29. 遠い過去の夢
「……ユイアナさんは、本当にアーク様とのエンディングを目指しているのでしょうか?」
「お嬢様……?」
寝台に入り、ぽつりと呟いた私に、ロンナが心配そうに声をかけてきます。
「……なんでもないわ、ロンナ」
「……そうですか。では、私たちはこちらで控えておりますので、お嬢様はゆっくりとお休みください」
「ありがとう……」
側を離れるのを躊躇うように僅かに逡巡した後、ロンナとセシャは隣り合わせの客室に戻っていきました。
「また、みんなに心配をかけていますね、私は……」
皆に心配をかけているのは分かっているのです。
でも、こればかりは言う事が出来ないのです。
だってこれは、未来視としてではなくて、前世の記憶として話さなくてはいけなくなりますもの。
無理やり私から聞き出した魔法師様は、半信半疑なのだろうけれど信じてはくださいました。きっと、皆も戸惑いはあるかもしれませんが、話せば信じてくれるようにも思います。けれど――――
私がまだ……告げるのに躊躇いがあるのです。
特にルキトや二の兄上様には言いにくいですわ。
ここがゲームの世界で、二人はヒロインに攻略される恋愛対象なのよ、なんて、言えるはずがありません。
「……はぁ」
眠らなきゃ、と思っていても、どうしても先ほどのお話が思い出されて眠れないのです。
伯爵子息様から聞いた、ヒロインの思惑―――
『市井にいる私の妹が話していたのです。近い将来、王太子殿下には幼馴染の婚約者が出来る、と。そして、来年の春に妹がその王太子殿下の婚約者と偶然に出会い、その出会いが、妹と殿下が出会うきっかけになるだろうと……』
ヒロインがアーク様とのエンディングを目指している。考えたくはありませんが、それは本当の事なのでしょう。伯爵子息様が嘘をおっしゃっているようには見えませんでしたもの。だからこそ、その言葉が、重く心に圧し掛かって来るのです。
「……どうしてアーク様なのですか?」
魔法師様は何も考えるな、とおっしゃっていました。
でも、そんなの無理ですわ。
ユイアナさんがアーク様と出会う? 恋仲になる?
ズキッ。
――――あっ。
一瞬走った胸の痛み。
それは止むことはなく、それどころか次第に鼓動が早鐘を打つように早くなってきました。息苦しさを誤魔化す様に寝返りを打ってみても一向に変わらなくて、更に追い打ちをかける様に身体が震えてくるのです。
怖い………。
ユイアナさんの目的が分かったからこそ余計に怖いのです。
だって、ユイアナさんが目指しているのは、私の知らない、攻略すらしていないルートなのです。これほど怖いと思ったことはありません。それに、これから先何が起こるかなど私には知りようがありませんもの。
本当に、どうしてこんな事に……。
私は、この世界が前世のゲームの世界だと知った時から、大好きなセレナが幸せになれば良いと、ただそれだけを願ってきた。その為に、出来る事を頑張ろうと思ってきた。
けれど、どうしてここでアーク様が関わってくるのですか。
もっとしっかりと遊びつくしてから壊せばよかった。
もっとしっかりと攻略を網羅していたなら―――
そんな事、願ってもどうしようもないと分かっています。叶う事など無いとも理解しています。でも、どうしても思ってしまうのです。
どうして遊びつくしてから壊さなかったの……と。
後悔先に立たず。
本当にその通りだと思います。
でも今更悔やんだところで、もう前世に戻ることは出来ない。ならば、突き進むしかないのではないでしょうか……? それに、こう思う自分もいるのです。
ゲームを壊した祟りの如く転生した私は、もし最後――隠しルート含め――までクリアしていたなら、今ここにはいないのではないかと……。
それはそれで悲しいものがあります。
この世界に生を受けて15年。
私にはすでに大切な人が沢山おります。そして、その大切な方々が息づくこの世界を、今の私はゲームの世界だと割り切ることは出来ません。だって、私は現にここで生きているのですもの。
それに、攻略対象である殿方一人ひとりを掘り下げてみても、ゲームとは全くの別人。おそらく、ユイアナさんがゲーム通りの選択を選んだところで、決して絆されるような方々ではない。彼らをよく知る私だからこそ確信を持って言えますわ。
でも、ヒロインが目指しているのは私の知る攻略対象ではなくてアーク様。
アーク様も大丈夫だと思いたい……信じたい。
けれど、それを確信できるほど、私はアーク様を知らないのです。
そう、知らない―――
はははっ………なんか、笑えてきます。
こんなに好きなのに……こんなに胸が苦しいのに………私はアーク様の事を何も知らない――――
脳裏に思い出されるのは恋しい人の姿。
優しい眼差しで私を見つめる紫色の瞳………。
アーク様に会いたい……です。
会ってお話して、この不安が無くなるほど沢山アーク様の事が知りたいです………。
でも――――
何度も繰り返し浮かぶのは伯爵子息様の言葉。
ヒロインがアーク様と出会うために行動しているという事実。
恋をしているって自覚して、ミエンナ様がいるからとあきらめるしかなくって、それでもアーク様からの手紙で希望を見出した途端にヒロインの目指しているエンディングがアーク様エンド?
