とある作家のクズ語り3
小関の悪魔のような微笑みに、私は濡れるのも構わず、シャワーの水がまだ完全に捌けていない浴槽の中に身を隠した。ひぎゃー。
「やり方が汚いっ! こういうときは大人しく出てくるのを待つのが定石じゃないんですか!?」
「んなことは知ったこっちゃないですよ。思春期の小娘じゃあるまいし、あんたもいい大人なら自分の弱点は克服すべきです」
小関が手を差し出してくる。
私はまた肩をびくりと震わせて浴槽の壁際に逃げた。だから人に触るのは無理なんだって! また私にげぇげぇ吐かせるつもりか!?
「井口からは容易に触るなとは言われてますけどね、そんな腫れ物みたいに扱ってちゃ、あんたはいつまでも人に慣れないでしょ。俺が担当に付いたからには人間のひとつやふたつ触れるようになんなさい」
私が手を伸ばせば届くくらいの位置で小関の手が止まる。私はしばらくそれを凝視して、小関の顔と手を交互に見やった。
「ひとつ言っておきますが、あんたは自分のこと汚いって思ってるみたいですけど、俺もたいがい汚いですからね。だからあんたがちょっと触ったくらいじゃ、全然汚れたりしませんよ」
私への慰めか、小関がそう言って手を開いたり閉じたりしてみせた。
だがそう言われたところで自身への不快感は消え去ることなく、このまま排水溝に流れてしまいたいと願い続けている。――触れなんて無理を言う……。
小関から視線を離して自分の手を見る。水で濡れそぼった手は未だに震えたままだった。
「あのね……」
いつまでも手を伸ばそうとしない私に、小関が手を引いて腕組みをする。
呆れられたのだろうか。思って真っ暗な排水溝の先に流れていく水滴を羨ましく思った。私も流れていきたい気分だった。
「俺はね、ストレートに名門大学を出て就職浪人にもならずに順調に人生歩んできてんですよ」
自慢か!? それは高校にもお情けで入って、私立大学に浪人して入った私への当て付けか!?
あまり他人に対して思うことはないのだが、「小関、死ね」と脳内で三回ほど唱えてしまった。
「そういう人間が何を考えていると思いますか?」
知らないよ。人生の勝ち組の考えることなんて私に思い至るわけがない。
「そういう人間はね、自分だけは現実をちゃんと分かってるって天狗になってんですよ。現実の世界では夢は簡単に叶わないって思ってるくせに、自分は人生の勝ち組なんだって思ってる」
やっぱそう思ってるんかい。実際の勝ち組にそう断言されると何の否定の言葉も浮かんでこなかった。
「そのうえ、人は容易に信じるものじゃないって思ってるし、自分が誰かに利用されてしまうくらいなら上手く使ってやれって思ってる」
うわぁ。みなさん、悪い大人がここにいますよー。
存外、小関が自分もたいがい汚いと言ったのも的外れではないなと感じた。
「先生は自分は汚いって思っているくせに、妙に世の中を綺麗なものだと思ってますよね」
「そんなポジティブなものじゃないと思いますけど……」
「先生の作品、全部目を通しました」
担当するからにはその人の作品を知っているべき、という担当者魂だろうか。さすが、できる男は違う。
ちなみに私は自分の好きなものしか読まない偏食家だ。
「恋愛ものはくどすぎて失笑ものでしたけど――」
それはすいませんね。世の中の乙女の需要なんだよ。くどすぎる恋愛ものが売れ筋なんだよ。溺愛ものとかな。
「先生の作品の初期に、『遠い空の物語』ってがあるでしょ」
それはまた古いものを持ち出してきたな。
私は濡れた頭を持ち上げて小関を見た。
『遠い空の物語』というのは、私の初期の作品のひとつだ。珍しく少年を主人公としたもので、児童文学風の文体で書いた作品になる。全然売れなかったけど。
地下世界で生きてきた少年が、都市伝説のように流布する雲の上にあるという空の王国を目指して旅をするという話だ。
地下世界は深くて汚くて、そこに暮らす住人たちの心も荒んでいる。
だが、そんな中でも少年は噂を信じて空の王国を見つけに行くという話だ。
あの作品のことは思い入れの強いものだったからよく覚えている。
主人公には名前を付けず、「僕」という語り手に物語を進行させた。
様々な過程を経て、少年はとうとう空の王国を見つける。
見つけたのはいいものの、そこに人の姿はまったくなくて、ただ筆舌に尽くしがたい美しい景色があるだけだった。
