前の地図とか、そういった貴重な資料がある。たまに読むならそれも面白いけれど、今のビスはやっぱり面白い物語が好きだった。
と、
「……あれ」
視界の端に気になるものが引っ掛かった気がして、通り過ぎた三歩分を戻った。
くすんだ金色の背表紙。
なんだろう。ビスの尻尾がひょんと揺れる。
本を手に取って、表紙をまじまじと見た。
「『みんなの神話・時のせいれい』?」
タイトルからして人間の子供向けだ。人間の神話なんてこの城の誰も興味は持たないだろうに、こんな本まで置くことにしたのか。もしかしたらルイの趣味かもしれない、なんて考える。
ページを開いて読んでみるけれど、特に面白いとは思わない。
拍子抜けに「にゃん」とぼやいて、元の場所に戻した。
――どこかでくすりと、女性が笑う。
*
うるさい。
エレノアは眉間に皺を寄せて、重い溜息を吐く夫の手をぴしゃりと叩いた。腰に回される腕、ベッドの上で膝に乗せられる体勢、これは日常のままだけれど、違うのはルイの態度だった。
朝から深夜に至るまで、彼がこの世の終りのような雰囲気でいる。
「諦めなって」
「わかってるんですよ。わかってましたよ。ええ、わかってました。けれど君にこうするのも、しばらくはお預けかと思うと……」
もうやってられませんと弱々しい発言を連発する魔王なんて誰にも見せられない。エレノアは部屋中を無駄に見渡して、誰もいないことを無駄に確認した。
ルイの寝室には、彼本人とエレノアの二人のみ。
明日は勇者を呼ぶ日だ。
日食で発生する特殊な魔力がどうという話らしく、明日を逃せばまた数年、下手をすれば数十年も待たなければいけない。今日まで施してきた様々な『準備』を泡にするわけにもいかないので、明日は確実に計画を決行する。
「明日に別れてから……僕がストーリー上に出てくるまで会えないわけですが……」
「うん」
「夫がずっと遠くにいるから寂しくて浮気とか、やめてくださいね?」
「何言ってんの」
何を心配しているのかと思いきや、そんなことを。
エレノアは、額を肩に乗せてくるルイの頭をぽんぽんと叩いて慰めた。
――そもそも浮気なんて、ルイ以外に好きな人がいるわけ……。
と考えて思いついてしまった。
ゲームにおいて、自分が一番好きだったキャラクターのことを。
「あ、騎士さま」
――そういえばそんな人がいたっけ。さすがに詳しくは覚えていないけど。
「やっぱり出てくるのかな?」
エレノアが「ね?」と彼を見上げた。
恐ろしい魔王様がいた。
「えっと、そんな、変な意味ではなくてね!」
「ではどういうおつもりで?」
「ちょっとした興味だよ。疚しい意味はないよ」
「興味? 男に? へえ……」
手がじりじりと妖しい動きになって、彼女は慌てて退避しようとしたけれど、ここは魔王の寝室だ。
それとなく逃げようとしたところを捕まえられ、あとはお察しのとおり。
「君の番は誰だか、わかっていますか?」だとか「まだ愛が足りないということですね」だとか、そんな質疑応答を繰り返して、様々な手法でもって何度も従順に頷かされた。
ほとんど拷問のような出来事だった。
彼はそれまでの反動か、契約の日から理性の一部が吹っ切れていた。そう頻繁にとはいかないものの、夜を共に過ごすことがあった。
翌日、エレノアとルイは魔界から最も遠い国『サルマ』の聖都カルギナに来ていた。
随分前に勇者を呼ぶと決めてから、課題の一つに『人間界へ溶け込む』作業が必要となって真っ先に降り立った地。そして主人公が召喚される地だ。
大地に起伏はなく、山脈もない。完全な平地の小さな国には、豊かな自然があった。水の都としても有名だ。暖かな陽光を跳ね返さんばかりの白い町並みは、蒼い海や快晴の空とのコントラストが絶景だと評判だ。
ルイが黒いローブを揺らして、街路を涼やかに通り過ぎる。
左側には水路があり、二人乗りのゴンドラが水に浮いていた。船頭は豪快な欠伸をかましていて、街路から見下ろしていたルイと目が合えば愛想笑いで応えてくれる。
