悪魔と王都と魔王様
小さな身体が地面を這う。
背中の傷口から流れる血液が白いワンピースに染み込んで、それが地面に擦れるから、彼女が通った跡は赤い道が敷かれていた。
両腕を、必死に動かして進もうとする。埃や砂が、赤くなった衣服をさらに黒くした。
顔は、涙や唾液で濡れていた。
人間の歩幅で一歩分の距離を、彼女は三十秒もかけて移動した。
悪魔たちの影がかかる。
見慣れたローブを着た三人の悪魔のうち一人が、彼女の片腕を軽く踏んだ。力はかけていないようだ。けれど彼女からすれば、悪魔の足は、己の何倍も大きな壁だった。悪魔は巨人のように大きい。悪魔が足を少しずらすだけで、彼女の頭を簡単に潰してしまえるのだ。
彼女は乱れた銀髪から覗く顔を真っ青にして、悪魔に懇願する。
唇の動きからすると、「やめて」と言っているように見えた。
悪魔は笑った。
足が――硬い革靴の踵部分が、彼女の腕を潰した。
彼女は叫んだ。声は聞こえない。
ぐりぐりと動かされる足に、呆気なく砕かれていく細い腕。
しばらくそうしてから、悪魔の足は離される。踵の下にあった腕はひしゃげて、醜くなっていた。
彼女は何も言わなかった。ぼろぼろと溢れる涙をそのままに、唇を噛み締めて、今度は片腕だけで進む。
彼女のすぐ傍で、悪魔たちが大きく笑う。
笑いものの彼女は潰された腕から新たな血液を流しながら、出口を目指した。そうしながら一度だけ、妹分の名を呼んだ。
――このような音のない夢には様々なパターンがあったけれど、繋ぎ合わせてみればストーリー仕立てで纏まっていた。
羽をもがれた上に安全な場所から追い立てられて、悪魔に捕まって、甚振られる。
愛する彼女は何度だっていじめられて死にかけた。妹はいつも途中で消えてしまった。
夢を見始めて、最初のうちはがむしゃらに止めようとしたルイだけれど、今は見守るだけになった。
こんな胸糞悪い光景はきっと、彼女からのメッセージなのだ。
彼女はもう話せない。
いつの間にか、彼女の声が出なくなっていた。
彼女のお茶の味も忘れた。
彼女を生かすために痛みを強いたけれど、もう無理だった。
そして、彼女が羽をなくして一年になる、ある雪の日。
何も感じずに、考えずにいられるような体になってもらった。
今も。
死んではいない。
ただ、生きてもいない。
*
「唯一の肉親を殺された報復にと、相手の家族三人を殺した場合、どちらの罪が重いのだろうな」
「普通に考えれば、三人殺した方か、にゃん」
悲鳴。咆哮。崩れる家々。
「だが絶望感を同一にしなくては対等にはならない。対等にならなければ、復讐できたと納得できないだろう」
「んん、……支えてくれる家族がいるのといないのとじゃぁ、大違い、ってこと?」
「そうだな。それに先の一人が殺されなければ、もう三人が殺されることもなかっただろう。……そう難しい例えをする必要もないか。ただ私は、先に手を出した方が悪いのだと思う」
「そうだねえ、これを見ればわかるよ」
火炎。黒煙。焦げる街路樹。
「あっはは! 流石にこれでは規模が違いすぎるだろうに」
それらを冷めた眼差しで眺めつつ、彼は相方の反応に吹き出した。火の粉を伴った熱風に金髪を遊ばせながら、腹を抱える。
隣に猫耳の子供を伴って、懐かしい大通りを悠々と歩いていた。おぞましい見た目の犬型の魔物や、猿のような魔物が街を破壊している傍を。
彼は己の生家が残っていることを確認してから、あの日とは逆の道筋を辿っていた。ここを真っ直ぐに歩いていけば、王城だ。
まだくすくすと笑い止まない彼を、子供は呆れたように一瞥した。そんな子供に何を思ったか、彼は手を伸ばす。
「手を繋ごうか?」
男性らしい手は、白い手袋を纏っている。子供は、きっと兄とはこんなものなのだろうと思った。さすがに黒い軍服のような服装の男なんて、多くの魔物の中でもなかなか見ないのだけれど。
子供は彼の金色の飾緒が揺れているのが気になっていて、手を出したくて仕方がない本能を抑えて、ぷいっと顔を背ける。
「子供扱いするな……、するにゃ」
「わざわざ言い直す必要があったのか」
「子供、扱い、するにゃ!」
道端に人が呻いていて、どこかで建物が倒壊して、星空さえ見えない、煙に包まれた夜。
かつ、かつ、と石畳を踏み鳴らして、彼らは進む。
不謹慎に軽い会話を続けていた彼は、ふと足を止めた。
彼の目線の先には、立ち並ぶ街灯の中の一本。
その街灯の根元には水溜りが張っていて、火が燃え盛る様子を映していた。水の元を辿っていけば、見覚えのある魚屋がある。保存用の氷が溶けたのだろうか。
彼は魚屋の、燃え焦げていく看板を見た。
――は、と鼻で笑った。
目をつけていた一灯へ指先を向けると、その周囲に風が渦巻いた。きゅるきゅると何かを引き絞っていくような音を立てながら、風はより固く、より強く、加速していく。竜巻に纏わりつかれたその街灯は、螺子のように捻じ曲がった鉄棒になった。