もう、頭の中がめちゃくちゃです。
どうすれば良いのかさえ今の私には分かりません。
ねえ、神様、私、どうしてこの世界に転生してきたのでしょうか?
こんなに辛い思いをするのも、やはりゲームの祟りなのですか?
転生者であるユイアナさんがアーク様とのエンディングを目指しているなら、やはりアーク様はユイアナさんを選ぶのでしょうか。私とアーク様の繋がりなんて、今はまだ私の片恋でしかありませんもの。それにユイアナさんだってエンディングを目指して行動するだろうし、もしかしたら強制力だってあるかもしれません。
分かってる……。
前世の記憶を持って攻略を開始したヒロインに、ただのモブである私が敵うわけがないと分かっているけど………辛いのです。
アーク様が選ぶのが私ではなく、ユイアナさんだと思うだけで、すごく苦しいのです。
どうして、選りによってアーク様を攻略するのですか?
そう思う事は自分勝手な感情だと理解している。けれど、今だけは、私の醜い心をさらけ出すことを許してください。
「……眠りなさい」
そっと瞼に触れる、零れる涙を拭うような繊細な指先の感触。
うつらうつらとした意識の中で、優しく目を塞ぐようにそっと瞼に手が添えられる。
「魔法師様……。お嬢様は大丈夫でしょうか?」
心配そうに問いかけているのはロンナ?
では、この手は魔法師様なの……?
ああ、そういえば、後から来るとおっしゃっておりましたものね。
ロンナがいれたのでしょうか?
「微睡んではいるようですが、深く眠れないようですね」
「お嬢様に何があったのですか? ずっと、泣いているんですよ」
セシャの悲痛な声が胸を打ちます。
ロンナとセシャは、私が寝台に入った後も、心配して何度か様子を窺いに来ていたのですね。
「……その理由を私から言葉にすることは許されておりません。ですが―――」
ふわりと脳裏に伝わる温かな感触。
これは……神の力?
ゆっくりと体中めぐるように満たしていくその力に、私の心は次第に凪いでいきました。
「どうか貴女の見る夢が、優しいものでありますように――――」
囁きにも似たその声に導かれるように、いつの間にか私の深い眠りの淵に落ちていったのです。
優しい夢?
私の―――――夢?
だからなのでしょうか。
その夜に見た夢は、とても不思議で、とても懐かしいもので……そして、とても驚きに満ちたものでした……。
だって、その夢に現れた少年は―――――
『……約束だよ』
『やくそく?』
『大きくなったらここでまた会おう』
『また、あえるの?』
『うん、必ずだ』
『じゃあ、待ってる! この花の下で待ってるね』
咲き誇る桜の花が舞い散る中交わされた幼い約束。
花びらを掴もうと手を伸ばす小さな私を抱きかかえているのは、光のような金色の髪をした少年。
『たとえ君が僕を忘れても、僕は決して忘れないから……』
小さな私の肩に顔を埋める様にしてそう呟く少年の声は、どこか泣いているようにも聞こえて、私は思わず少年の頭を撫でておりました。
『…どうしたの?』
『ううん、なんでもないよ。絶対にまた会おうね』
『うん! 約束!』
どこか悲しそうに微笑む少年は、無邪気に約束の言葉を口にする私をぎゅっと抱きしめ、そのまま時間を忘れるかのようにずっと佇んでいました。
私をずっと見つめながら、乞うように、願うように、何度も約束を口にする少年の瞳は宝石のような紫色。
『約束ね―――――アーク』
そう、夢の中に現れた少年は―――アーク様。
降るような花びらの中、何度も約束と口にする幼い私は、少年の事を『アーク』と呼んでいたのです。
夢のはずなのに……。
これは、魔法師様が見せてくださった夢のはずなのに……。
どうしてこんなに懐かしいと思うのでしょう?
