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魔物と師長と魔王様

 妖精を捕らえて、そこで彼女が無理に暴れたから羽が抜けた。

 そんなつもりはなかった。

 ただあのまま、薬になってくれれば良かった。


 男にとって、エレノアとルミーナの記憶などその程度だ。顔だってそれほど覚えていない。

 そしてこれまで――今に至るまでも、あの行いは当然のことだと言い張れる自信があった。


 自己犠牲はいつの時代も、どの本でも、どの歴史でも、英雄だ。父親だって祖父だって、そういった物語を賞賛していた。だからそうすることが正しいのだろうと、普遍の美徳を男は信じている。


 だから男は、あの日に皆を救える可能性を持ちながら、死を恐れて逃げて勝手に死んだという彼女たちを内心で責めてさえいた。

 自分の死で大衆を救えるなら、一人死ぬのは当然のことだ。自分がその立場であれば、喜んでその身を差し出すはずだ。哀しむ家族に泣かれて、切実な悲哀の中で人々の希望になれる。


 ――自分がその立場ならできた。できる、はずだ。


 けれど男はそんな『正義』を、この青年には晒せなかった。

 彼女たちの身内である青年を前にして、正義の心は縮こまって身を潜めた。

 あの日視線を合わせた、まだ筆頭だったルイに、少々の罪悪感が芽生えて目を逸らしてしまったことを思い出した。


 ルイは男の顎に人差し指を添える。愛しい女性にするように優艶な顔で、視線を無理に合わせた。

 ルイの瞳はらんらんと、得体の知れない闇で輝いていた。

 男の口から出るのは、正義がべろりと剥がれ落ちた本心だった。


「ルイ、様……っ」

「はい」

「違うんです、俺は、ただ、家内を!」

「家内を?」

「俺も、ただ、え、エレノア様を傷つけたいわけではなくて、あの時は仕方なく!」

「へえ、そうですか」


 だって守りたかったから、仕方のないことだった。男はそう主張する。守らなくてはいけなかった。愛しているから。

 ルイの笑みは動かない。

 言い募る男はどうにか距離を取ろうとして、けれど威圧感がそれを許さない。ぴくりとでも動けば殺されてしまうと、本気で思った。


 こてり。ルイが可愛らしく首を傾げた。その仕草の意味を、男はすぐに思い知る。


 ――「腕が!」


 人々がざわめいて、それでやっと男は、自分の腕の異変に気づいた。腕が異常に重たい。冷たい。ぎちぎちと機械のような動きで己の右腕を見れば、――凍っていた。

 巨大な氷に包まれていた。

 男がそれを認識してからやっと距離をとったルイは、ぱちりと指を鳴らした。

 男の右腕は、氷と共に砕け落ちる。


「がっ……!」


 透明な氷と、ねっとりと溢れた血液のコントラスト。

 誰の目から見ても、あまり綺麗だとは思えなかった。


「情けですよ。君が採ったのは一枚だけでしたので、片腕だけで良しとしておきます。妖精の羽の意味を考えれば、あと足の一本でも取っていきたいところですけれど。出血多量で亡くなられては意味がありません」


 ルイは男の言い分など真剣に聞いていなかった。

 観衆は、鬼畜とも言えるルイの所業に目を剥いた。

 けれどルイは最初から、この男にはこうするつもりだった。


 腕が腕がと呻いて崩折れた男の下に、青い魔法陣が敷かれた。

 男はそれに怯えて、助けを求めようと周囲を見た。血走った眼球をどこに動かしても、人々は目を逸らすか、眼に畏怖を表すだけだった。

 男の目前には、ただ静かで不気味な青年がいる。

 頼みの綱の宮廷魔術師はといえば、己の杖を抱きしめて立っているだけだった。動けないのか動かないのか、彼らは一様に冷や汗を垂れながしたまま硬直している。市民の守護者としては、もはや最底辺の存在になった。

 男の肌に脂汗が伝った。誰か助けてくれと願う。

 誰か、

 誰か、

 ――誰か!

