19. 王太子殿下の婚約者候補
「シャリアン、今宵はそなたが『眠れる月の女神』のエスコートか?」
「はい、陛下。我が妹イリアーナは、このような場には未だ不慣れなもので……」
「なに、そなたたちがいるだけでこの場が華やぐ。イリアーナ嬢、今日は、ゆっくりとしていけるのだろう?」
「はい、陛下。春の舞踏会では、すぐに退出しましたこと、心よりお詫び申し上げます。本日は、兄上様と共に楽しませて頂きますわ」
「本当に愛らしいですわね。ああ、もう少しこちらにいらしてイリアーナ嬢」
「はい、王妃様」
「ああ、なんて可愛らしいのでしょう! わたくしの腕の中にすっぽりと納まる小さな体。黒く艶やかな黒髪は、結い上げているのが惜しいほどに滑らかで、思わず解いて堪能したいほどですわ。それに、琥珀の瞳のなんと美しいことか。本当に、お人形のようですわ」
「あやつが入れ込むのも納得だな」
「あんな馬鹿息子にはもったいないですわよ、陛下。心無い家臣の策に嵌るなど愚かの極みですわ」
なにやら不穏な空気を醸し出しているのは、この国、クリアファラン王国の国王御夫妻。とても仲の良いお二人で、陛下は家臣の勧める側妃を一人も持たず王妃様だけを慈しんでおられるそうです。
確か王妃様は、同盟国でもあるエクラシール公国の公女様でしたわよね。
………ん? エクラシール? あれ? どこかで聞いた国の名前、ですわね。兄上様たちに聞いたのかしら? いいえ、違いますわ。兄上様たちから各国の情勢などを学んだ以前にどこかで聞いたような……見たような……。
…………。
ああっ! なんでしょう、このもやもや感はっ! 思い出せそうで思い出せないなんてすっきりしませんわね。
まあ、あまり気にしていても仕方がありませんし、そのうち思い出すでしょう。
たぶん――――
「ジリオン王太子殿下が本日ご令嬢を伴うのは、側近であるこの私にも秘するほどの事。よほどそのご令嬢を大切にしていらっしゃるのでしょうね」
「そう言ってやるな、シャリアン」
「あら、もっと言って然るべきですわよ。ねえ、シャリアン殿?」
「王妃様の意を得ましたこと、心強く思います」
な…なんでしょう? この寒々しい会話は……。
にこやかに、そして穏やかな口調で交わされるその内容が、まるで極寒の如く冷え冷えとしておられますわ。特に一の兄上様は、幼いころから側近として仕えていらして、常に行動を共になさっていたと伺っておりますもの。よほど秘密にされていたことが腹立たしいのですね。
現に―――
「折を見て、此度の真相をじっくりと伺わなくてはいけませんね」
「ほほほほほっ。その時は、是非わたくしにも一報をくださいな、シャリアン殿。お力になりますわよ」
静かに微笑む一の兄上様と、楽しそうに笑う王妃様。
このお二方に問い詰められる王太子殿下がとても気の毒に思えた、なんて、思っていても口には出せませんわね。
「この二人を敵に回して、あやつはいったい何をやっているんだ。わしは知らんぞ」
小さく呟く陛下の言葉に、思わず顔が引きつるのを必死で抑えながら、私は懸命に笑みを浮かべました。
☆
絢爛豪華なホールに響く穏やかな音色。
女神の祝祭と言われる華やかな春の舞踏会とは趣が異なり、収穫祭を祝う秋の夜会は、ご令嬢たちが纏うドレスも含め、全体的にどこか落ち着いた雰囲気が漂っております。
今回の夜会に出席するに至って、一の兄上様がエスコートしてくださるのはとても心強いのだけど、会場入りしたとたんに向けられた視線にはさすがに吃驚いたしました。
ある程度は覚悟しておりましたのよ。セレナからもいろいろと聞いてはおりましたし……。でも、こうまであからさまに視線を向けられると、どう返していいのか困ります。一の兄上様は黙って笑っていれば良い、とおっしゃいますが、本当にそれで良いのでしょうか? 試しににっこりと微笑んでみましたら、瞬時に視線を逸らされてしまいました。
た…確かに、不躾な視線は向けられなくなりましたが、これはこれで傷つきますわよ、一の兄上様っ!
何はともあれ、私は今、一の兄上様に連れられて、ホールの一角に据えられたテーブル席で、夜会を楽しむ紳士淑女の皆様を眺めております。
ええ、眺めているだけなのです。それも一人で――――
なぜ一人でいるの? と思われるでしょう? 一の兄上様は、「すぐに戻るから、イリアーナはここにいなさい。おとなしくしているんだよ」と告げて会場内におられる方々と談笑しに行かれたのですわ。
一の兄上様もお付き合いがありますのでそれはそれで良いのです。けれど、それまで、一の兄上様を通し、私にも挨拶をしてこられる方々が沢山おられたのに、どうしてなのでしょう? 一人になったとたんに、誰も私に話しかけてこようとはしなくなったのです。
殿方はもちろん、ご令嬢たちですら………。
私、皆さんに嫌われているのでしょか?