きっと目覚めたら忘れてしまうわね。
でも………。
それでも………。
これは夢だと分かっているけれど……。
………この約束だけは―――きっと忘れない。
◆ シャリアン視点 ◆
王都公爵家執務室。
「ここに居たのか? シャリアン」
領地に出向いている父に代わり雑務を熟していた私のもとに、珍しく王太子殿下が訪ねてきた。
「……護衛はどうしたのです、殿下」
「殿下は止めろ、アークで良い。あいつらは外にいる」
「外…? この寒空に貴方の私用で連れまわされたかわいそうな騎士たちを外に放置ですか? 何を考えているのです!」
「奴らは鍛えているからな、このくらいは平気だ」
「そうは言うけど今日は特に冷えているからね。屋敷の客間で休ませてるよ、兄さん」
「…カイレム」
そう言いながら殿下の後から部屋に足を踏み入れたのは、カイレム。
弟は、私の指示で街に出向いていたはずだが………。
「……収穫あり、だよ、兄さん」
にやりと笑うカイレムに、私も口角を上げる。
「そうか……」
カイレムがそう断言するなら、さぞかし面白い話が聞けることだろう。
「アークもここに来たという事は、目途が付いたと思っても良いのですか?」
「ああ、目途が付いたというか、あと少しで全てに片が付く。これで心置きなくイリアーナに会える」
心底嬉しそうに笑みを浮かべる殿下――アークに、なぜか無性に腹が立つ。
イリアーナの為だと理解していても、イリアーナが味わった苦しみは消えない。どうしてくれようか――――
「……シャリアン、何を考えている?」
私の纏う雰囲気が変わったのを察知したのか、アークが僅かに後退る。
「ははは、兄さんは、イリアーナから笑顔が消えたことをまだ根に持っているんだよ。未だに領地から帰ってきていないしね」
そう、例年なら一月もせずに戻るはずなのに、今年は年末が近いというのに未だに帰ってきていない。これほど長く妹と離れたのは初めてだ。学園時代でさえ週末には帰ってきていたのだから本当に今回は長い……。それもこれも――――
「………すまん」
私が睨みつける前に頭を下げるアーク。
思わず苦笑が浮かぶ。
ほんと、こういう素直なところは昔のままですね。
幼い頃は手のかかるもう一人の弟のように思っていた。母親同士仲が良かったのもあるが、アーク自身も良く公爵家に遊びに来ていたのだ。
そして悪戯が過ぎて私に説教をされる。
それは今も変わりはないが、やはり身分の隔たりを感じず接していられたのは、幼い時分だけ。
関係が変わり始めたのは、イリアーナが魔法具に縛られてから……だったか。
それまでは頻繁に一緒に過ごしていたのに、いまではそれも儘ならない。
それは仕方のない事。いずれは家臣として仕えることは決まっていたのだから、それが早まっただけと思えば事は済む。
だが、イリアーナは―――
思い出すのはイリアーナが魔法具を装着し始めた頃。
あの頃のイリアーナは、なぜか夢と現実の区別が曖昧になっていた。
魔法師が言うには魔法具を身に着けた弊害の一つだと言っていたが、魔法具を装着する前の現実を、夢の中の出来事、と思い込んでいたのだ。
夢ならば、いずれ忘れる。
そう危惧した通り、イリアーナは、アークの存在自体をすっかり記憶の中から忘れ去っていた。
けれど、当初はそれでも良いと思っていた。
なぜなら、それと同時期にアークに婚約話が浮上し、アーク自身、イリアーナと会うのを止められてしまったからだ。
仲の良い二人だった。
微笑ましいほどに、いつも一緒だった。
だから思った。
アークの存在がイリアーナの記憶から消えていくなら、イリアーナはアークを失い悲しむことは無い、と。
だがアークの方はそうはいかなかった。
事もあろうにアークは、浮上した婚約話を徹底的に排除し、尚且つイリアーナに会うのを禁じられたにも関わらず、見るだけなら良いだろう! と陛下に進言したのだ。
それを期限付きとはいえ、許す陛下もどうか、とは思うが………。
