第91話【知られざる音の担い手】
「えっ、海紀って…あの碓氷さんですよね!?」
上ずった声で問い返すと、一葉さんは私の動揺を見透かしているかの様にゆっくりと頷く。
「他にどの海紀がいるのですか?そう、僕と同じく君の婚約者候補の一人である碓氷海紀ですよ。」
碓氷さん――その名が頭に響いた瞬間、時間が止まった感覚に襲われた。碓氷さんといえば、寡黙でぶっきらぼうな物言いでありながらも揺るぎない芯を感じさせる人だ。
婚約者候補として何度か簡単な会話も交わす事はあるけれど、彼の内面やプライベートについては殆ど知らないというのが正直な点だ。他の婚約者候補達に比べてまだ接点も少なく、彼を深く理解しているとは言えない。
そんな彼が歌の創造にどう関っていくというのだろう?
「どうして碓氷さんが…?もしかして、音楽がお好きな方…とか?」
一葉さんは、私の素朴な疑問と困惑しきった表情に少しだけ目を細めた。
「…知らないのも無理はない。碓氷一族は、代々音楽関係の仕事に携わっている者が多いのですよ。古くから音と深く関わりを持ってきた才能ある一族です。」
「えええっ!?それって音楽家一族…!?初耳です…!」
驚きに目を見開く私に、一葉さんは静かに言葉を続けた。
「彼の先祖には、有名な指揮者や作曲家…あるいは世界的に活躍する演奏家などもいたと聞いています。彼らの音楽は時に人々の心を揺さぶり、時に魂を癒すと評判だったとか。そして、海紀自身も確かにその血筋を受け継いでいるのでしょうね。彼は趣味として、時折曲を作る事があるらしいのですよ。」
「曲を…作る…!?碓氷さんが、自分で…!?全く想像出来ないです。」
「フフ…そうかもしれませんね。しかし、その腕はプロ級のものだと一部では囁かれています。何でも、海紀の通う学校の軽音部の作曲を彼が手掛けた事があり、そこでずば抜けた才能が発覚したのだと。それ以来、学内ではちょっとした有名人になっているようですよ。」
「プロ級…っ!?そんな凄い才能を持ってる人だなんて…!」
一葉さんの話を聞いていると、碓氷さんの意外な一面が次々と明らかになっていき、私は只々驚くばかりだった。
「面白いのはこれだけではないですよ?…といっても、これはあくまで噂の域を出ませんが…『碓氷一族は過去に歴代月姫の歌に携わった過去がある』という話もあるそうです。彼等の音楽が、月姫の力を支えてきたと。」
それは全身に電流が走った様な衝撃だった。
「う、そ…!歴代月姫の歌に…。じゃあ私が歌っているあの歌は…碓氷さんのご先祖様が…?まさか、こんな偶然なんて…」
「あくまで噂と言ったでしょう、鵜呑みにしてはいけない。ですが、無関係ではない可能性もまたあるでしょうね。」
私が今使える月姫の歌は、お母さんから託された癒しの歌と私の身に宿った攻撃の歌のたった二曲しかない。
「(そういえば、『攻撃の歌』は麗夢と戦っている時に何処からかメロディーが流れてきて…。歌詞も頭から浮かんできたのをそのまま歌っただけだから自分で創造したとはいえない。もしこの噂が本当だとしたら…私が知っているこの二曲のどちらか、あるいは両方が碓氷さんの一族によって生み出された曲という事になるの…?)」
「…もしかすると、海紀が君の婚約者候補に選ばれたのはそれが理由かもしれない。それよりも、今は君の『歌の創造』の力になってくれるかもしれないという点に注目しましょうか。彼の助けを借りる事で、君の歌は完成度の高いものになる筈ですよ。」
今まで漠然としか見えていなかった課題が、急に具体的な形を帯びてきた気がした。
「…そっか!碓氷さんに協力を頼めば、月姫の歌を上手く創造する事が出来るかもしれない!」
「羽闇嬢。だからといって、彼が君の協力に応じるかはまだ分かりませんよ。」
彼の言葉に、胸の奥で灯りかけた希望の光がふっと揺らいだ。
「え…?どうしてですか?」
一葉さんは私の問いに答える前に、一度ゆっくりと息を吐いた。その仕草はこれから語る内容が、私にとって受け入れがたいものだとでも言いたげだった。
「海紀は良くも悪くも、自分の意見を曲げない部分がありますからねぇ…。信念の強さ故かもしれませんが…一度決めたら容易に覆す事はない。特に君との関係に関しては、他の候補達とはやや異なる考えを持っていますから。」
自分の意見を曲げない…つまり頑固と言いたいのだろうか?
