第101話 なんという地味なイヤがらせを……
轟々という音を立てて空気が渦巻く。
皇王は、イーネの身体から洩れ出した濃密な瘴気にあてられて、激しく咽た。
これから起こるであろう惨劇を想像したのだろう。メシュメンディは皇王のすぐ傍で、顔を顰めながらイーネの背を睨み付け、そのイーネの向こう側では、ボズムスが後ずさりながら、頬を引き攣らせている。
「やっ、やめ……」
ボズムスが恐怖のあまり思わず、そう口走った途端、イーネの口からガラスを爪で引っ掻く様な不快極まりない絶叫が響き始め、サーネとローブの男を除いて、その場に居る者達はたまらず耳を塞ぐ。
耳を塞いでいても脂汗が滲むほどの嫌悪感。徐々に大きくなっていく絶叫。一秒が永遠にも感じるほどの不快感。しかし、その音量がピークに達した途端、イーネが大きく眼を見開いたかと思うと、唐突に静寂が訪れた。
「ふう、終わったにょ」
イーネが額に滲んだ汗を拭いながらそう告げると、メシュメンディと皇王が耳から手を離しながら、困惑気味に顔を見合わせる。
「お、おいベアトリス、何も変ってはおらんようだが?」
皇王のその問いかけに、サーネが唇に人差し指を当てて「シッ」と呟く。
その意味するところが分からず、皇王が首を捻りながら目を向けると、ボズムスは恐る恐るといった様子で自分の身体を見回していた。
やがて自分の身体に何の変化も表れていない事を確認すると、恐らくイーネが失敗したとでも思ったのだろう、ボズムスは、独特の笑い声を上げはじめる。
「ふおっ、ふおっ、ふおっ、ふおおおおおおおおおおおおぉぉ!」
しかしその高笑いは途中から苦悶の呻きへと変わり、ボズムスはつま先を押さえて転げまわりはじめた。
イーネとサーネはボズムスを指さしながら腹を抱えて爆笑。メシュメンディは状況を理解して首を竦め、皇王は状況について行けず、ボズムスとイーネの間をうろうろと視線を何度も往復させた後、困惑気味に口を開いた。
「ベアトリス。何が起こっておるのだ、説明せい!」
「見てわかんない? しかたないにょぉ」
溜息交じりに肩を竦めるイーネ。
「今、あのおじさんは外からの刺激がぜんぶ、クローゼットの角に足の小指をぶつけた時の痛みに変換される様になったんだにょ」
「あ? なんだと?」
「だ・か・らぁ、喋ったり、動いたり、食べたり、触ったり、触られたりすると、もれなく足の小指を激痛が襲うんだにょ」
誰もが一度は経験した事のあるであろうリアルな痛み。それを思い出して、皇王の背中に怖気が走る。あれは痛い。確かに身動きが取れなくなる。
「悪魔か!?」
「だから悪魔じゃないにょ」
「いや、だから、そういう事では無くてだな」
「ちなみにあのおじさんがゴーレムじゃなくて、もし人間だったら、大事なところがモゲる魔法を使ってたにょ」
「やっぱり悪魔ではないか!?」
「だから悪魔じゃないって言ってるにょ。まあ、何にしても、あのおじさんはもう何にも出来ないにょ。未来永劫、クローゼットの角に小指をぶつけ続けるんだにょ」
「な、なんという地味なイヤがらせを……」
フロアに蹲って、ピクピクと小刻みに身体を跳ねさせているボズムスの姿を見下ろしながら、流石に皇王も不憫に思った。
「で、パルミドル坊や、急いでるんだにょ? とっとと行ったらどうにょ」
「とっとと行ったらと言われてもだな」
皇王は、ローブの男の方にちらりと目をやる。まだ一人、得体の知れない敵が残っているのだ。しかしイーネはあっさりと言い放った。
「ああ、あれは幻影だから、気にしなくてもいいにょ」
「あれは幻影じゃない」
サーネが口を開くとややこしいが、言っている事は同じ。ローブの男は実際にはここには存在しないと言っているのだ。
「そうなのか?」
「そうにょ。なかなか用心深いヤツみたいだにょ。イーネ達も最後ぐらい本人が出張ってくると思ってたんだけどにょ」
