6. バーンティスト侯爵家の兄妹
記憶が蘇って三月あまり。
インスフィア公爵邸の庭園にて、私こと、イリアーナ・メルス・インスフィアは只今大切なお客様を迎えております。
一人は友人のセレナ。
そしてもう一人は、セレナの兄上であり、バーンティスト侯爵家嫡男でもある、フェラン・バーンティスト様です。
「先日の舞踏会、とても楽しかったですわね、お姉さま」
少し切れ長の碧の瞳をキラキラさせてセレナが微笑みかけてきます。
「そうね、セレナ。私も初めての舞踏会で少し緊張しましたけど、セレナやフェラン兄様がずっと側に居てくれてすごく心強かったですわ」
『安息の眠り』の弊害から解放された私は、ようやく魔法師様から外出の許可が下り、初めて王宮の舞踏会に出席いたしました。
女神の祝祭と言われる夏の初めに行われるその舞踏会は、世界を見守るとされる神々の一柱たる月の女神に感謝をささげる宴なのです。
その為、参加する貴族の令嬢は皆女神の如く着飾り、その美を競う事でも知られております。
おりしもそれは、ヒロインが伯爵家に引き取られたのち初めて出席する舞踏会でもあり、そして、攻略対象者たちとの出会いイベント発生の場でもあるのです。
今年の舞踏会では、ヒロインらしき令嬢はいませんでしたわね。
ゲーム通りとすれば来年のイベントになりますが、もしかしたら、ということもありますので警戒していたのですけれど、杞憂で良かったですわ。
「当たり前ですわ、お姉さま。……あんな危険地帯、お姉さまを一人になんて出来ませんわよ」
「き…危険地帯?」
なにをもって危険地帯と言うのかは分かりませんが、セレナは何かを思い出したかのように顔を顰めております。舞踏会で、何か嫌な事でもあったのでしょうか?
「なんでもありませんわ、お姉さま。それより、お兄様のエスコートで大丈夫でしたか?」
「おい……」
セレナの言葉に思わず笑みが零れます。
憮然とした表情でお茶を飲むフェラン様――私は親しみを込めてフェラン兄様と呼んでおります――は、少し赤みがかった金髪に母親譲りの――お二人のお母様が私の父様の妹なのです――琥珀の瞳をしたとても優しげな青年ですわ。
ただ、セレナとよく似た切れ長の瞳が相手に威圧を与えるらしく、王宮では近寄りがたく思われているようです。いつだったかセレナが、「お兄様は他人にはとても無愛想よ」と言っていたのを思い出します。
そんなことはありませんのに。
フェラン兄様は、普段はとても優しくて、まるで、もう一人の兄上様のようでセレナ同様大切な従兄妹ですわ。
「ふふふ。とても助かりましたわ。その日は、ちょうど一の兄上様も二の兄上様も別件で舞踏会に出席なさるので、私のエスコートは出来なかったのですもの」
「確か、シャリアンは王太子殿下と行動を共にしていたのだったな。カイレムは…」
「王太子殿下の護衛ですわ」
「近衛騎士だったな」
「はい。ですから、当日誰にエスコートを頼むかで悩んでいたのです」
実際、フェラン兄様に決まるまですごく悩みました。
だって、兄上様のどちらかがエスコートして下さるとばかり思っていたのですもの。それが無理だと知った時には、誰も私をエスコートして下さらないかも、と真剣に悩みましたわ。知らない殿方は苦手ですし、それ以前に、エスコートの申し込みすらなかったのですもの……。
舞踏会の10日ほど前になって初めて、一の兄上様からフェラン兄様が承諾して下さったと聞き、とても喜びましたわ。だから、フェラン兄様にはとても感謝しているのです。
「聞きましたわよ、なんでもエスコートの申し込みが殺到したって」
「えっ?」
セレナの言葉に、一瞬思考が停止いたしました。
エスコートが殺到していた?
「あら、その様子だと、お姉さまは知らなかったのですね?」
「何の事?」
「社交界ではちょっとした騒ぎになっていたのよ。『眠れる月の女神』がついに地上に舞い降りる、と」
私の疑問に、セレナは少し得意げな表情でそう答えました。
「……はい?」
なんですか、その噂は―――!?
『眠れる月の女神』って――ああ、前にもセレナがおっしゃっていたわね。ではなくて、誰が『眠れる月の女神』なのですか? 私? 私なのですか、それ?