 そんな男に応えるように、


「『捕縛』!」


 誰かが叫んだ。

 そうしてルイの周囲に出現したのは、小さな結界。曖昧な赤い光を放つそれに覆われたルイは、少し驚いたような顔をした。

 あの声は背後から聞こえたな、と無邪気に振り返ろうとした彼だけれど、その前に声の主は重々しく古代語を発音する。


「『×××・××・××××』」


 ルイが時々使うものと同じく、流暢だった。そして聞き覚えのある低い声だった。

 ――途端、結界の中で火が炸裂する。

 爆発が連鎖した。何度も何度も、鈍器で硬いものを殴りつけるような音が響く。けれど小さな結界がそれを軽減させた。

 零距離にいれば鼓膜が破れるほどの音と風そして炎が、一つ一つ容赦なく、彼に襲いかかる。

 煙が炎に追いやられて、その窮屈な空間内のどこに行こうかと逃げ惑う。

 ルイの足元にあった地面が円形の結界に閉じ込められてしまっていて、無残にも砕けて飛び散った。地面が砕けて石になって、砂になった。

 容赦のない爆発をいくつも生み出し、超高圧力を発生させて、その全てを最小限の一点集中で為せる確かな技量。


「……魔術師長……」


 女性魔術師が呼ぶ。姿を現したのは、苦々しい表情の魔術師長だった。

 彼の目線は、ルイがいるであろう地点から離れない。

 ちょうど五十五発目の爆発を最後に、音が止まった。

 力尽きて消えた結界から、黒い煙が逃げていく。内部に渦巻いていた圧力と熱は竜巻のような暴風を起こしたけれど、すぐに鎮まった。


「……皆さん逃げなかったんですか?」


 むしろこちらが驚きましたとばかりに平然と立っているのは、ルイだ。何をどうしたらそうなれるのか、衣服にすら一点の汚れもない。


「てっきり時間稼ぎかと思ったのですけど」

「……相変わらずの怪物が」

「お久しぶりですね、魔術師長。褒めていただいてありがとうございます」


 年老いた魔術師長と、もはや虐殺犯となったルイが対峙する。


「先ほどの魔法は、最高位多重魔術――調律魔術ですか。素晴らしい、さすが長年師長を任されるだけのことはありますね。僕の魔術の一端も、貴方の教えや研究があってこそです。これでも感謝しているんですよ」


 ――どうかそのまま、僕の踏み台になってください。


 ルイは()()()()()()()()()()()()()を口にする、


「『×××・××・××××』」


 魔術師長が狭い結界に閉じ込められて、五十五発の爆発に巻き込まれた。

 先と全く同じ発音、同じ規模、同じ圧力。

 けれど解放された対象が、重度の火傷を負って倒れたのは同じではなかった。

 師長、と誰かが呟いた。

 

 ルイを阻める者は誰もいない。

 ルイの魔法を誰よりも知っているのは、研究所の元部下たちだ。

 この事態は、天災だ。神に愛されたと言わしめる才能は、もはや呪わしき災害だった。


 宮廷魔術師全員に最初から『捕縛』の魔法がかかっていたのは、幸せなことだ。

 魔術耐性の数値が人並み以上に高い魔術師でさえ、この様だ。たとえ此処にランクAやそこらの魔法防御アイテムがあっても、意味を持たないのかもしれない。


 事情を知らない男は、動かない彼らを罵倒したくもなった。腕がない現実が信じられない。屈辱で、痛くて、たまらない。

「お待たせしました」と再び向けられた微笑みに、男は背筋をぞくりと震わせる。

 青い魔法陣が再開された。恐れる男に、ルイは「ただの転移魔法ですよ。王都の外へ出してあげます。魔物はいませんので、襲われはしないでしょう」と言った。

 男は僅かに顔を和らげた。

 腕の一本で許されたのだと思った。

 そして外に出られるのなら、共に行かなければいけない者もいた。


「待ってくれ、此処を出るなら、家内も、此処に来ているはずだから、それほど待たせはしませんから」

「はい?」


 ルイは、男の言葉に首を傾げた。


「それでは意味がないので、嫌です」


 そしてからからと笑った。


「入ってくる際に、王都を覆う結界は僕の支配下とさせて頂きました。結界は太陽が昇ると同時に消しますし、魔物も撤退させるつもりです。それまで貴方の奥様が無事でいられるよう、よくお祈りしておきましょうね」

「え……?」

「ちなみに移動用魔法陣も書き換えておきましたので、戻すにも時間がかかるでしょう。貴方は一足お先に外へ出られますよ、良かったですね。どうぞ後顧を憂うことなく存分に生きてください」