彼の瞳には、碓氷さんへの理解とある種の諦めの様な感情が入り混じっているように見えた。
「彼からは他の婚約者候補達とは違って、君の伴侶として選ばれたいという意思を全く感じさせません。それどころか、君との間に距離を置いている様子も見受けられます。…僕も人の事は言えませんが、あれ程酷くはない。」
私は思わず息を呑んだ。選ばれたいという意思がない?確かに碓氷さんは、他の婚約者達の様に積極的にアプローチしてくる事はない。それどころか重要な事以外で私から話し掛けても多くの場合、無言を貫かれる。でも、それは彼の性格なんだと思っていた。
「恐らく、海紀は君の伴侶には選ばれたくないと思っているのではないでしょうか。だからこそ、彼は今まで君に対して積極的ではなかったのでしょう。」
月光邸に迎え入れられてからの私は、誰を伴侶として選べばいいのかばかりを考えていたけれど、候補者側にも選ばれたいかどうかの意思があるという当たり前の事実を突きつけられた気がした。
「…私ったら相手の事をちっとも考えていませんでした。確かに、見ず知らずの好きでもない人の婚約者候補に選ばれたって言われても受け入れがたいかもしれません。私も夜空君以外の人達の事は全然知らなくて、最初は不安でした。だけど…話してみると皆いい人ばかりで、すんなりそれを受け入れていました。…でも、どうして碓氷さんはそこまでして私の伴侶になるかもしれない現状を嫌がっているんでしょうか…?」
碓氷さんが何故そう思っているのか、理由が分からない。そして彼の気持ちを知ってしまい、少しばかり寂しさを感じてしまう。しかし、同時に彼をもっと知りたい、理解したいという気持ちもふつふつと湧き上がってくる。
一葉さんは私の心境を察したのか、優しく私の手元にある『恋の詩集』に視線を向けた。
「月光家の使命や月姫という存在そのものに対して、彼なりの複雑な思いを抱いているのかもしれませんが…その真意は海紀自身に尋ねるしかないですね。ですが、それはまた別の機会に。今はあまり深く考えすぎない事です。さて…気を取り直して、引き続き二人で恋の詩の世界に浸ってみるのはどうでしょうか?歌の創造の為にはまだまだ多くの感情に触れる必要がある。」
そうだった、今は一葉さんとのデート中だ。
碓氷さんの件はまた別の機会に考えるとして、目の前の本に集中しないと一葉さんにも失礼というものだ。
「…そうですね、まだ色々な詩を読みたいです!続けましょ!」
私は小さく頷くと再び詩集を手に取り、一葉さんの隣に身体を寄せた。ページを捲ると、先程私を号泣させた悲しい詩の次には新しい恋の始まりを歌った様な希望に満ちた詩が目に飛び込んできた。私の心はまだざわついていたけれど、詩の一節一節を読み込むうちに、少しずつ心が落ち着いていくのを感じた。
一葉さんは何も言わずに、私の隣で共に詩の世界を旅してくれている。
この温かい空間の中で、この詩集に込められた様々な『恋』の感情を心ゆくまで吸収しようと決めた。




