閑話 魔王の経緯
彼は背後に猫耳付きの子供を伴って、湿った石段を歩いていた。
足音が、円筒形の塔内をどこまでも登っていく。
夜に来るのとは違って、今のように明るい時間帯だと、天井部の繊細なステンドグラスが綺麗に見える。ステンドグラスを透かして射す陽光は、最下層に届く頃にはとても貧弱だ。
「それで?」
彼は子供に、低く訊ねた。
「一発炎飛ばしたら、飛龍の片羽に当たっちゃってぇ……ふらふらしながら落ちてった、……にゃん」
彼の気分を損ねたかと気を落とした子供に、上から黒い布が被せられる。「にゃんっ!?」と狼狽えてもがき、子供はなんとか顔を出した。
「危ないじゃんか! 踏み外して落ちたらどうするんだよぅ!」
「君は猫だろう」
被せられたのは、彼の上着らしい。
金のボタンと、同色の飾緒――軍服を模して作られたそれは、彼の魔王としての装束だった。
以前まで着用していたローブは、彼の本職である魔術師を連想させるアイテムだけれど、同時にあの王都の研究所にいた証でもある。その点が引っかかって、せめて魔王でいる間はと、衣服を変えることにしたのだ。
今の服は、服飾に関して興味のない彼が、ビスに「適当にそれらしいものを」と頼んだ結果である。
上着を渡されたということは、持っていろということなのだろうけれど――子供が戸惑いながら彼を見ると、その姿は既に半周ほど上の階段にあった。彼は意外に素早い。
一瞥すらもらえなかった子供は憤慨した様子で――それでも預けられた上着はしっかり持ち直して――階段を駆け登ろうとした。
「……んん」と一瞬考えて、助走をつけて、
ぴょんっ!
と軽い効果音を鳴らしながらも、行動はえげつない。下層が霞んで見えない高度を誇る塔内の、端から端へ、一足で移動したのだ。そして狙った通り、彼の背後に降り立った。
彼は、そんな配下の偉業にも目を留めない。
「ルイは意地悪だ」
「性格の悪い女性に育てられたからな」
「うっそだぁ。エレノアさん、ルイより絶対優しいもんねぇ」
「言うほどの交流があったとは思えないが?」
「いやなんかもう、第一印象からして違うっていうか、にゃん」
第一印象。たしか玉座の間に「恐れ入ります」で入った、実に常識的な邂逅だった覚えがある彼は、その旨を伝えた。
それを子供は「信じられにゃい!」と嘆く。
「そりゃあ言葉だけで見ればそうだけどさぁ。魔物の鮮血淋漓! な麻袋を手にぶら下げた人間が普通に笑顔で入って来てみてよ、おっそろしいよ!」
「素材の宝庫だった。良い袋がなかったことが悔やまれる」
「言いたいことはそれだけかにゃんっ!?」
あの光景こそが人間の恐れる魔王の図か。
子供はあの時あの瞬間、玉座でぴしっと正座しながら何かを悟ったのである。ぶわわっ! と逆立った尻尾がしばらく戻らなかったし、全身で服従を表現したがる本能こそが最大の敵だった。
「……話が逸れたが、彼女の部屋の窓に近づいたという男は勇者に間違いないのか」
「腕が一個なかったしぃ、おれも見たことあるやつだったから、間違いないよ? 五日前のアレで、ルイが人間の腕一個氷漬けて割ったけど、さすがにその人間はまだ動けないだろうし……。やっぱり勇者じゃないかなあ」
「わざわざ城の様子を見に来て、勇者も飛龍も揃って片腕となったか」
ルイは、「ははっ」と嘲笑を零した。
「ご苦労なことだな」
「……エレノアさんのこと、知られたらどうするのぉ?」
「知られたところで困らない。此処には私にしか解けない結界がある」
彼は、塔の最上部の扉の前に立った。
彼女の部屋だ。
鉄製の扉は重く頑丈で、まるで彼女を幽閉しているようだった。
入室した二人は、ベッドに近づいた。
けれど一定の位置までくると、子供は足を止める。
彼だけが、彼女に近づけるのだ。そんな取り決めはないけれど、彼が魔王になってからは暗黙の了解だった。
彼はベッドの上の彼女に触れた。そして今や聞くことのない優しい口調で語りかける。
「いつ見ても綺麗ですね、君は」
彼が「君」と呼んだ彼女は、寝台に横たわる白い石像だった。
息もしない。目を閉じて、瞬きもしない。首元の砂時計を両手で握り、祈るような格好で固まっている。安らかな眠りだけを許された、羽のない妖精。その衣装から枕に広がる毛先までが、精巧な芸術品だ。
彼女――エレノアを石にしたのは、彼の魔法だった。
これ以上苦しまないようにと。
彼女のこの姿は、言ってしまえば、彼の最たる愛情の証なのだろう。
一日に二度はこうして見舞いに来る魔王陛下を、先代魔王である子供はじっと見ていた。
――ビスは覚えている。
ルイ・スティラスと名乗った人間にとって、魔王城攻略など片手間扱いだった事実を。
小難しい魔術やら薬品やらを研究し、気分転換として妻を見舞う生活の中で、時々外に出たくなる時がある。そして『素材』とやらが足りなくなるときがある。そういった場合に空を飛んで着々と魔王城への距離を縮め、ついでに素材を集めながら、着いた位置に転移魔法陣を敷いて帰宅するということを繰り返していた。
途中で罠や高位の魔族に遭っただろうに、それさえも彼の中ではそう存在感のない記憶だというのだ。
『……ああ、いたな。貴重な素材をいくつも。ありがとう』
『アンタのためじゃねーからにゃん』
血の滴る袋を片手に、何でもないことのように言われた。ついでに律儀に礼を言われた。
そのルイ曰く、魔王城に来た理由は彼女との新居が欲しかったからだとか。
人がいなくて、広くて、静かで、快適な所――と考えた末に真っ先に思いついたのが魔王城であったとか。
常識的に大人しく新婚向けの一戸建て買っとけよバカップルかよ! にゃんっ!!
