夜凪 まり
メイが転校してきたのは、夏休みも終わって少し経ってから。そこから一月以上が過ぎたってことはつまり、思った以上に秋も深まっていたということ。
「……さむっ」
午後最後の体育の授業、あたしは開始早々グラウンドから教室へととんぼ返りしていた。
この時期の体育の授業はニクラス合同かつ選択式で、体育館でのバスケだかバレーだかとグラウンドでの陸上競技数種に分かれる。煩雑な球技ルールを覚えるのが面倒なあたしは後者を選んでいて、メイも「マリがいるから」とかいう馬鹿の物差しで同じ選択をした。
今日の天気は、雨の気配はなくとも曇り空。風も思いのほか強く、つまり午後のグラウンドは想像以上に肌寒かった。だからジャージの上着が欲しくなった。教師に許可をもらって、授業が始まって少し経つ誰もいない教室へと一人逆戻り。
こんな些細なことですら「早く戻ってきてねマリ」とか面倒くさいことを言うメイを適当にあしらって、静かな廊下に心地良さを感じつつ歩を進めて。グラウンドから二年の教室までの片道五分程度、自分のロッカーからジャージを取り出すだけの、ほんの少しの一人旅。
……だった、はずなんだけども。
「……クソ、クソ……」
辿りついた教室には、先客がいた。
後ろの戸からも視界に入る、窓際最後尾の机の前に立つ人物。そこはメイの席のはずで、だけどもメイは今グラウンドにいるはずで、つまり憎々しげに独り言を漏らすその女は……えー、あー、ほらあの、メイの右隣の席のギャル同級生だった。こいつは恐らく体育館種目のほうを選択していたはず。たぶん。グラウンドにはいなかった……はずだから。うん、たぶん。
「なにが前世よ……なにが髪の色よ、ふざけんな……!」
潜めた、というよりも思わず漏れ出たというふうな小さな声。怨嗟に塗れたそれは、静かな空間だからこそあたしの耳にもしっかりと聞こえてくる。
自分の席を間違えるくらい記憶力が悪い……というのは流石にあり得ないはず。事実、メイの机から勝手にペンケースを取り出し、そして椅子の影に隠れていた右手のカッターをかざした時点で、こいつが明確な悪意をメイへ向けていることは明らかだった。
「──ねぇ、なにしてるの?」
「ッ!?」
だから──いや決してメイのためとかではなく、一般的にカッターを他人の所有物に向けるのはおかしいだろうという感覚から──、あたしはその女へと声をかけた。同時に教室へ踏み込み、足早に距離を詰める。
「な、ぁ、なんで……ッ!?」
「ジャージ取りに戻ってきただけ。で? あんたはなにしてるの?」
「ッ、そ、れは……」
「なにしてんのって聞いてんだけど」
「ヒッ……」
詰めて詰めて、目の前まで行って、三度問う。女の怯えたような声が聞こえて、それで自分の眉間に随分とシワが寄っていることに気づいた。
「他人の持ち物に刃物向けて、なにしようとしてたの」
「……く、ぅ、うぅ……っ」
「ねぇ」
なんて、やろうとしていたこと自体は問わずとも予想できる。なんだってそんなことをしようとしたのか、という話。幸い、相手もそこまで全部言葉に出さなくちゃ分からないような馬鹿ではないようで。腰の引けた様子でカッターの刃先を下げながら、ようやっと意味のある言葉を吐き始めた。
「…………夜凪 まりは」
「はぁ?」
「っ、“夜凪 まり”はッ! 孤高で、無敵で、誰も寄せ付けなくて! 独りきりで完成された存在なんだよッ!!」
……ごめん、やっぱり意味分からないかも。メイ以外の、誰かの名前が出てきた。
「それをこの女ァ、前世とか恋人とか、ワケ分かんないこと言ってすり寄ってきてさァ!! コイツが、っ、コイツが来てから、完璧な“夜凪 まり”がおかしくなったッ!! 寝ぼけた常人みたいな、緩んだ顔するようになったッ!!!」
