起床と捕獲と魔王様
――痛い。いたい。
いたい痛いいたい痛い痛い痛い痛いいたい。暑い。熱い。こわい。なに。やめて。知らない。こんなの知らない。こわい。だれ。見えない。こわい。こわい。あつい!
エレノアは痛みに苛まれる。身の内で何かが蠢いて、体が変質してしまった気がした。
全身が動かない。
誰かに捕食されている心地がする。
虫に食い荒らされようとする焦燥にも似た恐怖から逃れようと、彼女は瞼を開けた。
そして目に飛び込んだのは、圧倒的な光量だった。
網膜に焼け付きそうなそれに、悲鳴すら飛び出してしまいそうだ。けれど喉は長く使っていなかったみたいに声が出ない。その代わり咳き込んでしまった。
――本当に、喉は長い間使っていなかった。
この痛いほどの光だって、そうだ、目を久しく使っていなかったからこんなに眩しいのだ。
妖精の瞳をもってしても、目を開けられないほどの強い光。――なんてこともない、柔らかでありふれた陽光だった。
「ん……?」
光に慣れたエレノアは室内を見渡した。見慣れない構造、見慣れない家具。寝ているベッドの感触だけは知っていて、ここが自分の部屋なのだと認識する。
――長い間、寝てたみたい。
ルイから「おやすみ」を言われてからの記憶がない。今がいつなのかもわからない。
あれから何があったのか、目が見えなかったはずなのに見えているし、掠れてはいるが声も出ている。
石化を解かれたということは術者が亡くなったか、もう石になっている必要はないと判断されたか。……おそらく後者だ。
彼が治してくれた?
それじゃあ、歩ける?
エレノアは期待して、ベッドの端から片足を出した。
脚が動く、それだけの事実に顔をほころばせて、じりじり寝具から抜け出した。けれど力が入らない。下半身は変に引きつって、足の付け根やあらぬところがずきりと痛んだ。
「ひ……っ!?」
弱った体に慣れない痛みが襲って、床に頽れた。カーペットが敷いてあったのが幸いだ。
エレノアは無言だった。
ころりとうつ伏せに転がったまま、長くなった銀髪の間から部屋を観察した。
「まおう、じょう」
記憶がたしかなら、ここは魔王の居城だ。
その事実を再認識しても、驚きはしない。
先代魔王のビスがルイの配下としてこの部屋に訪れていたし、ルイの発言もそれらしいところが多々あった。エレノアが石になる前まで耳に入れていた情報を総合すれば、つまりそういうことだ。
魔王ルイ・スティラスの時代に入っている。
――……やっぱり、こうなっちゃったか。
昔はあれだけ魔王になる気はないと言っていたのに、彼の未来は変わらなかった。
身体が重い。下肢の疼痛もいよいよ深刻になってきて、エレノアは横向きに蹲った。体を丸めてみると、少し楽になった。
しばらくそうしていると足音が聞こえた。登ってくる足音。ここは魔王城内でも高い位置にある部屋のようだ。長い階段を上ってきた誰かが扉を開いて、後ろ手に閉めて、そして音はぴたりと止まった。
「……エレノア……?」
「ん……?」
エレノアはそのままの体勢で、声の主を見る。
誰だ、と思った。
陽の光の下でさらりと煌く金髪。美しく、端整な顔の青年。ローブではないけれど、黒い衣装。
ルイだ。ルイ・スティラスだ。
たしかに知っているはずの彼が、別人のように見えた。彼は「はっ」と我に返ると、床に転がったままのエレノアに駆け寄る。
「エリー! 起きたばかりでベッドから出ないでください! 無茶をするなとあれだけ言ったのに、馬鹿ですか君は」
――あ、この普通に失礼な口調はルイだ。
エレノアは抱き上げられ、ベッドに下ろされる。
その際、彼からおかしな臭いがしたことに気がついた。
――鉄の臭い。
けれどそれを問う間もなく、遠慮がちに抱きしめられた。ふわりと、壊れ物を扱うように。
「……ルイ?」
「はい」
「大きくなったね」
放されると、今度は両手で頭を挟まれるようにして、目線を合わせられた。そんなことしても逃げないのにな、とエレノアは思うけれど、少し強引なところも久しぶりで懐かしい。微笑ましくて、口元が緩む。そんな大して珍しくもない顔さえまじまじと見つめられていることに気づくと、エレノアは視線で何かと訊ねた。
ルイは、「いえ、すみません」と口先だけで謝る。