行き交うゴンドラの、聞き取れない船頭歌。さらさらと流れる水の音。それらは、人間に作られたものであっても素直に美しいと感じられる。
――聖都。その号の印象よりも、果てしなく自由だ。
綿雲が浮いた蒼い空を見上げて、ルイは眩しそうに目を細めた。
道行く女性が立ち止まる。その時を止めたかのように、ルイを見つめて頬を染めた。
と、ローブの内ポケットの中で、もごもごと動くものがある。
ルイは「少しだけですよ」と小さく囁いて、ローブの襟元を少し開いた。
「っぷは」
「酔ったりしませんか?」
「この体に生まれてこの方、乗り物酔いはしたことないよ」
妖精サイズのエレノアである。
魔王の魔力が身に流れ込んで事実上のランクSSとなった彼女は、身の内の魔力をコントロールすることもできるようになった。人間サイズにもなれるし、妖精サイズに戻るのも朝飯前だ。
彼女は外から見えないけれど外気を吸える絶妙な位置にいた。時々顔を出しては、興味深そうに周囲を見た。
彼女はそっと呟く。
「オープニング映像だ」
「映像?」
「ゲームのね。主人公の性別と名前を選択した後は、地球の学校生活と平和な私生活シーンがあるでしょ。そしてたしか、自分の部屋にしかこない地震が何回かあって、それを怪しんでいるある日に、大地震が起こって。それでオープニング映像がくるんだけど。
たった今ゲームが始まったんだよ。ルイが聖都カルギナっぽいところでぼんやり空を見るのは、オープニングのワンシーン」
「プレイヤーからすれば裏切りそうにない第一印象ですね」
「騙された私を笑え」
「あはは。はい行きますよ」
オープニングの完成度には定評のあるゲーム会社だった。『魔王様と砂時計』は不穏さと哀愁漂う世界観、美麗な流血と実力派声優渾身の慟哭が売りなので、主題歌も薄暗い。
本来であれば、今は教会の神官が持つ銀の籠の中でじっと蹲っているシーン――でなければいけないエレノアは、ルイのローブの中にもそもそと潜った。それを確認して、ルイはまた歩き出す。
「今流れているであろうオープニングで私が出てるなら、主人公は男かな」
「僕が出ているなら、主人公は女性かもしれませんね」
「女主人公は嫌だな。ルイ、攻略されちゃう」
「僕は君以外に攻略されません。それより君も、男主人公に気に入られたり……、……騎士が男性だった場合に現を抜かすようであればこちらにも考えがありますからね」
「……うん」
主人公に攻略されるリスクか、異性の攻略対象キャラクター勢に囲まれるリスクか。それは結局運命任せである。
しばらく歩けば、大きな教会が見えてくる。
この世界の一大宗教であるメジェリー教、その総本山。ノット・カシム大聖堂。
繊細なステンドグラスや尖塔が目立つ。神聖で冷たい、いかにも潔癖なこの敷地内では、私語すら憚られる。
結界も張ってあった。魔の者を退ける強固なものが。
けれどルイは、ここを何度も通っている。
最初この結界に近づいた時に、ふと苦笑が浮かんでしまったくらいには、攻略の容易いものだったのだ。
ルイは結界を通る方法を四つ心得ている。
枯渇。――術者の魔力の枯渇を待つ。
許可。――術者に直接、通行許可を貰う。
破壊。――力づくで破壊する。
侵食。――己の力をなじませ、徐々に一部の支配権を奪う。
彼は、当然のことながら侵食を選んだ。微細なコントロールを必要とする技術だけれど、スキルに賢者の称号を冠する彼であれば、それほど難しくはない。
大聖堂の敷地内に入ったところで、ルイはエレノアを解放する。
「じゃあね、頑張って」
「ええ、そちらも」
教会の入口から奥へと、髪を靡かせて青い光の粒子を散らしながら、空中を飛び去っていく。この妖精の姿は、この教会では珍しくない光景になりつつある。
エレノアは、聖都の清浄な魔力に釣られて迷い込んだ希少な妖精ということになっている。
妖精や動物を不当に捕えることは、博愛をうたうメジェリー教の教えに反するため、教会内は安全地帯だ。エレノアは人のいる大きな通路を通り、大神官を探した。