それが自分を指しているのだと、気付くのに一拍遅れて。気付いてもやはり、戸惑いが勝る。“夜凪 まり”がどうとか言われても、今ひとつピンとこない。
「おかしいっしょっ!? “夜凪 まり”って、そういうんじゃないよねェ!? アンタも迷惑だって、そう思ってるでしょ!?!?」
「……まあ、うん。普通に迷惑だけど」
「だ、だよねェっ!?」
「いや、あんたが」
「んなッ……!?」
……よく分からないなりに、どうもこの女が“夜凪 まり”を崇拝しているっぽいのは読み取れた。なるほど確かに、“夜凪 まり”という人間はこの学校で孤高の存在として扱われているはず。顔が良ければ孤高、そうでなければ孤独、随分とまあ分かりやすい指標だ。他人が寄り付いてこないのであればそれも悪くはない評価だと、そう考えていた。そう、他人が寄り付いてこないのであれば。
「あたしがメイをどう思ってるかなんて、あんたには関係ないはずだけど」
「な……ぁ……ッ」
“夜凪 まり”をダシにこういう陰湿な行為に走られるのは、一応それが名前になっているあたしにしてみれば迷惑極まりない話だ。
「なっんでッ……! アイツと同じこと言う!? “夜凪 まり”はァ、誰の影響も受けない完全な存在のハズなのにッ!!!」
知らんがな。
“夜凪 まり”に変な夢を見るのはやめて欲しい。
あたしは確かに他人が嫌いだし、極力関わりたくはないけれども。この現代社会で、誰とも関わらず誰の影響も受けずに生きていくなんて不可能だ。それはあたし自身がよく分かっている。そしてその相手が、あたしにとっての同類であるならばなおのこと。腹立たしいことに。
……それになにより、この女が握りっぱなしのメイのペンケースだって、本屋の店員なんていう他人と関わらざるを得ないことをして、あいつ自身が手に入れたものだ。あたしと同類の、生粋の人嫌いであるあいつが。
「……これ」
「……ッ!」
ペンケースを奪い取って、メイの机に置く。相変わらず、あたしの安いナイロン製とは比べ物にならない手触りの良さ。購入してからまだそう経ってはいないけれども、毎日のように「マリとお揃い」とか言って大仰に扱っているものだから、あたしでなくとも……隣の席から睨みつけているだけでも、これが大事なものだって察せられてしまうのだろう。
いや、なにがどうお揃いなのかはマジで分からないけれども……でも、あたしと同類であるあいつがなんの為にバイトをしているのかに関しては、一応分かっているつもりだし。その上でこんな、余計な出費としか言いようのないものをレジへ持っていく瞬間の、あの浮ついた足取りはまだ記憶に残っている。腹立たしいことに。
あのあと食べたハンバーガーは文字通りただのハンバーガーだった。ポテトも、ドリンクすらついてなかった。チーズくらい挟んだって良いだろうに。
だから……これは、そう。あくまで同類として。バイトしてるからってべつに潤ってるわけでもないだろうメイの懐事情に、ちょっとばかり同情してやったという、それだけの話。一億万歩ほど譲ればまあ、メイのためと言えなくもないかもしれない。まああれだ、どうせ当のメイには見られていないのだからなんの問題もないだろう。
「……結構いい値段してんのよ。少なくともそうやって、的外れな言い分で台無しにしていいものじゃない。言ってる意味分かる?」
「……ぅ、ぁ、ヒィッ……!」
クラスでは今やすっかり“何人か殺してそう”でお馴染みになってしまったらしいあたしの目つきも、こういうときには役に立つ。そうだ、普通はビビるのだ。なぜか嬉しそうにしているメイがおかしいだけで。
……とか、余計なことまで考えてしまったせいだろうか。
「──マリさぁ……そういうところだよ」
教室にむわりと、湿った熱気が入り込んできた。