「君の目に僕が映っていて、その声で呼んでくれて、それだけのことなのに」
ルイは「嬉しくて」と、声を絞り出す。
エレノアの髪やら頬やらをくまなく触っていく。それがくすぐったくて、エレノアはくすくすころころ笑ってしまう。
「君の目が覚めたら、大事なことをお話ししようと思っていたのですが。……とりあえずお茶でもどうですか?」
少し待ってくださいねと一度部屋を出たルイが魔法を使わず淹れたのは、レモンの紅茶だった。
エレノアは、程よい温度に冷まされたそれに口を付ける。
「林檎の方が良いかなとも思ったのですが、何故だかレモンが大量にあって」
「大丈夫、おいしいよ」
「君にお茶を淹れるのも、約四年ぶりですからね」
「私がいなくて寂しかった?」
「寂しい、なんてものじゃありませんよ。死にそうでした。……半分は死んでいました」
大げさなことを言われて、エレノアは絶句した。顔を上げると真剣な目のルイがいて、笑うに笑えなかった。
彼は嬉しそうだけれど、その瞳は陰っているようにも見えた。
「お話のことですが――」
ルイの柔らかい雰囲気はそのままで、けれど僅かに暗い。
エレノアが困惑気味に口を開く。
「今じゃなきゃ、だめなの?」
「……君は今、動けないから」
その答えをどう解釈して良いのやら。
ルイ相手に真剣な危機感を持てなかったエレノアは、
「あの薬を作ったのは、スティラス家です」
「……ぇ」
この不意討ちのような話に言葉を失くした。何を言われたのかわからなかった。
呆然とするエレノアの様子に気づいた彼は自嘲しながら「今のうちに全て話しておきたくて」と、自分勝手な事情をエレノアに押し付けた。
そして安全のために、ルイは固まる彼女の手からカップを奪う。
「百年以上も昔のことです。スティラス家のとある魔術師が、それまでにない究極の治療薬を完成させました。魔力を持たずに生まれた者に、一度の服用で魔力を与え、二度の服用で魔術の行使も可能にする、まるで御伽噺のような妙薬」
「ちょっと……」
「『フェアリー・テイル』」
エレノアは反射的に逃げようとした。ベッドのルイがいる側とは反対側に足を下ろして立ち、ふらりと倒れそうになった。咄嗟に伸ばされた彼の手は空を掴んだ。
エレノアはあの万能薬を、存在自体が御伽噺のような妙薬の名を、彼の口で発音しないでほしかった。
だってそれは、十匹の妖精の羽と、骨と、髪と、魔力で精製されるもの。
同胞の死体で作るもの。
癖のある人間の魔力と違って、自然の純粋な魔力をそのまま蓄えた妖精でなければ薬に成り得ない。だから人間は妖精を捕獲する。人間のために。妖精を殺して。
――そして、干して磨り潰して、飲み込むんだ!
「……や」
「エレノア」
「やだ、……いや、いや、だ」
それじゃあこの不自然な体の痛みはなんだろうと考えた。
ルイの身にまとわりつく薄い血臭は、なんだろうと思った。
目覚めたばかりの頭では処理しきれない、衝撃的な事実だけが渦巻いた。その情報をどうやって繋ぎ合わせて処理していけばいいのかわからない。
ただただ、恐ろしかった。
ゲームの妖精は魔王にとても苦しい実験をされる。その知識が、思考を最悪な方向に向かわせた。
重力が異様に大きく感じる。関節はいうことをきかない。けれど壁伝いに身を動かした。
「いや、あ……っ!」
嫌悪と吐き気と忌避と様々な負の感情は、彼の傍を離れたがった。この場に居たくなかった。
窓はエレノアが目を向けた瞬間に閉じられてしまう。
体に鞭打って向かったドアは、がちゃりと鍵を閉められた音だけがした。
どちらも彼の無言の魔法だった。
「なんでっ、あけて、やだ!」
頑なに締められたドアを叩くエレノアを、ルイが背後から拘束する。
胸下に回された片腕は、優しくはなかった。
「だめですよ。この先は、今の君には歩かせられない、長い階段になっています」
レバーに縋り付いていた彼女の左手は、その手首をぎゅうと握られる。
銀の糸もないのに、彼女の身体は凍りついたように動かない。
「僕は覚えていたんですよ。あの光景を」
「や、やめて……っ」
「離乳食に薬一瓶を混ぜて、苦いであろうその物体を、泣き叫ぶあの子の口に無理やり流し込んでいる両親を」
「やだぁっ!」
――おぞましい、おぞましい、おぞましい!