「はぁ……諦めの悪さは顕在か……」
一人愚痴る私を、アークは訝しそうに見ている。
私の気苦労も察してほしい。
アークがイリアーナを諦めないという事は、もし万が一陛下が決められた期限前にイリアーナが魔法具から解放されたら、アークは間違いなくイリアーナを欲する。それは間違い無い。アークのイリアーナに対する執着は折り紙付きだ。
だがその時、肝心のイリアーナが何も知らないでは済まされない。
そう、イリアーナには、公爵家令嬢としてだけではなく、王太子妃としての教育も必要になって来るのだ。
だから私は……私たち家族は、イリアーナが目覚めている間は徹底的に教育をした。いずれ魔法具から解放されて社交に出ても、何不自由なく渡り歩けるようにと。
その願いは功を奏し、イリアーナは見事社交デビューを果たした。
その姿、仕種、話術、諸々すべてにおいて、イリアーナの右に出るものはいないと自負している。これは、親の欲目、いや、兄の欲目で言っているわけではない。
未だに届けられる数多の文がそれを物語っている。そのすべてが、イリアーナとの縁組を願うものだからだ。きっと、これから更に増えていくことだろう。
それを知ったアークが、さらに焦ることになったのだが………。
まあ、何はともあれ、アークの原動力はイリアーナだと言って過言は無い。
ただ女に現を抜かすような愚かな奴ならとっくに見放していたが、どうやらそうではないらしい。
己の立場を理解している、という事かな。
現にアークはイリアーナを追って公爵領には行かなかった。
本心では行きたいと、自分の手でイリアーナを守りたいとそう思っていたはずだ。けれど、踏みとどまった。そして代わりに遣わしたのは、イリアーナを守る守護の一翼、魔法師キアノス。
気に食わない相手であるはずの彼に、アークは真摯に頭を下げていた。
本来なら在りえないこと。
いくら相手が――秘されてはいるが――隣国の皇子であろうとも、魔法師として存在する彼に頭を下げるなどあってはならない。
けれど、その姿こそ――王太子という立場の貴方が自ら頭を下げてまで託すその姿にこそ私は、貴方の本気を見たのですよ、アーク。
だから――――
「一切イリアーナと会う事を禁じられた貴方がここまで頑張ったことは認めてやらないこともありませんが………これからも私は協力する気はありませんよ」
一瞬、期待に満ちた眼差しをしたね、アーク。
残念、私は何一つ協力などしないよ。
「……分かっている、シャリアン」
「分かっているなら良いのです。さて、先ほど、向こうから連絡がありましてね」
思わせぶりな私の言葉に、二人は、おや、という顔をする。
なら、ここで爆弾を投下してみようか?
「明後日、イリアーナが帰って来ますよ、王都に」
「……………っ!」
驚きすぎて目を丸くするアークというのも、なかなか見ることがないね。ちょっと突いたら面白い事になりそうだが、今はやめておこう。
「アーク、何を呆けているのです。待ち人来たり、でしょう? もう少し、喜んだらどうです?」
「あ……そ……それは、彼女が無事に? という事か?」
声が若干震えているのは、先日頼んだ一件の所為か……。
「……ええ。魔法師殿は見事に役目を果たしたようですよ。イリアーナには、怪我一つありません」
「……そうか。無事か……」
力が抜けたように椅子に座り込むその姿は、イリアーナが無事と知って安心したからか。思わず私の顔も緩む。
「イリアーナが帰って来るなら、こちらも急がなくてはいけないね、兄さん」
ずっと傍観していたカイレムは、にやにやと笑みを浮かべ一枚の紙を差し出した。
「例の娘の詳細。……どうする? 兄さん、殿下」
意味ありげに渡されたそれに目を通したアークは目を眇め、そして私は――――
「これは本当に――――春が待ち遠しいね」
口の端に笑みが浮かぶのを止められなかった。
ありがとうございました。