「ですから、お姉さまが舞踏会に出席なさると噂で聞いた貴族の子弟がこぞってシャリアン様に申し込んだのですって。ぜひ妹君のエスコートをさせてほしい、ってね」
顔が引き攣るのを止められません。
私の知らないところで、かなり物騒な事になっていたようです。
「余りのしつこさに頭を抱えていたなシャリアン」
「お兄様は、王宮でその様子をご覧になっていたのでしょう?」
「ああ……。泰然自若なあいつからは想像できないくらいに疲弊していた。珍しく声を荒げていたからな」
「それほどですか?」
一の兄上様が声を荒げるなど余程の事です。
「あのシャリアンに似ていると言われるインスフィア公爵家秘蔵の令嬢のエスコートだ。馬鹿な男どもが躍起になるのは分からないでもないが、さすがにやりすぎだ」
「シャリアン様、女の目線で見ても美しいですものね。れっきとした男性なのに、妙に色気があるというか、下手をすればそこら辺の令嬢より格段に美人ですわよ」
セレナ……それ禁句。
一の兄上様はとても美しい容姿をしていて、陰では「月の女神」と言われているとかいないとか。その比喩をことのほか嫌っている一の兄上様は、美しいとか、美人と形容される事を毛嫌いしているのです。
「……それ、一の兄上様に言わないで下さいね」
「……当たり前ですわ。私だって命は惜しいですもの」
「お前たち……」
私たちの会話に、フェラン兄様は眉間を押さえながら項垂れておりました。
「そのシャリアン様に瓜二つと言われるお姉さまのエスコートですもの。あわよくば、そのままお姉さまと縁を結びたい、と考える殿方も多いのでは?」
「シャリアンもそれを危惧していた」
「一の兄上様が?」
「内密に縁談を持ちかける奴もいたらしい」
「私にですか!」
それは驚きです。
今まで、そのようなお話は一度だってありませんでしたもの。
「驚くことではないでしょう、お姉さま。お姉さまが魔法具から解放されたのは、すでに知るところとなっていますもの。これからもっと増えますわよ」
「…増える」
「収拾がつかなくなる前に伯父上やシャリアンが動きそうだがな……」
「それは同感ですわ、お兄様」
何でもない事のように語るセレナとフェラン兄様の会話にますます顔が引き攣るのを止められません。
父様と一の兄上様が私の縁談で動くという事は、いずれ私にそのようなお話があるという事ですか? 私が知らないだけで、もしかしてすでに決められたお相手がいるとか?
複雑な心境です。
公爵家に生まれた以上、政略結婚もあり得ると理解してはいましたが、いざ現実になるとすんなり許容できない自分もいるのです。
父様と母様のように恋をして結ばれるというのは夢でしかないのでしょうか…。
「でも良かったではないですか、お兄様。シャリアン様が馬鹿な貴族子弟に嫌気がさしたおかげでお姉さまのエスコートが出来たのです。願ったり叶ったりではありませんか?」
セレナが深刻になりかけていた場の空気を変えるかのように、殊更明るくフェラン兄様に問いかけました。
「………」
「お兄様、無言は肯定と受け取りますわよ」
「セレナ、おまえな~……」
セレナの言葉に肩を落とすフェラン兄様は、僅かに苦笑を浮かべると、「確かに間違いではないな」と小さく呟きました。
フェラン兄様が私のエスコートを嫌がっていなかったというのはとても嬉しい事ですが……。
「あの、フェラン兄様?」
私は、兄様にエスコートして頂くにあたって、一つだけ懸念があったのです。
「ん?」
「エスコートして下さったこと、本当に感謝しております。でも、いくら一の兄上様や父様に頼まれたとは言っても、フェラン兄様には他にエスコートするご令嬢がいたのではないのですか?」
お名前や身分は存じませんが――侯爵家嫡男のフェラン兄様が無下に出来ないとすれば、相当、身分の高い御方とは思います――フェラン兄様に付き纏う令嬢がいるとセレナに聞いていたのです。
「お姉さまが気になさる事ではありませんわ。あの方…誰、とは言いませんけど、本当にしつこいくらいお兄様に付き纏っていらっしゃったのですもの。本当に今回は好い気味でしたわ!」
セ…セレナ? なんか、悪役令嬢のようですわよ。
「お兄様だってそうお思いになるでしょう? お姉さまのエスコートを頼まれた時、ものすごく喜んでいたではないですか!」
「セレナ!」
「あら、隠すことではないでしょう? 二月ほど前、魔法師様が守護の誓いをお姉さまになさったと聞いて顔色を変えていらしたくせに」
「どうしてそれを知っているのですか!?」
今度は私が驚く番です。
どうして、魔法師様が誓いの言葉を告げたと知っているのでしょうか?