廃人のように掠れた声は、ぼそぼそと乾いたままの響きで耳に当たる。
「ずっと嘘を吐いていました。本当は、君が元人間でなかったら、君を薬に加えるつもりでいました。『エレノア』はこの世界で特別な立ち位置だと、知っていたから」
エレノアは、ただ恐ろしかった。聞こえるのは、まるで知らない誰かの懺悔だった。
「初めて会った時、君が銀の糸に縛られて昏倒している間に、あの子に君の魔力を与えたんです。でも君には妖精らしい魔力がなくて、薬にならないと思い様子を見ていれば、君は僕を殺すエレノアではなかった。だから……」
体を抱き込んで縋り付く彼の腕に、エレノアは応えられない。
スティラス家に来たエレノアの呼び声にいち早く気づいたのはルミーナ・スティラスだったことを、ここでぼんやり思い出した。――『妹は、君の声を聞いたらしいです』――スティラス家ではしばしば兄を差し置いて、妹の方が鋭い時があった。
なんだ。
そういうことか。
「人間は醜いです。あの子を生かそうとした両親ですら、君たちにとっては悪魔の一人にすぎない。そしてあの子を見殺しにして、君を理不尽に暴行した人間は、僕にとっても悪魔です。人間で、その上スティラス家の者である僕が君に怯えられても、仕方がないことなのでしょう。――だけど」
握られたままだったエレノアの左手首は、ルイの方に引き寄せられた。大きくて無骨な手は、彼女の手首から先をじわじわ辿っていく。手の平と、指と、感触を確かめるように触られた。
最後に、繋がれる。
指を絡ませ合うように、愛し合う夫婦がするように。
「もう駄目です。逃がしてあげられません」
そして手首から指先の一本一本まで、点々と口付けられる。
「ん、」と艶めいた彼の声が聞こえるとエレノアは恥ずかしくて、柔らかな感触が当たるたびに怖くてどうにかなりそうだった。彼女の身はびくりと竦んだ。
エレノアに懇願する彼は、腕の力をさらに込める。
「君に無理をさせる魔物とでも、縛り付けるだけの人間とでも、人でなしとも、害虫とも、認めます。君にならなんと言われても構わない。でも離れることだけは許してあげられない」
――駄目だ。ぷちん、って切れちゃった。
「このまま鎖で繋がれたくはないでしょう? ねえ、君だけは殺しません。だからどうか……」
――彼のどこか、胸の中の大事なところが。
「好きです。愛してます、愛しています、エレノア」
――心の中の重要なところが、壊れちゃった。
ドアを見ながら、エレノアは乾いた唇を噛み締めた。
出口に縋り付くのは止めた。心にすとんと何かが落ちた。清々しい気分にはなれない、諦めにも似た後暗い感情。
「ルイ」
「……はい」
「優しくても、魔王になれるんだね。知らなかったよ」
この自分のセリフをどこかで聞いたと思ったら、ゲームのヒロインと同じだった。
知らずのうちに、首から下がる砂時計を握った。
頭の中でかちりと何かがはまった音がした。
目の前に、銀色の細いフレームでできた四角い枠が浮かんで見える。そこには文字が並んでいた。
『時計を回し、ルート確定前の選択肢に戻りますか?(データは破棄されます)』
――そんなの決まってる。
答えは、『NO』だ。
エレノアは、その文字列に対して疑問を持たない。どうして今更? という疑念すらも、どこかに追いやられた。この世界には『リセットボタン』があって当然なのだと、疑わなかった。
リセットして、彼と別れるのは嫌だ。
時計から手を離すと、選択の文字列は消える。代わりに『攻撃』『防御』と、いくつもの馴染み深い文字が数行並んだ。その横に数字が並んでいた。殆どが四桁だったけれど、一つの項目だけが『0』だった。
その一覧の背景は白の半透明で、ドアが透けて見えた。
書かれている文字列や数字は、触れている彼の情報らしい。
名前 :ルイ・スティラス
年齢 :26
レベル:75
職業 :魔王A、魔術師S
HP :4077
MP :9999
攻撃 :2500
防御 :3076
魔攻 :9999
魔防 :9999
スキル:『大魔術師の心得S』『火の加護A』『水の加護B』『風の加護S』『地の加護B』『闇の加護A』
好感度:0
読み流して目を閉じる。背後の彼に体重をかけて寄りかかると、彼はますます腕に力を込めた。もう逃げるつもりはないと伝える態度を、彼はどう思っただろう。窮屈な抱擁が表すものは、安堵か、歓喜か。
「……私も、あなたが好きだよ」
エレノアがそう言えば、ルイは消え入りそうな声で、一度彼女の名を呼んだ。彼女の耳に吐息を運んだ。『0』だった項目は、『--』になった。