せっかく見つけた空の王国に、少年は少しも足を踏み入れることなく去っていく。
なぜなら地下世界の住人は長い間カンテラの灯の中で暮らしてきたため、光に対して目が弱く、また体も陽の光を受ければ焼けただれてしまうように変化してしまっていたからだ。
それを本能で悟り、少年は泣いた。涙が涸れ果てるまで、ただ静かに涙を流し続けた。
地面を掘った土を小瓶に詰めて、少年はその王国に一歩も足を踏み入れることなく荒んだ地下世界に戻っていく。
戻った彼に人々は尋ねる。
『空の王国はどんなだったかい?』
空の王国は失われた金銀財宝の眠る王国だとか、働かなくても一生楽に暮らしていける幸福の都だとか言われている場所だ。
みんな帰ってきた少年の話を聞きたがった。
こぞってそう尋ねてくる地下世界の住人たちに少年はこう言った。
『何もなかったよ。みんなが望むようなものは何もなかった――』
物語は少年のその言葉で終わりだ。
売れなさ過ぎて絶版になったんじゃなかったけ、あれ。何で知ってんだよ。
「読んだのはたまたまです。俺はそれまで文学系とか海外ミステリーものとかしか読んでこなかったから、青少年向けとか鼻で笑ってやるつもりでした」
そんなんでよく私の担当に付いたな。乙女向けレーベルなんて門外漢もいいとこじゃないか。
「文章は未熟で、よく本にできたなって思ったんですけど」
酷評すぎる。普通に真面目な作家だったら耳を塞いでるぞ。まぁ、あれは私でもよく本になったなと思ってるからべつにいいけど。
「すごく――記憶に残りました。青臭くて拙い文章だったのにも関わらず」
それは褒めているのか? 貶しているのか?
高尚な文学しか読んでこなかった人の言葉は私には理解しがたい。
「あんたは人間と接するのが苦手などうしようもない引きこもりです」
あのさ、ちょくちょく人を貶してくる言葉を挟むのは相手が私だからなのか? それとも小関がそういう人間だからなのか? 判断はどっち側に置いたらいいの?
「でも、俺みたいに人生達観したつもりでいる人間の記憶に引っかかるくらいのものは書けるんです」
小関を振り仰ぐ。背後にある電球の光が眩しすぎて小関の表情がよく分からなかった。
腕組みを解いて再び小関が手を差し出してくる。
「人に触れられないって引きこもってる時間があったら、さっさとそこから出てきて今書いてるものを書き上げてください。それがあんたの書くものをクソほど愛している読者への最低限の礼儀ですよ」
小関は私が動くのをただじっと待った。
それは数秒だったかもしれない。数十秒だったかもしれない。だが私はそれをとても長い時間のように感じていた。
まぶたを一度強く閉じて息を吐く。
私はおそるおそる手を伸ばして小関の手の人差し指だけを握った。それは私なりの精一杯の譲歩だった。
触っても何も変化は訪れなかった。
世界は灰色に変わったりしなかった。
相変わらず私は引きこもりのクズだったし、小関はきっちりスーツの仕事のできそうな男のままだった。
「なんか……思ってたより平気みたい、です」
おぉ、人に触ったのって何年ぶりだろう。ちょっと感動。
人に触れたことで心臓はバクバクうるさかったけれど、何ともない自分を嬉しく感じて小関を見上げる。
見上げた私と目が合った瞬間、小関は眉間に皺を寄せて「ほら、さっさと出る!」と促してきた。
浴槽から出て濡れた服を着替える。
小関と向かい合って食べた食事は、できあいのものだったがとても美味しく感じた。
そのあとは普通にいつもどおり執筆に励んで、小関は食器の片づけをして帰っていった。
そしてその夜から、人間とたくさん話をして数年ぶりに触れるという偉業まで達成した私は、知恵熱を出してぶっ倒れることになる――。
※ ※ ※
「本っ当に、俺がいないとダメですね、あんた」
他の担当の仕事もあって、二日後に倒れている私を発見した小関は、文句を散々垂れながらもきっちり面倒を見てくれた。
放つ言葉にすでに年季が入っているように思うんだが。私の気のせいではないだろう。
小関のオカン度は私のためにどんどんレベルが上がっていってるのではなかろうか。すまぬ、小関。
引きこもりは軽度でもやはりダメ人間には変わりがないのだ。
「……私も、そう思います」
熱の中、ひぃひぃ言いながらそう返すと、小関は取り替えようとしていたまだ水のしたたるタオルを私の布団の上に落としてきた。