柳梁天井が続く建物を優雅に飛び、大教会堂の身廊に入る。外見だけは美しい妖精の姿に参拝者が振り返るけれど、彼女は全く気にしない。
祭壇のメジェリー像は、髪長い女神の姿を象っている。
エレノアの探し人は女神を見上げて祈りを捧げていた。
「大神官さま!」
「おお、エレノア」
フードの下の髪が少ないことを指摘してはいけない。ゆったりとした装束を纏う壮齢の男性こそが、メジェリー教の大神官だ。
彼と顔見知りになり、勇者召喚の儀式に使われるほどの信用を得るのがエレノアの役目だった。
元より妖精は、召喚の案内役にはうってつけだ。異世界に送る体積は小さく、確実に迷わず対象を連れて帰って来る。
エレノアは、手近な長椅子の背もたれにちょこんと座った。
「今日が本番だと思うと、どうも緊張するね」
「妖精も人間らしいことを言う」
「当然だよ。だって初めてだし、勇者さんにも会うんだよ。緊張しないわけないじゃん」
「そうだなあ。お前には大変なことを頼んでしまったね。成功を祈っているからな。全ては悪しき魔を討ち滅ぼすため。ご助力願うよ」
「任せて」
「……そろそろ時間か」
おいで、と誘われて、エレノアは大神官の傍に飛んでいく。
彼の歩みに合わせて進み、聖堂の裏に回った。
木々に隠れた所に、古ぼけた鉄の板がある。崩れた壁を補強した跡のように、大胆且つ自然な存在感を放つそれは、地下への扉だった。
扉を潜ったエレノアと大神官は、長い階段を下りていく。
地下室は、真上に位置する大教会堂と同じ広さがあるように見えた。
円形の室内に、大掛かりな魔法陣が描かれた円形の台座。その周囲に黒いローブの人物七人ほどが立って、エレノアと大神官を待っていた。
ローブの集団の中に、『隣国の宮廷魔術師』のルイがいる。
エレノアと一瞬目が合うが、それまでだ。声をかけられるような間柄ではない。
エレノアは『神聖』でいて、『救世の妖精』だ。
彼女は多数の視線に見守られながら、魔法陣の中央部で羽を休めた。
大神官が声を上げる。
「……始めよう」
はい、という返事の代わりに、ローブの集団が頷いた。
*
エレノアにとって懐かしい風景が、そこにあった。
薄型のテレビ、色が褪せたカラーボックス、エアコン、教科書類。それらは床が揺れるたびに散乱していって、この部屋の中はしっちゃかめっちゃかだ。
そんな巨大地震の最中、学習机の下で必死になって体を丸めている少女の姿があった。
ここはエレノアの前世の世界ではない。あくまでここはゲームの世界の一部だが、小物はすべて現代風で懐かしいと思えた。
だが立ち止まる暇はない。
――ここで、自分がやらなくてはいけないこと。
エレノアは、先ほど自分が飛び出た魔法陣を振り返る。それは壁にゆらりゆらりと蠢いていて、エレノアを急かしているようだった。
次に窓を見る。床に足を着けていないエレノアだから気付くことだけれど、窓の外は全く揺れていなかった。
そして彼女は少女の方へ飛んでいく。
大きな揺れに怯える少女を勇気付けに。そして、赤煉瓦とアーチ橋の世界へ誘うために。
「私の世界を助けてください、勇者さま!」
ぼろぼろと涙を流す少女へ、エレノアは手を伸ばす。
白いワンピースをふわりと揺れさせて、眉を頼りなく下げて、悲痛な顔を作りながら、少女の手を引いてあの魔法陣へ向かう。
少女の手の先から、頭、胴体、足先までが魔法陣に潜ったのを確認して。エレノアは決して離れないように、少女の肩にしがみついた。
やがて降り立った少女は、周囲にいた黒の集団と大神官に『勇者』と呼ばれる。
どうして自分がそう呼ばれているのかわからない少女は縋るように、妖精に説明を求めた。少女の掌にちょこんと乗った妖精は、少女を見上げてふにゃりと微笑む。
「私は君のお手伝いをする役目だよ。妖精のエレノアって言うんだ。よろしくね」
――貴女が嘗ての勇者たちのように血まみれになってしまわないようにね、今から祈っているからね。できるだけお手伝いするからね。
「勇者さま。この世界――『パンデュール』へようこそ!」
――一度渡れば帰れない、死地へようこそ。