ちらちらと好奇に満ちた視線は感じるのですよね。思い切って私から声をかける? でも、それは駄目ですわよね。一の兄上様に止められているし、どうしましょう? セレナが来るのを待つ?
「あれ? カイレムの妹ちゃん?」
ちびちびと一人寂しく果物を絞ったジュースを飲んでいた私に、不意に声がかかりました。驚いて顔を上げると……そこにいたのは、栗色の髪と青葉色の瞳をした精悍な顔立ちの青年。
青年は今、私の事を、カイレムの妹ちゃん、と呼びました。
そう私を呼ぶ方には覚えがあります。確か…『魔に染まった者』に攫われた時、アーク様と一緒に助けに来てくださった、え…と、誰、でしたっけ?
「あの……貴方様は?」
思い出せずにキョトンとする私に青年が破顔いたしました。
「ははははっ。これは失礼いたしました。まずは、名乗るのが先ですね。では改めてご挨拶をいたしましょう、イリアーナ嬢。私はロングスタ侯爵家が三男、ランドクリフと申します。どうぞ、お見知りおきを」
そう言って私の手を取り、ごく自然な仕種で指先に口づけを落とそうとしたランドクリフ様の背後に、ひとつの声がかけられました。
「はい、そこまで! そこで何をしているんだ? ランド」
「二の兄上様!」
人いきれを避けるようにして近づいてくるのは、近衛の制服、ではなく礼装に身を包んだ二の兄上様。
「ごめんね、イリアーナ、ひとりにして。大丈夫だったかい? こいつに何もされてない?」
「チッ…。なんだ、カイレム、来てたのか?」
ランドクリフ様の舌打ちが聞こえた気がいたしましたが、気のせいですか?
「来てたら悪いのか? ったく、お前は油断も隙もあったもんじゃないな。兄さんがエスコートをしているイリアーナに、無謀にも近づく勇者がいるとは思わなかったよ」
「無謀と思われようとも、一人寂しくグラスを傾ける『眠れる月の女神』をほうっておけるわけないだろう?」
「そのご心配は無用ですわ、ランドクリフ様」
「セレナ!」
「ああ、お姉さま。早くそのような手は振り払っておしまいになって!」
淑女らしからぬ速さで私の側まで来たセレナは、私の手を掴むランドクリフ様の手をバシッと払ってしまいました。
いや、なんですか、その汚い手で触れるな! 的な態度は?
「ひどいな、セレナ嬢」
「お姉さまに気やすく触れないでくださいな!」
「普通に挨拶していただけだろう?」
「お前のは普通じゃないから、ランド」
「相変わらず守りが強固だね、イリアーナ嬢の周りは」
「当り前ですわ!」
「なら、ひとつ忠告だ」
突然、ふざけた物言いから至極真面目な口調に変えたランドクリフ様は、辺りをちらりと伺いながら声を潜めてきました。
「たとえ王宮内でも、イリアーナ嬢を一人にするな。それと……例の伯爵に気を付けろ」
「……動きがあるのか?」
怪訝そうに眉を顰める二の兄上様は、すぐに真顔になりランドクリフ様を真正面から見据えました。
「ああ…殿下も危惧している。今回の噂の裏にどうも伯爵がいるらしい」
「王太子殿下の婚約者候補、か?」
「お前も知っているだろう? 殿下は婚約者候補など認めてはいないってことを」
「それは知ってる。だから兄さんも不振がっているんだ」
「まあ、インスフィア家に喧嘩を売るほど愚かではないと思うが……」
「俺も、そう、願うよ」
「今回の件、静観してくれないか、カイレム」
「イリアーナが巻き込まれない限り、俺は動かないよ」
おそらく、兄さんもね、と言葉を続ける二の兄上様は、なぜかニヤニヤしていて、そんな二の兄上様を見たランドクリフ様は、「……絶対に、巻き込まれるだろう」とぼやいておりました。
失敬な。どうして、私が巻き込まれると断言していらっしゃるのかしら、ランドクリフ様は?