「ついうっかりして」と言い訳をしていたが、私は絶対にわざとだと思った。
出来る男は少々のことで「ついうっかり」など発動しないものなのだ。
結局、知恵熱から解放されたと思えば後半の展開に煮詰まったりなどで締め切りはギリギリになってしまった。
缶詰状態になる私に小関はちょくちょく食事の差し入れなどをしてくれた。
出来合いの惣菜はすっかりなりを潜めている。
おかずはすべて小関のお手製だ。その腕前は井口と張るレベルかそれ以上のもので、これで今まであまり料理などしてこなかったというのだから、お前は神かという思いだ。
今ではすっかり餌付けされてしまっている。
小関がいないと、もう私は栄養を摂ることはないだろうというくらいにはお世話になっている。うん、やっぱ神だわ。
その神には未だに人差し指以上に触れることはできないでいる。
一度握手をしてみようと手を出されたときなど、固まってショートしてしまった。ショートしてしまったのは誰かなんて、聞くまでもなく私のほうなのだが……。
「どうせ長い付き合いになるんです。ゆっくり慣れていきましょう」
会うたびに、リハビリと称して人に触れることを慣れさせようとしてくる小関は心が寛大だ。どうせなら触らないでいいですよ、くらいの寛大さを見せてほしいものだ。
そんなことを言おうものなら「はあ? この俺が付き合ってやるって言ってんですよ。何か文句でも?」という目で見られるので、嘆願する勇気が持てないでいる。小心者の辛いところだ。
原稿に目を通していた小関から「まあ、いいでしょう」とオッケーをもらって机につっぷす。
「あー、疲れた」
向かいに座る小関から珍しく「はいはい、お疲れ様でした」とねぎらいの言葉を頂戴する。
適当にいなされている感がないではないが、これが小関なりの対応というところなのだろう。
「これ、挿絵は甘党リンゴ先生なんですよね。表紙買いで売り上げ伸びるといいですね」
さすがに外に出る時間もなく、唯一外の空気を運んでくる小関には、たまに私から話を振るようになった。
これもまた小関の言うリハビリのおかげなのだろうか。
自分史における偉業を達成しすぎて明日には昇天しているかもしれない。骨は実家の庭の隅にあるハムスターの墓の横に埋めてくれないだろうか。卒塔婆はアイスの棒でかまわない。出来ればあたり付きで。
「ねぇ、小関さん。私の小説をクソほど愛している読者って、どんな人なんでしょうね」
今日も暖かいですねくらいのノリで言うと、小関がものすごい形相で私を見下ろしてきた。その角度が板に付きすぎていてコワイ。
「あんた……それを俺の口から聞きたいんですか?」
ついでに声質も低すぎてコワイ。これから私、何をされるんでしょうかと脳内質疑が沸き起こる。
本能が「小関に聞いてはならない」と訴えかけてきて動悸がすごい。
わかった。黙ろう。沈黙は金なりだ。
「聞・き・た・い・んですか?」
言葉を区切りながらの二度聞きはやめよう。肝が潰れる。今なら口から血反吐を出せる。
私は即座に床に膝をついて「すいませんでしたぁ!」と土下座して謝った。
私の書くものをクソほど愛している読者が実は小関であったということを知るのは、まだしばらくあとのこと――私がためらいなく小関に触れられるようになった頃のことになる。
[おまけ:井口&小関]
「小関も熱心だよねぇ。倒れた先生のために無理やり有給ぶっ込んで通いつめたんだって? しかも慣れない料理にまで手をつけてるとか。小関って家事いっさいやんない人じゃなかったっけ」
「あのね、自分よりダメな人がいたらやるしかないでしょ。あの人、本当に書く以外何の能力もないんだから。それに将来のこと考えてたら今から慣れとくほうがいいでしょ」
「うわっ。ひく。本人の同意も得ていない状況で将来とか言っている小関にひく」
「はいはい。どうせ俺は気持ち悪いですよ。……あ、先生から電話だ。――はい、……はい。わかりました。じゃあ今から行きますから」
「小関、あんた一度鏡を見て自分が今どんな顔してるか見たほうがいいわよ?」
「余計なお世話。先生の前では引き締めてるし。笑顔なんて見せたらあの人憤死しちゃうでしょ」
よく分かっておいでだこと。
小関が嬉々として担当を引き継いだことを知っている井口は内心で「南無」と唱えた。
先生、小関は全然まっとうな人間なんかじゃないよ。(by井口)