「待て! シャル、シャルッ! ……頼むから!」


 シャルとは、男の妻の名だろう。

 男はこの敷地内にいるはずの女性を探した。遠くで「あなた!」と叫ぶ声がする。

 男はその声にはっとした。光を強くしていく魔法陣から離れようと足掻くけれど、その身はすぐに見えない鎖で縛られた。

 男はすぐに消えてなくなった。お前は悪魔だという一言を残して。

 しん、とする。

 重苦しい静寂は、悲痛や怒りや、暗い感情を複雑に表していた。


「そういえば、クレアはどうしました?」


 答えは無言である。

 唯一対等に話せていた魔術師長は。もはや口が利けない状態だ。

 ルイは記憶を探り、「キーリ・ルナーク」適当な名前を声に出した。

 呼ばれた男はローブの下で生まれたての小鹿のように脚を震わせながら、掠れる声で答える。


「く、クレアさんは、……王都を、出たと聞きました」

「それは良かった」


 ルイは「ありがとうございます」とお礼を言った。その舌の根も乾かぬうちに、今度は古代語を囁く。単語か文章かもわからない言葉が終わると同時に、


 ――どんっ。


 鳴った。近すぎて、唐突すぎて、音源はわからなかった。

 地面が罅割れるほどの振動。地響きは余韻を残したけれど、それを忘れてしまえるような、さらに存在感のある音がした。

 ごおおお、と。

 皆は、なんだろうと思った。やがて子供が上を指して叫ぶ。


「火事だ……!」


 真っ白な王城が赤くなっていた。

 王都のシンボルが大火に包まれる姿は、誰の瞳にも大きく映った。

 人々は一瞬の沈黙を落として、一声を皮切りに、一気に暴発する。


「っきゃああぁああああぁあぁああああああああああ!」「あ、うあ、あああ、……あ」「っミリア! ミリアはどこに!」「やめてください!」「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」「私はどうなってもいい、息子は、あの子だけは!」「俺はあの時いなかった! 無関係じゃないか!」「なんだってんだよ……たかが妖精一匹……っ」「狂ってる!」「あんただってあの時、妖精殺せって言っただろ! 今更無関係面してんじゃねえよ!」「みんな落ち着いて!」「コレット!」「なんで……あんなに、だって、ルイ様は優しい方だったわ!」「バカ、走れ!」「どこに逃げろっていうのよ!?」「お父さん! どこにいるの!」「ねえしっかりしてよ、立ってよ、逃げようよ!」「ここには怪我人がいるのよ!」「外には魔物がいる!」「邪魔だババア!」「ここに居るよりいいだろう!」「ルイさま、ルイ様! 覚えておられますか、私です、貴方に助けていただいた……っ」「くっそ、なんでこんなことにっ」「あなた、しっかりして……」「死ぬのは嫌!」「おかあさん、痛い、いたい!」


 沢山の「ごめんなさい」「ばけもの」「にげろ」「どこに」「まもの」「たすけて」「あやまるから」が、敷地内に飽和する。

 混乱は極まった。

 皆が叫び、恐怖に慄き、むやみに走って転んで怪我をした。行く宛のない憤りやら、焦りを他人に向ける人間もいた。全員が無自覚に、日常が崩壊する手助けをし始めた。


 ルイは興味を失くしたのか、大門の方にそっと移動する。

 ここにいる意味はなくなった。

 魔術師一同からルイに、遠慮容赦のない魔術が飛ばされていく。炎だったり、氷だったり。けれどルイの前ではどれもそよ風同然で、不自然に軌道をずらされ、掠りもしない。

 彼等を眺めながら、ルイはゆったり歩いた。


 約三年前にもなる魔物襲撃事件で、ルイは『人間の味方にはなれない』と悟った宮廷魔術師の辞職を応援した。あの王にフェアリー・テイルを与えてまで、約二十人の部下を自由にしてやった。

 人を守る義務のある宮廷魔術師。その場を辞するまでの時間は、十分に与えた。

 いま残っている魔術師にも、まだ甘さを残している。

 魔術を使えば生きて残れるだろう。

 ルイは、大門脇の壁に寄りかかって大欠伸をかましていたビスを呼んだ。ビスは尻尾をぴょこんと立てて彼に駆け寄る。


「もういいかにゃん?」

「ああ、待たせたな。後は好きにしろ」

「はいはーいっ」


 ルイは背を向けたまま、魔術師たちにかけていた拘束を解いた。

 大門からは、人の匂いを嗅ぎつけた魔物が目を光らせていた。何対もの赤い眼光が覗いている。ルイがそこに向かっていくと、魔物は彼一人分の道を開けた。そして彼が通ったあとは、待っていましたとばかりに多くの魔物が入ってきた。


「さてさて、好きにしていいって、言われちゃった、なあ」


 ビスは、指を鳴らす。ごきりと、関節が折れたような音がしたけれど、それはビスの準備運動だった。血管と筋がびきびき浮かぶ。凶悪的な爪が伸びる。

 ルイは振り返らなかった。最初から最後まで妖しい笑みを貼り付けたまま。かつりかつりと、割れた石畳を鳴らして、燃える街を歩いた。


 その一夜で、王都グレノールは廃都と化した。

 この事件を起爆剤として、新魔王就任の悲報は各地に知れ渡る。

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