高確率でこちらの胃に穴が空きそうな色ボケ同居人は死んでも嫌だ。この城の主としてそれだけはさせてはいけない。
こんな心からの叫びは、ルイの暗くぎらついた瞳を前に霧散した。
魔王としての実力を自負していたビスは、動揺を隠せぬままに魔術師一人に惨敗し、横っ面を叩かれたような心地になった。彼は恐らく人間を超越して魔族をも軽く飛び越えた新種の何かなのだろう。
魔王の運命として、このまま殺されるのだろうなと考えていたけれど、
『ここの居住権を獲得できただけでいい。殺しはしない』
と言われて困惑した。
魔王が実力で敗れ、尚も魔王と名乗っているなんて、ビスの矜持が許さなかった。だからルイには、準備ができたら城主に――魔王になってくれるという約束を取り付けた。ルイも、そうなることは予想していたらしい。
常識外の魔力の威圧感を除けば、ルイの傍は心地の良いものだった。
――ビスは覚えている。
エレノアと初めて言葉を交わした時、初めに貰った言葉は『ルミーナちゃん?』だったことを。
たまたまルイが席を外して、その場にたまたまビスがいて、たまたま「すぐに戻る」と待機を命じられて、たまたま彼女が目を覚ましたのだ。そしてそれがたまたま、エレノアとの初対面だった。
ルミーナ。聞き覚えのない名前だ。明らかに、呼ばれたのは自分ではなかった。
けれどこの場にいるのは自分しかいないので、ビスは答えてやることにした。
『ルミーナって誰? にゃん?』
『……あれ……?』
彼女は、少し驚いたようだった。『おれのことは、ビスって呼んでよ』と軽く名前を教えてやった。
ルイの番だというからどんな女性だろうと思ったけれど、存外にぼんやりとした反応だった。何度も『びす……?』と名を転がされた。
考えてみれば、女性の柔らかい声で名を呼ばれるのは久しぶりだった。
胸がふわりと暖かくなった気がした。
尻尾を立てて、擦り寄ってしまいたい気持ちにもなったけれど、本来の自分はそんなに気安い猫ではない。自らを戒めた。
やがて彼女は何かを思い出したらしい。
『……びすまるく、……ビスマルクローゼ・ニルギリ・チェンバート?』
『にゃん?』
彼女に本名を名乗っただろうか。
ルイですら覚えていてくれるか怪しいくらいの長ったらしい文字列を、彼女はたどたどしく発音してくれた。
『ルイに聞いたのぉ?』
『そんなところかな』
ふ、と空気が動く。笑ってくれたのだなと思ったけれど、彼女は瞳を閉じてぼんやりしていて、表情がよく読めない。
エレノアが震える手をそっと伸ばしてきた。
ビスはその手をどうしていいかわからなくて、けれど彼女は目が見えないと聞いているから、たどたどしく掌を取ってやった。
『ここは、魔王城なのかな』
『そうだよぉ?』
『そっか……』
独りごちると、彼女はそっと目を閉じた。
ルイが連れてきた女性は、話に聞いていたように、よく眠るひとだった。
元々は、そうではなかったという。彼女の料理とお茶はとても美味しくて、その声は天上の竪琴よりも繊細に優美で、静かに微笑む人なのだと。
その全てを奪ったのが、ビスの大嫌いな、人間。
ルイも、エレノアも、人間が嫌いだ。だから二人は仲間だと、ビスは判断した。
そしてエレノアが再び眠ってしまって、数分後。ルイが用事から戻ってくると、彼女の手を取ったままでいるビスを見て首を傾げた。
『ビス……?』
『あ、これ、違うよ! おれじゃなくて、エレノアさんが手ぇ出したからさ!』
『……』
『ルイ?』
『起きたのか』
『あ』
『彼女が起きたんだな』
『……えっと』
『私は四日間も声を聴いてすらいない……』
『ごめん何も言えない』
『……叩き起こしましょうかね』
『止めてあげて!?』




