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22. セレナ・バーンティスト、公爵令嬢の恋を憂う その3




「…セレナ」




 いったい、どれだけそうしていたのでしょう?

 ずっと俯いていたわたくしの耳に、シャリアン様の呼ぶ声が聞こえました。


 囁いているようにも聞こえるその声音は、あきれ口調だけれど優しくて響いて、私はゆっくりと思考の渦から引き戻されました。


「手を傷つけるよ」


 声に誘われるように上向くと、シャリアン様は、わたくしのすぐ隣に座っておられました。


「シャリアン様…」


「こんなにきつく握りしめて……我慢する必要などないんだよ、セレナ」


 シャリアン様は、そう言いながら、そっと労わるようにわたくしの手を取ると、きつく握りしめていた指を優しく解いてくださいました。


 いつの間にわたくし――――


 ほぐされていく指を見つめながら、無意識に力が入っていたことに苦笑いが浮かびます。


「我慢などしておりませんわ」


 ディレム様との婚約を先延ばしにすると決めたのは、わたくし自身。これは、未来視を覆すためには必要な事。だから、けっして我慢をしているわけではないのですよ、シャリアン様。


「強がるのは良いけど、私は知っているから」


「え?」


「……知っているよ。殿下を想う君の気持ちも、それを自覚したうえで、待つ、と決めた君の決意も…。すべてはイリアーナのためだね?」


 シャリアン様にしては珍しいくらいに柔らかい口調でした。

 まるで、慰めるかのように優しく言葉をかけてくださるものだから、つい気が緩みそうになります。


「いいえ、違いますわ、シャリアン様。お姉さまのためではありませんわ……」


 そう、お姉さまのためではない。わたくしの未来の事なのです。だから、お姉さまを理由にしてはいけないのです。


「ほんと…強情だね、君は……」


 シャリアン様はどこか儚げな笑みを見せ、そっと頭をぽんぽんと叩いてきました。子供を優しく宥めるかのように……。


 今日のシャリアン様はおかしいです。

 お姉さまのいないこんな日に、どうしてそんなに優しくしてくださるのですか? せっかく抑えていたのに……。平静でいようと思っていたのに…。これでは、抑え切れないではないですか……。


「シャリアン様が優しいなんて……天変地異の前振れですか?」


 込み上げる涙をごまかす様に横を向いて、いつもなら言わない――言えない暴言を吐く。

 強がりだって分かっております。けれど、そうしないと、隠していた想いが溢れ出しそうで怖いのです。


「ひどいなあ。この私が、珍しくこんなに優しくしているのにその言葉かい?」


「ご自分で珍しいなどとおっしゃらないでくださいな」


「相変わらず失敬だね、君は…。だが、それでこそ君だ。そんな君だからこそ私には分かるんだよ」


「……わたくしの、いったい何が分かるというのですか?」


「…ん? そうだね……例えば、ディレム殿下は本当に自分との婚約を望んでいるの、とか?」


 え……?


 今……なにを?


 告げられた言葉に、驚きのあまり思わず振り向いてシャリアン様の目を凝視してしまいました。

 

「君の考えることくらいお見通しだよ、私にはね……」


 大きく目を見開くわたくしを見つめながら、シャリアン様はどこか困惑気味に言葉を続けました。


「ねえ、セレナ。君は、ディレム殿下の本心が見えないから、余計に婚約を先延ばしにしたいのだろう? イリアーナの語った未来視通りに殿下の心が離れて行くことも恐れている。だけど私が思うに、それは杞憂だ。ディレム殿下は君との婚約を真に願っているよ。これは、本当の事だ。だからね、そのことで君が思い悩む必要はない」


「……どうしてそんなことが言えるのですか? 確証など何も無いではないですか…!」


「…私には、分かる、としか言えないかな。それにね、セレナ。君がいくらイリアーナの為ではないと否定していても、やはり私には、君はイリアーナのために待つと決めた、と思ってしまうんだよ。だって君は、ディレム殿下を好いてはいるけど、イリアーナのためならその想いすら止めるだろう?」


 ……あ。


 隠していたのに……。

 悟られないと思っていたのに……。


「隠しているつもりだったのかな? 全部ばれているから……。だからこそ、私は君の決断を尊重するんだけどね……。まあこの際ディレム殿下の気持ちはさておき、君が待つと決めたなら、納得のいくまで待てばいい。君が嘘を付かずとも婚約を遅らせる理由など私がいくらでも捏造してあげよう。だけど、これだけは忘れないで。この先何があっても、決して悲観してはいけない。君は必ず幸せになる、それは確実だ」


「シャリアン様……」


「私の言葉が信じられないかい?」


「……信じたい…信じたいですわ。でも……」


「なに? セレナ」

 

 言っても良いのでしょうか?