ちょっとむくれる私の頭を、二の兄上様が、あやすようにポンポンと叩いております。
その後、一の兄上様が戻っていらして、更にはセレナをエスコートしていたフェラン兄様も挨拶を終えてこちらにいらして――セレナは、私を見つけるなり陛下への挨拶もそこそこに、私のもとへ駆けつけてきたのだそうです――私の周りはとても賑やかになりました。
楽しんでいたのは、本当です。
セレナをはじめ、見知った方々に守られるように談笑していた私は、ヒロインの事も王太子殿下の婚約者候補の事も忘れて、確かに夜会を堪能していたのです。
夜会の中盤。
開かれた扉から会場入りしてこられた王太子殿下のご尊顔を拝するまでは―――――
☆
「ジリオン王太子殿下、並びにミエンナ・エンディス公爵令嬢のご入場」
来場を告げる声にホール入口へと視線を向ければ、ひときわ華やかな朱色のドレスを身に纏ったエンディス公爵令嬢とこの国の王太子殿下が、仲睦まじく腕を組み、微笑みあいながら入場してくるのが見えました。
遠目ですのではっきりとは見えませんが、王太子殿下の長い髪が輝く金糸のようなきらめきを放っているのが分かりますわ。
一の兄上様がぽつりと洩らした、殿下の候補にヒロインがいた、というのは気になっておりましたが、どうやら違うようですね。
王太子殿下のお相手は、私の従姉でもあるエンディス公爵家のご令嬢ですもの。
「な……!」
その時です。隣から押し殺したかのような声が聞こえました。
「……どうしてあの方が王太子殿下といるのですか? シャリアン様」
その声の主は、怒りを抑えきれないかのように刺々しく一の兄上様に問いかけております。
「それは、彼女が候補筆頭だからだろう。昔の話だけどね」
そう言う一の兄上様も、王太子殿下とミエンナ様から視線を外しません。
「兄さん、殿下の相手がミエンナ嬢だと知っていたの?」
「私が、かい? そんなの知るわけがない」
「なら、兄さんにも知らせずにミエンナ嬢を相手に選んだのか? 殿下は……」
兄上様たちは、同じ従兄妹なのに、セレナの事は親しみを込めて呼び捨てになさるほどに可愛がっておりますが、ミエンナ様のことは、どこか他人事のように話しております。他人事、というより、むしろ、嫌っているようにも見えるのですよね。過去に私の知らないところで何かあったのでしょうか?
「今回私のもとにエスコートの打診がなかったのは、こういう理由か……」
苦々しく言うのは、フェラン兄様。
あら、フェラン兄様はミエンナ様をエスコートなさるほどに親密でしたの?
「それは良かったではありませんか? お兄様。いつもあの方には付き纏われて辟易していたのですから、これで解放されますわよ」
あっ……エスコート…って、以前に聞いたフェラン兄様に付き纏っていたという令嬢の事? あれって、ミエンナ様の事でしたの?
「それはそうだが、こうも態度を豹変させられると……」
「あの方もその程度のお気持ちだったということですわよ、お兄様。むしろ、あの方にとっては、侯爵家嫡男よりも王太子妃の方が魅力的、ということではなくて?」
「それは同感だ、セレナ。ミエンナ嬢は自尊心の高い令嬢だからね。すでに婚約者のつもりでいるのだろう」
「あら、まだ、候補でしかありませんわよね、シャリアン様?」
「あの態度を見れば一目瞭然だろう?」
「ふふふふふっ、そうですわね。あの勝ち誇った笑み、ちらちらとこちらを伺うかのように視線を向けるあの方を見れば、誰を意識しているのかが本当に一目瞭然ですわね」
「セレナ、喧嘩を売るなよ」
「あら、そんなことは致しませんわ、お兄様。あちらには王太子殿下もいらっしゃいますし、すぐそばにはディレム様もいますのよ。いくらわたくしでも、そんな無作法な振舞など出来ませんわ」
そう言いながらセレナはわずかに立ち位置をずらし、まるで王太子殿下やミエンナ様の視線から隠すように私の前に来ました。
「その言葉を信じてもいいのかな、セレナ?」
「もちろんですわ、シャリアン様」
「なら、せっかく先方がこちらを意識しているんだ、みんなで挨拶に出向くかい?」
まあ、これはもしかして王太子殿下に紹介して頂けるのでしょうか? あれほど難色を示していた一の兄上様が、どういう風の吹き回しなのでしょう? でも、これは良い機会ですわね。やっと、殿下にお礼を申し上げることが出来ます!
ああ、でも、なんと伝えたら良いのでしょう? ミエンナ様もおりますし、あまり親しげに言葉を交わさないほうが良いですわよね? でも、きちんとお礼は伝えないと!
「良いのか、シャリアン?」
「すでに賽は投げられた、あとは、殿下次第だよ」
意気揚々と伝える言葉を探していた私は、一の兄上様とフェラン兄様が表情を曇らせていたことに気づくことが出来ませんでした。
そしてセレナが、まるで鬼のような形相で王太子殿下を睨みつけていたことも知らなかったのです。
☆
その時のことはあまり覚えてはおりません。
ただ、あまりの衝撃で、胸が酷く傷んだのを記憶しています。
一の兄上様の紹介で、王太子殿下に目通りは叶いました。
お礼の言葉も、確かに伝えました。
震える声を堪えながら――――
隣に立つ一の兄上様の手をきつく握りしめながら礼をする私は―――
顔を上げることが出来なかったのです。
なぜ、貴方がそこにいるのでしょうか?
なぜ、私を救ってくれた貴方が―――
私を守ると言って、私をあれほど案じて優しく抱きしめてくれた貴方が―――
どうしてそこに……?
なぜ、貴方が王太子殿下、なのですか?
―――――アーク様。
ありがとうございました。