あの場に居た家族や、私の専属侍女、護衛騎士以外は知らないはずなのですけど…。
「ふふふふ。わたくしの情報網、甘く見ない事ですわね、お姉さま」
「セ…セレナ?」
「お姉さまの事ならどんな情報だって仕入れて見せますわ! 例え、公爵邸の中、王城の中でさえ!」
セレナ、その情報網はどこ?
公爵邸の中? は、侍女や護衛騎士は絶対にありえないですから――私の事に関して守秘義務があるのです――おそらく一の兄上様、ですわね。
セレナを私同様可愛がっておりますもの。私の事を頼むついでにいろんなことを話している気がいたします。
王城の中? は、おそらくディレム様でしょう。
私が記憶を取り戻した日以来、セレナとディレム様は急激に仲が進展しているみたいで、それは良い事なのですが……、なぜか「お姉さまについて語るととてもお話が弾むのです」と嬉々として報告を受けた時にはさすがにそれはどうかと思いましたわ。
もっとこう、将来の事とか、相手の事とか、恋人らしい会話というものがあるでしょう、と伝えましたら、「ディレム様、お姉さまのお話をしているわたくしが可愛いとおっしゃって下さいましたの」と惚気られてしまいました。
はい…もうお好きにしてください。
セレナが幸せなら何も申しません………。
「…イリアーナ、本当なのか?」
「何がですの?」
「魔法師…いや、キアノス殿が誓いの言葉を告げたというのは…」
どこか語尾を濁す様にフェラン兄様が訊ねてこられました。
魔法師様の真偽を確かめようとしているのでしょうか?
「冗談のようですけど本当の事ですわ。おそらく、私の行動を訝しんでの牽制のつもりだったのではないかと思いますが…」
「冗談、とは思わないが…行動を訝しむ?」
「実は私…『安息の眠り』の効果が完全に切れているの? とか、何時ごろから外出できますの? とか、しつこいくらいに訊ねたことがありまして……」
「なぜそのような事を?」
フェラン兄様の声が微妙に固くなっております。
僅かですが、目も据わっております。
私の行動をかなり訝しんでいる証拠ですね。
兄上様たちはこのことについて何も追求しませんでしたが、フェラン兄様はそうはいかないようです。
「イリアーナ、正直に話しなさい…」
にっこりと滅多に見せない笑みを浮かべ私を見るフェラン兄様から視線を外し――フェラン兄様がにっこりと笑う時は絶対に逆らってはいけない。これ、幼いころの教訓です――セレナを見ると、こちらも同じような笑みを浮かべて私を見ておられました。
逃げ場がない―――
ああ…これは正直に話さないと、後でばれた時が恐ろしいですわね。絶対にお仕置きが待っておりますわ……!
一日中、監視付で淑女教育とかはまだ良いですけれど、確か、庭園の草取りとか、屋敷中の掃除というのもありましたわよね~。セレナと二人で、泣きながら作業していたのは言うまでもないです。
その時ばかりは、にこやかに見ていた兄上様たちを恨みましたわ。だって、掃除はまだしも草取りは……ね。だって、見つけるんですもの、なぜか……。ミのつく細長いものとか、ヘのつく細長いものを―――!
「……街に行きたかったのですわ」
「「はい?」」
観念したように小さく呟いた私の言葉に、フェラン兄様とセレナが同時に声を出しました。
「ですから、お守りの効果が無くなっていれば、突然眠りに襲われることもなく外出もできますでしょう? 私、王都の街を探索したかったのですわ!」
「それは無謀だろう!」
「それは無謀すぎますわ!」
揃って席を立ちあがり、声をそろえて窘めるその姿に、さすがはご兄妹、と思ってしまいました。
そんなに無謀ではないと思いますが、駄目ですか? 一人での外出?
「駄目に決まっているだろう!」
「駄目に決まってますでしょう!」
……はい。―――ひとりでの外出は、あきらめます。
ありがとうございました。