 燻っているこの想いを、口に出して良いのでしょうか?


「セレナ、思うことがあるなら言って。今日の私は寛大だからね。なんでも聞いてあげるよ」


 そう言って笑ってくれるから……。


「……怖いのです」


「うん……」


「ディレム様が離れていくことも、わたくしが命を落とすことも…。でもそれ以上に、お姉さまを苦しめているのがわたくしなのだと思うと、すごく苦しいのです!」


 本当はこんな事を言うつもりはなかった。

 でも、一度零れた言葉は、止められなくて……。


「お姉さまは、わたくしを案じ、わたくしの未来を夢に見たことで魔法具に縛られ、王太子殿下と紡ぐはずだった未来を失ってしまったのですよ! そんなお姉さまを差し置いて、わたくしだけが幸せを望んで良いのですか!? そんなの、出来ません……出来るわけがありません。そもそもわたくしの婚約だって、お姉さまあってのものです。ディレム様と出会って、ディレム様を好きになったのもお姉さまがいたからこそ……。それなのに、そのお姉さまから幸せを奪ったこのわたくしが、何もせずただ幸せを望むなんてことは出来ないのです……! わたくしのせいですのに……お姉さまから笑みを奪ったのは、このわたくしなのに――――っ!」


 感情のままに吐露するわたくしの言葉を、シャリアン様は黙って聞いてくださいました。


 慰めるわけでもなく、否定するわけでもない…。ただ私の言葉を真摯に受け止めるかのように何度も頷きながら、静かに聞いてくださっていたのです。

 

 それとは反対に、


「セレナ、お前は馬鹿か……」


 深いため息と共に、あきれたような声で名を呼ぶのはお兄様。視線を向けると、なぜか、あきれを通り越してお怒りの様相でわたくしを見ておりました。


「…お兄様?」


「何のためにイリアーナがお前に伝えたと思っている。すべて、その未来を覆すため、強いてはお前のためだろうが」


 淡々と告げるお兄様は、何かを吹っ切るかのようにお酒を飲んでおられます。


「それすらも分からないのか、お前は。それに―――」


 ふと向けた視線は、シャリアン様に向けられ、


「その男が、何もしていない訳がないだろう?」


「え…?」


 その言葉に顔を上向かせると、シャリアン様はわたくしの顔を覗き込むようにして、目を合わせてきました。


「黙っていてごめんね、セレナ。実は、すでに殿下とは話がついているんだよ」


「話が……ついている? それは、いったい……?」


「それもごめん、かな。ちょっと事情が複雑でね、詳しくは言えないんだ。けれど、イリアーナの事は心配いらない。だから君は何も気に病む必要などないんだよ」


 フェランには、悪いけどね、と意味ありげな言葉をお兄様に向けながらおっしゃいました。


 何が何やらよくわかりませんが、シャリアン様は王太子殿下と何か企んでいらっしゃるようです。それがお姉さまの憂いを晴らすものであるならば、わたくしはただ信じるほかありません。


 お姉さまの事に関して、シャリアン様が偽りを言うはずがありませんもの。


「……信じても良いのですね? お姉さまに笑みが戻ると……お姉さまの想いが、あの殿下に届くのだと、そう信じても……」


 悔しいけど……本心では認めたくはありませんけれど、お姉さまが殿下に想いを寄せているのなら、わたくしは認めるしかありませんもの。


「ああ……。だから、あまり自分を責めてはいけないよ、セレナ。君がそんなことを思っていた、なんて知ったら、今度はイリアーナが悲しむよ」


 お姉さまが……?


 ああ、そうでしたわ。

 お姉さまはそういう方です。

 いつでもわたくしを案じて、わたくしの幸せを願って、必要なら、自ら危険に飛び込んでいく、そんな―――


「そう…ですわね、シャリアン様。このわたくしがお姉さまを悲しませるわけには行きませんわね」


「そういうことだ。けれど、自分の事は良いのかい? セレナ」


 シャリアン様は僅かに苦笑を浮かべました。おそらく、ディレム様とのことを心配しているのでしょう。


 シャリアン様の言葉を信じるなら――その根拠は分かりませんが――ディレム様はわたくしとの婚約を心から願っているとのこと。それならばこのまま婚約しても構わないように思いますが、それでも不安は残るのです。