過去、彼が人のために為したこと。
その全ては間違いだった。
ここ、王都グレノールに遺した様々な功績が、今や灰色に凝り固まった過ちの歴史として、彼の胸に重い影を落としていた。
彼と子供は王宮へ向かう。
なだらかに展開する高い壁は王城の敷地を囲っている。大門は開いて、まだちらほらと駆け込む避難民を受け入れていた。
上空を見上げれば、透明な壁が半球状に張られていた。そしてさらに高くには、王都そのものを囲う大規模なものも見える。
「……へえ」
「なあに?」
「何もかもが、あの日のままだな」
大門に近づくと、結界はやはり彼等を拒んだ。
彼が手を大門に差し出すと、ばちりと弾く。
「これは?」
「魔物結界だ。私も魔のものと認識されているらしい。……だが、」
彼は、大門の向こうにいる魔術師と目が合った。その若い男性魔術師の顔に、深い喜色が浮かぶ。大門に突っ立っている彼に駆け寄っていこうとした。希望を見つけたような明るい表情をして、安心感からか泣きそうにもなって、魔術師はだんだん大門への距離を縮めていった。
あと十歩というところで、魔術師は突然に、ぴたりと足を止めた。
「っ……」
愕然、だった。
先ほどと一転して、化物を見たように驚愕する宮廷魔術師は、一歩、また一歩と後退していく。
彼――ルイが、結界に弾かれた事実を認めた。
そんな宮廷魔術師の様子に気づいた周囲の人間が、同じく大門の方向を見る。
そして喜びから恐怖への変遷の様子も、同様だった。
ルイはにこりと微笑むと、結界をこんこんと、ノックした。
「お邪魔します」
――ぱりん。
軽い音を鳴らして、結界は破られた。結界を張ることに集中していた何人もの宮廷魔術師が、疲労に膝を着く。そして真正面から大門を突破してきたルイに目を留めると、また顔色を失くすのだった。
「……筆頭……?」
誰かが呟いた。それを拾った彼が、穏やかに答える。
「今の筆頭はアルスなのでしょう?」
相変わらず端整な造形の貌は、優しげな微笑みの中にも色気を感じさせる。元より美しかった少年は今、青年期で一等輝く時期にある。
けれど、不気味だ。
柔く微笑んでいる背後で、あんなにも轟々と――燃えている。何もかもが。人の生活が、あるいは人そのものが、燃えているのに。
あの地獄を歩いて見てきたのだろうに。
けれどその炎さえも味方につけたように堂々と、かつての宮廷魔術師筆頭はそこに立っていた。街を包む熱色の光に縁どられて、神々しくもあった。
そして何より禍々しかった。
「ルイ様が、これを……こんなことを……?」
「ええ、僕が指示しました。あの日によく似ているでしょう。魔物も季節も揃えたつもりです。尤も、規模が違うのですけれど。無理に『様』なんて付けなくて結構ですよ? もう君達に敬われる存在ではない自覚はありますので」
市民を庇うように前へ出てきた黒衣の集団の約九割が、ルイも知っている顔だ。
元部下の一人が、ルイに叫ぶ。
「エレノアさんと妹さんが、こんなこと……許しますかッ!?」
「え? ……まあ、許してはくれなさそうですね。ルミーナなんかは、間違いなく」
ルイは日常会話の続きのように返した。
「その、『許さない』と叱ってくれそうな優しい彼女たちを、ここの人たちに殺された。……それを考えると、もう様々なことが馬鹿らしくなってしまって」
それも、片方は散々に甚振られた末に、ゆっくりじわじわと廃人のようになってしまいましてね。本当にこの街の住民には頭が下がる思いですよ――と。
誰かが「でもそんなこと言ったって……!」呻くように訴えた。これは理不尽だ。何の生産性もないし、救いもない。何の意味もない。報復のつもりなら、これはやりすぎなのだと。
老若男女問わずあちらこちらから囁かれた、一般的な意見だった。その声が大きくなっていくたび、ルイの元部下たちの顔色が可哀想なほど褪せていく。
かくいうルイ自身も、明らかに一般からは外れた所業と理解はしていた。
だけれど、開き直った人間ほど悪質なものはない。
「理不尽? ええ、そうでしょうね。僕が憎らしいでしょう? どうぞ殺しに来てください。今の僕を誰が殺したところで、その方は罪には問われません」
彼の背後では、ビスがつまらなそうに大あくびをしていた。
ルイは何かを思い出して、両手を打つ。それだけでびくりと肩を竦める魔術師など気にもとめずに、「ただし――」と言葉を切った。
そして、ルイが消える。
魔術師たちが焦って周囲を見渡していると、ルイとビスを遠巻きにしていた人の群れが、ざあっと割れた。不自然な空白ができた。その中央にルイと、恐怖に顔を歪ませた男がいた。
「ひっ……」
「貴方には、僕を殺す権利すら与えたくありませんね」
男は、エレノアの羽を奪った最初の一人だった。