イーネの言葉に皇王は眉根を寄せる。
「本人?」
「サラトガ伯を罠にはめ、パルミドル坊やがここを通る様に策略を巡らせたのはあの幻影の向こう側にいる奴にょ」
「サラトガ伯がファティマを殺したのは、何者かの罠に嵌ったせい。そう言いたいのか?」
イーネが目配せすると、サーネはメシュメンディから離れて、皇王の前へと歩み寄った。
「パルミドル坊や、サーネは『新月』のベアトリスにょ」
「その様だな」
皇王は考える。
話の流れで大体は理解していたが、ベアトリスの『新月』の部分はこの青い髪の幼女へと受け継がれているらしいと。
「だから、パルミドル坊や。聞いてみればいいにょ」
「何をだ?」
イーネはサーネに問いかけた。
「サーネ、サラトガ伯は皇姫を殺したにょ?」
「うん、殺した」
「皇姫は死んでるにょ?」
「確実に死んでる」
皇王の眉間に刻まれた皺が一層深くなり、真剣な眼差しでイーネを見据える。
「どういうことだ」
「それは聞いた通りにょ。それと昔のよしみで教えてやるにょ、パルミドル坊や。今日、オマエが判断を誤れば、そこからこの国の滅亡がはじまるにょ」
突然突き付けられた言葉に、皇王の額に汗が滲む。
「それは……予言か?」
「違うにょ。ただの事実にょ。その判断の誤りが、幾つものステップを踏んで、獣の王を再びこの地に再誕させるんだにょ」
◇ ◇ ◇ ◇
コツコツと硬質な足音を響かせて白亜の廊下を蓬色の軽装鎧を纏った女が歩いていく。
彼女は、両開きの大きな扉の前まで来ると、何かを思い出した様に「チッ」と小さく舌打ちし、苛立たしげに扉を足で蹴破る様にして開いた。
バンと大きな音が鳴り響き、部屋の中にいたもの達は一斉に彼女の方へと視線を向ける。
Cの文字の形をした巨大なテーブルを取り囲むように円形に並べられた椅子。そこにはすでに幾人かの人間が席についていた。
「相変わらず、下品な女だな、貴様は」
長い髭を蓄えた初老の男が、不躾な入室者を睨みつける。しかし、
「うるせぇ、喋りかけんな」
と、女は初老の男に目線も合さず、手近な席に乱暴に腰を降ろす。
この二人は、そもそも父祖の代からの犬猿の仲であった。
男の名はアスモダイモス伯サネトーネ。一方の女はメルクリウス伯クルル。
クルルの登場によって室内は一瞬にして険悪な空気に包まれ、皇王の腰巾着と揶揄される者同士、比較的仲の良いカルロン伯と談笑していたペリクレス伯は、サネトーネとクルルに視線を往復させながら、「はは」と誰に向けたものか良く分からない愛想笑いを浮かべた。
ヴェルギリウス伯は我関せずとニコニコと笑みを浮かべながら宙空を見つめ、ローダ伯は腕組みをしたまま目を閉じている。
アスモダイモス伯とメルクリウス伯は、互いにあさっての方向を睨み付け、カルロン伯は寝たふりを決め込む。
あまりの空気の悪さにペリクレス伯は、皇王の早い到着を願って扉の方へと目を向けると、それと同時に、ギッと軋む様な音を立てて扉が開いた。
あとここに居ないのは、被告であるサラトガ伯を除けば、皇王だけの筈。室内の者は皇王の到着だと思い込んで起立し、一様に扉の方へと目を向ける。
そして次の瞬間、そのまま一斉に硬直した。
「オッホホホホホホ! 皆さまァ、御機嫌良う」
口元に手の甲を当て、小指を立てながら現れたその人物。
総やか過ぎる金髪を、ドリル状に巻いた少女の姿に、誰もが思わずポカンと口を開けたまま立ち尽くした。
それもその筈。ここでこれから裁かれようとしている事件の被害者の一人。
死んだ筈の人間が、絶好調といわんばかりの高笑いで登場したのだから。
ストラスブル伯、ファナサード・ディ・メテオーラ。
彼女は呆気にとられる一同を見回してこう言った。
「何を皆さん、死人を見たみたいな顔をしているでドリル?」