 だから今は―――


「わたくしの事は良いのです。シャリアン様の言葉を信じていないわけではありませんが、やはりわたくしは自分の目で見極めたいのです。だから、待ちますわ……」


「そうか……。まあ、イリアーナが居ることだし、最悪な結果にはならないとは思うけど、念には念を入れておこうかな……」


「…シャリアン様?」


 何やら考え込むシャリアン様は、呟く様にそう言うと、徐にわたくしと視線を合わせてこられました。


 じっと見つめてくるその琥珀の瞳が次第に熱を帯びたかのように艶を増していき、その瞳に、その美麗な相貌に……わたくしは、まるで魅入られたかのように目が離せなくなったのです。


 シャリアン様は惚けるわたくしの手をそっと持ち上げ、その琥珀の瞳を指先に落とすと――――っ!


 ゆ……指に、口づけ~~~っ!! って、何をしていらっしゃるのですか!? シャリアン様!


 極力動揺を抑えて、瞬時に手を引こうとした私の指を捕えながら、シャリアン様は口角を僅かに上げました。


「ねえ、セレナ…」


「…な…なんでしょう? シャリアン様」


 逃げ腰になるのは許してくださいませ。

 なぜかものすごく嫌な予感がするのです……。


「仮に……だけどね」


「はい……」


「もし仮に…いや万が一に、かな。イリアーナの未来視通りにディレム殿下があの庶民の娘を好きになったなら……その時は、私がセレナを妻にもらうから、覚えておいて」




「………………はい?」




 今、さらっと何をおっしゃいましたの?


 わたくしの聞き間違い?


 驚きで見つめたシャリアン様は、この上なく上機嫌で、そうなると面白いね、と言いながらグラスの中身を飲み干しております。


 いや、お酒飲みながら言う言葉ではありませんよ、シャリアン様。……いえ、そうではなくて……妻? 今、妻と言いましたか? って、待って、ちょっと待って!


 それは、とてもじゃありませんが、ありえませんわよ!


 シャリアン様に嫁ぐ?


 はははっ……無理―――絶対に無理! シャリアン様だけは絶対にありえない!


 誰が自分よりきれいな男に嫁ぎたいと思う人がいますのよ!

 シャリアン様と並んで歩くなんて拷問ですわ。そんな奇特な人は、王太子殿下かお姉さまくらいしかおりません! わたくしには絶対に無理ですっ!


「何を考えた、セレナ? まさか、いや、だとは言わないよね」


「わ…わたくしには、ディレム様という方が……」


「うん、だから、ディレム殿下があの庶民の娘を好きになったなら、と言っただろう?」


「そ…それでも……」


「セレナ……。いい加減、からかわれているだけだと気づけ」


「え?」


「酔っぱらいの戯言だ。真面目にとらえるな……」


「ひどいなぁ、フェラン。冗談じゃないんだけどな」


 酔っぱらい――――


 酔っぱらいの戯言、ですか……?

 

 お兄様、シャリアン様はお酒に酔うと口説き癖でもあるのですか……!? こんな……こんな質の悪い酒癖なんて、御免こうむりますわ! 




 ☆




「それで、これからどう動くつもりだ? シャリアン」


「まずは、イリアーナがいないうちに、あの娘の事をもう少し詳しく調査、かな」


「……お前が接触するのか?」


「まさか。私より適任者がいるだろう?」


「ああ、その娘が名を知っていた彼らか……」


「そう……。すでにカイレムが動いているよ」


「カイレムが? 他の奴らは?」


「ルキトは公爵領、キアノス殿には別件で動いてもらっている」


「そうか…。なら、すぐにでも情報は得られるだろう。吉報を待つとしよう」


「楽しみだね、フェラン。カイレムがどんな話を持ち帰ってくるのか……本当に楽しみだよ」




 どうやら、わたくしやお姉さまの知らないところで事態は動いていたようです。

 お話を聞いているだけだと、なぜか悪だくみをしているように感じるのですが、気のせいですわよね?  

 お姉さまから笑みを奪ったあの娘に、シャリアン様―――いいえ、お姉さまを大切と思う方々の怒りの矛先が向いている、なんてことありませんわよね? そんなことを考えるだけで恐ろしいですわ!


 未来視でディレム様の心を奪う娘、と知ってはいても、僅かながらに同情いたします。

 彼らを敵に回して、平穏無事で済む、なんてありえませんもの。


 願わくは、お姉さまが何も知らずにいてくれたなら、と思いますわ。


 おそらく、無理、でしょうが――――そう、願わずにはいられません。









ありがとうございました!


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